1950年〜1959年
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年月日 |
氏名 |
カテゴリー・場所 |
状況 |
1959年 |
9月13日 |
ビリー・コーテス |
ストックカー |
(カナダ)本名ウィリアム・コーテス。
9月13日、カナダのブリッジポート・レースウェイ(オーバル)で開催されたストックカー・レースに参戦中事故死。享年41歳。 |
8月30日 |
エド・エリジャン(エリジアン) |
インディカー |
ミルウォーキーでのインディカー・レースで事故死。享年32歳。
インディ500には通算5回出場。1958年のINDY500で多重クラッシュにも巻き込まれた経験があった。また1955年にはビル・ブコビッチの事故の救助に当たったこともあった。
(画像は1958年インディ500出走時のもの ) |
8月5日 |
フィル・グリーン |
ツーリングカー テスト |
(イギリス)
8月5日、モンツァでツーリングカー、MGスパイダーのテスト走行中にレズモ・カーブでコースアウト、ランオフエリアですさまじい横転を喫し、収容されたモンツァの病院で死亡。享年21歳。 |
8月1日 |
ジャン・べーラ
Jean BEHRA
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スポーツカーレース(アブス) |
(フランス)本名:ジャン・マリー・ベーラ
アブスで開催されるF1ドイツGPにエントリーしていたフランスのジャン・べーラだったが、前日の前座スポーツカーレースにもポルシェRSKスパイダーで参戦。直線を急カーブでつないだレイアウトのコースで、死の壁と呼ばれた北カーブのバンク上段のコンクリートブロックに激突、死亡した。享年38歳。
F1は1952〜1959年に52回出走、2回の2位が最高位。
スポーツカーにも多く参戦し、1956年ニュルブルクリンク1000km、1957年セブリング12時間、1957年スウェリージ6時間などで優勝を記録している。
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8月1日 |
アイヴァー・ビューブ
Ivor Bueb
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F2 クレルモン・フェラン |
(イギリス)
クレルモン・フェランでのフランスF2第5戦「トロフィー・ド・オーバーニュ」。2周目にブルース・ハルフォード(ロータス16・クライマックス)がパンクからクラッシュしアイヴァー・ビューブ(クーパーT51・ボルグワード)も巻き込まれて事故死した。享年36歳。
F1は1957〜1959年に5回出走し、1957年イギリスGPでの8位が最高位。また、F1デビュー前にはル・マン24時間にも挑戦しており、1955年と57年に優勝した経歴を持つ。
チームメイトは55年がマイク・ホーソン、57年がロン・フロックハートだった。
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7月19日 |
ヴァン・デール・ジョンソン |
アメリカ |
(アメリカ)
ペンシルバニア州ウィリアムズグローヴでのUSAC非選手権レース「インディアナポリス・スウィープステークス」にカーティス4000・オッフィーで参戦。他車との接触により横転、頭部を強打し収容先の病院で死亡。享年32歳。 |
6月28日 |
アルフレード・ティナッツォ
ニーノ・クリヴェッラーリ
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FJ モンツァ |
(共にイタリア)
FJの規定にのっとったスポーツカーレース、イタリアFJレース第12戦「グラン・プレミオ・デラ・ロッテリア・ディ・モンツァ」
。
レースは51周を2ヒートに分けて走り、2ヒート目の7周目に事故が発生。ティナッツォとクリヴェッラーリの2人が死蔵した。。直前を走っていたロベルト・リッピのスピンが原因とされている。 |
6月21日 |
オダス・ハマー・ハウエル |
スポーツカー テスト |
(アメリカ)
6月21日、ジョージア州ラグランジュでスポーツカーの試運転中事故死。享年35歳。 |
5月24日 |
ペンチ・ケイナネン |
F3 フィンランド |
(フィンランド)
フィンランドのヴァーサで開催されたF3レースにクーパーで参戦。競走中にコースアウトしてランオフエリアにあった石に乗り上げて宙を舞い、車外に投げ出されて死亡。享年31歳。 |
5月19日 |
ボブ・コートナー |
インディ500 |
(アメリカ)
5月19日、新人としてルーキー・テストをクリアした翌日のインディ500プラクティス走行中、第3ターンで折からの突風に煽られて転覆し外壁に激突、即死した。享年32歳。 |
5月2日 |
