アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
1977年 F1日本GP
2年目の日本GPで観客死亡事故発生
1977年イギリスGPでマクラーレンからデビューを飾ったジル・ビルヌーブ(ヴィルニューブ)。
彼の才能に目をつけた、エンツォ・フェラーリの抜擢により、1978年からはフェラーリのレギュラーシートを与えられ、1977年ラスト2戦もフェラーリから参戦の機会を得ることになっていた。
カナダGPでフェラーリの初レースをリタイアで終え、デビュー3戦目、フェラーリ移籍後の2戦目のレースとして、富士スピードウェイで開催される日本GPに乗り込んできた。
後に伝説のドライバーと言われるビルヌーブだったが、この年のマシンフェラーリ312T2はあ彼のドライビングスタイルに合わず苦闘していた。
日本GPでの予選はビルヌーブは20位。チームメイトのカルロス・ロイテマンは7位のグリッドを確保している。
ルーキー、ジル・ビルヌーブとロニー・ピーターソンが接触・・・そして
決勝レースの6周目、大事故は起きてしまった。
ストレートを、ロニー・ピーターソンのティレル P34(6輪たいれる)のスリップに付いていたビルヌーブのフェラーリは、第1コーナーでピーターソンのインから抜きにかかろうとした。
しかし、ピーターソンのティレルは6輪で、他のマシンと違うラインからコーナーに侵入しようとしていた。
結果として、2台のマシンのラインは交錯し、ビルヌーブがピーターソンのリアに追突する形で接触する。
ビルヌーブのフェラーリは、ピーターソンのリアウイングを踏みつぶすように宙に舞った。
そして地面に落ちたフェラーリは、激しく横転しながらコース脇の観客に向かって飛び込んでいった。
ビルヌーブのフェラーリが横転して飛び込んでいった地帯は、実は立ち入り禁止区域だった。
しかし、そこには多数の観客が入り込んでいて、マーシャルが危険なので退去するように整理しているところだったとも言われている。
その観客が居る場所に、ビルヌーブを乗せたフェラーリ312T2が突っ込んで行ったのだった。
▲ビルヌーブを乗せたまま横転するフェラーリ312T2。 マシンは回転が衰えず、先に見える立ち入り禁止区域の観衆に向かって吹き飛んだ。レース開始より場内放送で退避を求める放送も流れ、警備も常駐していたものの、事態は最悪の展開となる。
多くの人間がマシンに巻き込まれ重軽傷を負った。そして、カメラマンとガードマンが死亡するという大事故となってしまった。
フェラーリ312T2も、タイヤやサスペンションがちぎれ飛び、マシンの原形をとどめてはいなかったが、奇跡的にコクピットは守られていたため、ビルヌーブはほぼ無傷でマシンからおりることになる。
また、追突されリアウイングを失った、ロニー・・ピーターソンもコントロールを失いコースアウトを喫したものの、こちらも事なきを得ている。
接触から横転までの連続写真
▲ビルヌーブのマシンの残骸を取り囲む観衆。
この写真がある意味で、当時の警備及び主催側の管理状態の杜撰さをあらわすものといえる
事故により、ドライバーではない日本人が死亡したことに対して、日本のマスコミはヒステリックに責任を追及する。
非難はF1、それも当事者のドライバーに向けられた。
強引に抜こうとしたビルヌーブ、インを塞いだピーターソンと彼らには映ったのだろう
し、危険なドライブによる事故ととらえられたのだろう。
しかし、これはレース・アクシデントであり、また、当事者二人に確執は生まれなかった。
当時暴走族が多発し社会問題となっていた日本で、「スピード=悪」として捉えられていた時代。
F1が日本に来るのは、まだ早かったのかもしれない。
この事故が発端となり、主催者側の経営状態も悪化。富士でのF1は2回で幕を閉じルこととなる。
F1GPが再び日本に訪れるのは10年後、1987年鈴鹿サーキットでの日本まで待たなくてはならなかった。
そして2007年、新装なった富士スピードウェイに再びF1が戻ってくる。
あの事故から30年、すでに当時者のビルヌーブもピーターソンも、優勝したハントも、3位のデパイエすらも、この世にはいない。
日本のF1について振り返るとき、この事故は忌まわしい出来事ではあるが、決して忘れてはならないものと思う。
願わくば、30年前の沈鬱な雰囲気を払拭するくらいの、華々しい富士の復活を望みたい本ページは2007年にMOZAさんにより、提供された文章と画像を、管理人キャビン85が構成したものです。
■ 関連ページ
- 1982年 ベルギーGP(ゾルダー)ジル・ビルヌーブ
- 日本のF1レース:1977年 日本GP(予選・決勝リザルトあり)
|