ジェリー・アンサー(Jr)
Jerry Unser
(Jr)
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インディ500 |
(アメリカ)
インディ500のプラクティス走行中に第4ターン出口でスピンし、勢いで車体が裏返しになり滑走、ホームストレート上で炎上した。
ジェリー・アンサーJrは深刻な火傷を負いながらも救急隊によって救出されたが、予後の容態が不良で15日後の5月17日に死亡。享年26歳。
アンサー一族の始祖である、ジェリー・アンサーの長男で、兄弟にはボビー&アンサーSrがいる。アルJrの叔父にあたる。
アメリカのレース界で名門とされるアンサー一族の人物であるが、兄弟甥の華々しい結果とは裏腹に、ジェリー・アンサー(Jr)にとってインディは過酷なもので、デビューした前年1958年はスタート直後の多重事故に巻き込まれてフェンスを飛び越え負傷するという事故も体験していた。
(画像は1958年インディ500出走時のもの)
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4月19日 |
ディック・リンダー |
アメリカ |
(アメリカ)
4月19日、ニュージャージー州トレントンで開催されたUSACチャンピオンレース「トレントン100」にカーティス4000D・オッフィーで参戦。レース中ドン・ブランソンとの接触からスピンし外壁に激突、即死した。享年36歳。
シングルシーターよりもNASCARのようなストックカー・レースで名をあげており、1950年にはデイトン200、ハムバーグ200、ヴァーノン200の3つのグランドナショナル・レースを制している。 |
4月4日 |
ジョージ・エイミック
George Amick |
インディカー |
(アメリカ)
デイトナ・オーバルでのインディカー・レースで事故死。享年34歳。
前年1958年にインディ500に初挑戦、予選25位ながら忌わしき多重事故をかいくぐり2位入賞という好成績でこの年のルーキ・オブ・ザ・イヤーに輝いていた。
(画像は1958年インディ500出走時のもの) |
3月21日 |
エドウィン・ローレンス |
スポーツカー テスト アメリカ |
(アメリカ)
フロリダ州セブリングで開催されたWSC開幕戦「セブリング12時間」にジェームズ・クック、ラルフ・ダービンと組みマセラティ300Sで参戦。
夜間練習走行中にヘアピン手前でコースを外れ、数回横転しコース脇の土手をも飛び越えて大破炎上した。救急隊が駆けつけたものの、逆さまになった車体から救出することができず、ローレンスはそのまま死亡した。 |
2月11日 |
マーシャル・ティーグ
Marshall Teague
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テスト・インディカー |
(アメリカ)
デイトナ・オーバルでインディカーの練習走行中に事故死。享年37歳。
インディ500には3回出場し、1957年の7位が最高。
(画像は1957年インディ500出走時のもの ) |
2月7日 |
クロード・ストーレズ |
ラリー |
(フランス)
2月7日、南フランスで開催のラリー「ラリー・ド・ルーツ・デュ・ノード」にポルシェで参戦。足回りのトラブルからクラッシュし死亡。享年31歳。 |
2月6日 |
ハリー・ニール |
シングルシーター オーストラリア |
(オーストラリア)
豪州クレアモントでのシングルシーター・レースに参戦中事故死。 |
1月24日 |
サム・スタントン |
シングルシーター オーストラリア |
(オーストラリア)
シドニーのロイヤルスピードウェイで開催されたシングルシーター・レースに参戦中事故死。 |
1958年 |
10月31日 |
エロール・リード |
オーストラリア |
(オーストラリア)
豪州クレアモントでのシングルシーター・レースに参戦中事故死。 |
10月19日 |
スチュアート・ルイス・エヴァンス
Stuart Lewis-Evans
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F1・モロッコGP |
カサブランカのたアイン・ディアブ・サーキットを舞台に開催された初の(そして最後の)モロッコGP。
予選3位からスタートした決勝レースの後半42周目、ルイス・エヴァンスのバンウォールはホイールがロックするトラブルに見舞われ、さらにエンジンブローも併発し白煙を上げながらコースアウトし大クラッシュとなった。。気化した燃料が爆発的な炎を上げるなか横転したマシンに閉じ込められた。まもなく救出されたものの、全身に重度の火傷を負い、6日後の10月25日に死亡する。享年28歳。
(1958年ベルギー、同年ポルトガル)。また、ポールポジションも2回獲得(1957年イタリア、1958年オランダ)しており、新人らしからぬ活躍を見せていた。
(右の画像はモロッコGPで疾走するエヴァンス) |
10月19日 |
ハンス・ラジャー
警官1名
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モロッコGP前座スポーツカー |
(モロッコ)
F1モロッコGP当日の前座スポーツカー・レースにトライアンフで参戦。ウォームアップ走行中にコントロールを失いコースアウト。コース脇の警官一人を巻き込んで死亡した。 |
10月5日 |
バド・ベル |
アメリカ |
(アメリカ)本名ウィリアム・ベル。
オハイオ州ニューブレーメンでのレースでスピンし横向きに停止した際側面から衝突されて車外に投げ出され、さらに後続車に跳ねられて死亡。享年28歳。
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10月5日 |
ピーター・ミッシェル |
F3 ブランズハッチ |
(イギリス)
10月5日、ブランズハッチでのF3レースにクーパー・ノートンで参戦。トップ走行中にキドニー・ベンドでコースアウトしクラッシュ、車外に投げ出されて死亡。享年28歳。 |
9月28日 |
ジミー・リース
Jimmy Reece
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インディカー |
(アメリカ)
9月28日、トレントンでのインディカー・レースで事故死。享年28歳。
インディ500には通算6回出場しており1958年の6位が最高位。
(画像は1958年INDY500参戦時のもの) |
9月28日 |
チャールズ・マクアダムス |
スポーツカー アメリカ |
(アメリカ)
ニューヨーク州サウザンプトンでのスポーツカー・レースにジャガーで参戦中事故死。享年不明。 |
9月22日 |
観客3名 |
公道レース アルゼンチン |
(アルゼンチン)
同国ナヴァーロでの公道を使用した500マイル・レースで出場者マリオ・ゴンザレスのマシンが歩道に飛び込み、観衆3名が即死。ドライバーには怪我はなかった。 |
9月21日 |
ピーター・ホワイトヘッド
Peter Whitehead
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ツール・ド・フランス |
(イギリス)
ツール・ド・フランス(同名の自転車競技とは無関係のスポーツカーレース)に異母兄弟のグラハム・ホワイトヘッドと組んでジャガーを駆り参戦中、橋を走行中に脇の柵に衝突、突き破って川に転落しその衝撃で死亡した。享年43歳。
F1では1950〜1954年に10回出走し、1950年のフランスGPで3位入賞したのが最高位。また1951年には同郷のピーター・ウォーカーと組んだジャガーでル・マン24時間に優勝している。 |
9月14日 |
ボブ・ウォーカー |
スポーツカー アメリカ |
(アメリカ)本名ロバート・ウォーカー
イリノイ州エルジンでの非選手権スポーツカー・レースにフェラーリで参戦。砂塵の舞う強風の中視界不良からクラッシュ、横転。ロールバーは破壊され頭蓋骨骨折、頚椎損傷のため死亡。享年25歳。 |
8月3日 |
ピーター・コリンズ
Peter Collins
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F1・ドイツGP |
(イギリス)
ニュルブルクリンク・サーキットで開催されたF1ドイツGP決勝での事故。11周目、トップのブルックス(ヴァンウォール)を猛追していた、ピーター・コリンズのフェラーリ246だったが、高速フラッグプラッツでラインが膨らみ車体左部を脱輪、即席のガードレールが設置されていたがそれをも飛び越えて木に激突、ピーター・コリンズは車外に投げ出されて死亡した。享年26歳。
この事故を真後ろで目撃した同僚のマイク・ホーソンは衝撃を受け、翌周レースをリタイヤした。
F1では1952〜1958年まで32回出走しフェラーリ移籍後の1956年ベルギーとフランス、1958年のイギリスGPで勝利を収めている。
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7月13日 |
ヘクター・ダガ |
フォーミュラ・リブレ アルゼンチン |
(ブラジル)
アルゼンチン・コンコルディアでのフォーミュラ・リブレ・レース「プレミオ・デ・コンコルディア」に参戦中事故死。享年37歳。
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7月6日 |
ルイジ・ムッソ
Luigi Musso |
F1・フランスGP |
ランスで開催されたF1フランスGP決勝において、フェラーリ246で2位を走行中だった10周目、同僚ホーソンとのデッドヒート中に高速右コーナーでコースアウト、3〜4回横転したのちコース外の側溝に激突転落。ムッソは即死した。享年33歳。事故後の画像
1956年の開幕戦アルゼンチンGPでは優勝を記録。スポーツカーレースでもミッレ・ミリアやセブリング12時間など多くのレースで表彰台を獲得していた。 |
7月4日 |
ヴィック・エリンズ |
アメリカ |
(アメリカ)
アイオワ州シーダーラピズでのシングル・シーターレースに参戦中事故死。 |
7月4日 |
ハロルド・ハートリー |
スポーツカー アメリカ |
(アメリカ)
7月4日、コネチカット州レイクヴィルのライムロックパークで開催された非選手権スポーツカー・レースにトライアンフTR3で参戦中事故死。享年26歳。 |
7月4日 |
アート・ビッシュ
Art Bisch
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インディカー |
(アメリカ)
7月4日、アトランタでのインディカー・レースの事故で重傷を負い、2日後の7月6日死亡。享年31歳。
インディ500にはこの年に初出場したが、スタート直後多重衝突に巻き込まれてリタイアという憂き目に遭っていた。
(画像は同年のINDY500出走時のもの) |
6月29日 |
ニック・ドゥイノ |
ミジェットカー |
(アメリカ)本名ニコラス・ドゥイノ・ジュニア。
6月29日、ペンシルベニア州ラングホーンでのミジェットカー・レースの予選走行中に事故死。享年21歳。 |
6月29日 |
ジェームス・デーヴィス |
スプリントカー |
(アメリカ)
オハイオ州セントメリーでのスプリントカーレースに参戦中、急に進路を変えたエド・エリジャンのマシンを避け切れずに車輪が接触、宙を舞ってコースに叩きつけられ死亡。享年28歳。 |
6月29日 |
観客
(アントン・ヘッケンミューラー) |
スポーツカー |
(ドイツ)
6月29日、西ドイツ(現ドイツ)のアーベンハイム空軍基地の滑走路を使用した非選手権のスポーツカー・レース「フラッグプラッツレンネン」で、ウォルフガング・ザイデル運転のBMW-507がブレーキの故障からコース脇仮設スタンドの観客席に突入。ヘッケンミューラーが即死し、他4名が重傷を負う事故となった。ドライバーのザイデルは無事だった。 |
6月21日 |
リノ・モーラ
グイード・ゼルネリ(コ・ドライバー)
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ミッレ・ミリア |
(共にイタリア)
ミッレ・ミリアに参戦、ブレシアから10kmほど離れたガヴァルドという地点で道路脇のフェンスに激突、両名とも病院に搬送されたのち死亡
した。ゼルネリ享年34歳、モーラ享年不明。二人は義理の兄弟という間柄で、また事故現場は皮肉にもモーラの故郷でもあった。
注:ミッレ・ミリアは前年の大惨事により世界選手権から外されたが、ブレシア自動車クラブの主催で1958年と1959年、1961年の三度にわたり、同じ「ミッレ・ミリア」の名称で公道区間は制限速度内、ヒルクライム区間はフリーのタイムトライアルと組み合わせて開催されている。コースレイアウトは1958年の場合では、ブレシアからスタートを切りオーストリア国境のトリエステ、冬季五輪で有名なコルティナ・ダンペッツォ、ボルザーノ、レッコ、ベルガモを経由して再びブレシアに戻る全長約1574km(約978マイル)のコースだった。
(画像は1958年のコースレイアウト)
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6月21日 |
ジャン・マリー・ブラシン |
ル・マン24時間 |
(フランス)
ル・マン24時間にアンドレ・グェルフィと組みジャガーDタイプで参戦。ダンロップ・カーブでダン・ガーニー&ブルース・ケスラー組(事故時運転
はケスラー)のフェラーリi250TRと接触して横転大破、2台ともに炎上した。ケスラーは火傷を負いながらも脱出できたが、ブラシンはマシンの中で死亡。 |
6月14日 |
ジョージ・フォンダー
George Fonder
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ミジェットカー |
(アメリカ)
6月14日、ペンシルベニア州ハットフィールドでのミジェットカー・レースに参戦中事故死。享年40歳。
インディ500には通算2回出場。1949年…20位(116周バルブ)、
1952年…15位(3周遅れ)
※戦績上出走は上の2戦だが、1954年の大会ではフランク・アーミとレン・ダンカンの車に交代として数周走った記録も残る。
※画像は1952年インディ500出走時のもの |
6月1日 |
エルヴィン・バウアー
Erwin Bauer
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ニュルブルクリンク1000km |
(ドイツ)
WSC第4戦のニュルブルクリンク1000kmにゴットフリート・コーチャートと組みフェラーリ250TRで参戦。レース自体は10位完走したのだが、チェッカーフラッグに気付かずアタックを続け、ゴールしてスロー気味の車を抜こうとしコントロールを失いクラッシュ。重傷を負い二日後の6月3日に死亡。享年45歳。
F1は1953年のドイツGP(このレースの34台出走は1レース最多出走記録)で予選33位・決勝リタイアの一戦を記録したのみ。スポーツカーでは1954年のニュルブルクリンク1000kmで4位の戦績がある。 |
5月30日 |
パット・オコーナー
Pat O'Connor
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INDY500 |
第42回INDY500でレース一周目に15台による大多重衝突が発生。一人のドライバーが命を失った。
最前列の3台がローリングの時点から隊列を崩しており、各車隊形がバラバラのままスタートが切られる。バックストレートでは中段グループが大きく横に広がってトップ集団に割って入る危険極まりない接近戦となる。その中でポールのラスマンと2番手のエリジャンの接触をきっかけに、いたる場所でも接触事故が多発。パット・オコーナー(スマーKK500G・オッフィー/No.4)も他車と接触し外側フェンスに激突してひっくり返りながら炎上した。。
オコーナーの衝撃は致命的で、アスファルトに全身を強打した事により、全身打撲で死亡した。享年30歳。
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5月25日 |
エルヴァー・ルンド |
ミジェットカー |
(アメリカ)
ウィスコンシン州マディソンでのミジェットカー・レースに参戦中事故死。享年29歳。
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5月18日 |
アーチー・スコット・ブラウン |
スパ・フランコルシャン |
(イギリス)
スパ・フランコルシャンでのスポーツカーレース「グランプリ・オートモビル・デ・スパ」にリスター・ジャガーで出走中、高速コーナーでクラッシュして重傷を負い、翌19日に死亡。享年31歳。
片腕の名手として有名で、右腕が無いというハンデにもかかわらず、スポーツカーレースで幾多の活躍を見せた。
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5月10日 |
クレメント・ヤコブス |
スポーツカー アメリカ |
(アメリカ)本名クレメント・ヴィンセント・ヤコブス・ジュニア。
5月10日、オハイオ州コロンバスでのスポーツカー・レースにトライアンフで参戦中事故死。享年31歳。 |
5月9日 |
セルジオ・デル・ステファニアン |
イタリア |
(イタリア)
タルガ・フローリオにアドルフォ・マッシェラルドと組みフェラーリ250GT・LWBで参戦。プラクティス走行中にコーナーを曲がりきれずクラッシュ、病院に搬送されたものの同日中に死亡した。 |
4月30日 |
ワーナー・エンゲル |
タルペン・ラリー |
(ドイツ)
オランダ・ザンドフールトでのタルペン・ラリー第11ステージ・クラッセメンツプルーフでワーナー・エンゲルの駆るメルセデスベンツ300SL・ロードスターがジャック・シアーズのオースチン・ヒーレーと接触しコースアウト、横転するという事故で死亡した。享年35歳。
事故の原因はブルーフラッグの指示にエンゲルが驚いたか、急ブレーキをかけた事だといわれている。
数日続いていたタルペン・ラリーは、この事故が元で継続中止という結果となった。 |
4月28日 |
ボウ・リチャードソン(コ・ドライバー) |
タルペン・ラリー |
フランス・ヴァレンスでのタルペン・ラリー第5スペシャル・ステージでディック・ウェイダー駆るサーブが道路脇のトラクターに激突。コ・ドライバーとして同乗していたボウ・リチャードソン
(スウェーデン)が重傷を負い、翌日29日に死亡した。享年不明。ドライバーのディック・ウェイダーは重傷。 |
ディック・ウェイダー |
4月20日 |
観客1名 |
アメリカ |
テキサス州オデッサでのローカル・レースで女性ドライバー、マリー・タイラーの運転する車が観客席に飛び込み、さらにレッカー車に衝突した。この事故で観客のエドワード・シェパード(アメリカ)が死亡した。享年49歳。 |
4月7日 |
デビッド・ダンネージ |
テスト イギリス |
(イギリス)
ブランズハッチにてF3マシン、クーパー・ノートンのテスト走行中にパドック・ヒル・ベンドでコースアウトし事故死。 |
4月3日 |
ホセ・アントニオ・ラトゥフ |
アルゼンチン |
(アルゼンチン)
母国アルゼンチンにてフォードのテスト走行中に事故死。 |
3月23日 |
グゥイン・スターレー |
NASCAR |
(アメリカ)本名グゥイン・エドワード・スタンレー。
ヴァージニア州リッチモンドでのNASCARにシヴォレーで参戦中事故死。享年30歳。死の8日前のファエッテヴィルでのレースでは2位入賞を果たしていた。 |
2月24日 |
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キューバ |
事故によるものではないが、レース中に大きな事件がが発生している。
キューバのマレコンで開催された非選手権スポーツカー・レース「グラン・プレミオ・デ・キューバ」にて、ファン・マヌエル・ファンジオの誘拐、また観衆7名の死亡「事件」が発生している。
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1月26日 |
ヨルグ・マニャスコ |
スポーツカー アルゼンチン |
(アルゼンチン)
ブエノスアイレスでの非選手権スポーツカーレース「1000キロ・デ・ラ・シウダッド・デ・ブエノスアイレス」にマセラティ300Sで参戦。カーブでオーバースピードのためコースアウトし横転、頭部を強打し、病院に搬送されたものの同日死亡。 |
1月1日 |
ニール・オオスズイゼン |
スポーツカー 南アフリカ |
(南アフリカ)
南ア・ケープタウンでの非選手権スポーツカー・レース「ファルスベイ100・クラブマンズ・ハンディキャップレース」にトライアンフTR3で参戦。
フェンスに側面から衝突して車外に投げ出され、ヘルメットも飛んだために頭部に致命傷を負い死亡。享年27歳。 |
1957年 |
12月7日 |
ジョージ・シャレード3世
ジェームス・ファイアストン
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スポーツカー |
(共にアメリカ)
ロサンゼルスでのローカル・スポーツカー・レースにおいて、ジャガーXK120Mで参戦していたジョージ・シャレード3世が、フェンスに激突、
柵に車体が食い込み引きちぎられるような形でクラッシュしたため、右足もろとも切断。その場で出血多量のため死亡した。享年25歳。
ジェームス・ファイアストンはフレイザー・ナッシュで参戦。横転事故を起こし、シートベルトの破損により車外に投げ出され死亡した。享年30歳。
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12月3日 |
マヌエル・キュビロス |
アルゼンチン |
(アルゼンチン)
母国でのツーリスモ・カレテラ・シリーズ(ラリー形式)「グラン・プレミオ・アルゼンティーノ」に参戦中、コントロールを失いコース脇に駐車して
いたトラックに衝突し死亡。享年41歳。
画像は1939年、コ・ドライバーとしてレース界にデビューした時のもの(画像右) |
11月24日 |
ジャルマ・ペソラート |
フォーミュラ・リブレ |
(ブラジル)本名ジャルマ・ルシアーノ・ペソラート。
インテルラゴスでのフォーミュラ・リブレ・レース「ミル・ミルハス・ブラジレイラス」に参戦中コースを横切ろうとした馬を避けようとしてクラッシュし死亡した。享年不明。
この大会ではコースに動物が多く集まり、犬などに衝突してクラッシュする車も数台いたという。 |
11月10日 |
セシル・エリオット |
ミジェットカー |
(アメリカ)本名セシル・ウィルソン・エリオット。
テキサス州ダラスでのミジェットカー・レースに参戦中事故死。享年39歳。 |
10月27日 |
マイク・スタッフォード |
ローデシア |
(ローデシア→現ジンバブエ)
ローデシアでのシングルシーター・レース「ハーニー・サマー・ハンディキャップ」にクーパー41・コヴェントリー・クライマックスで参戦。コース脇の溝に車輪を落とし横転、頭部に致命傷を負い病院に運ばれたものの死亡。 |
10月14日 |
ロン・シールズ |
速度記録 |
(イギリス)
モンツァ・バンクでの速度記録挑戦会にクーパー40・コヴェントリー・クライマックスで参加。バンクから本コースに差し掛かる際、右後輪がその繋ぎ目に接触、大きく宙を舞って横転炎上、逆さまになったマシンの中で焼死した。享年37歳。 |
10月6日 |
アンドレ・レーン
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モンレリー1000km |
(フランス)
モンレリー1000kmで事故死。
この年ミッレ・ミリアとル・マン24時間にも参加している。ミッレ・ミリアではルノー4CVでエントリーのみ、ル・マン24時間ではマセラティでブルース・ハルフォード、フランコ・ボルドーニと組みスタート直後にリタイヤとなっっている。実質上はクーパー専属のF3ドライバーであり、本格的スポーツカーレースの参戦がこのモンレリー1000kmだった |
9月27日 |
ジム・ジョンソン |
速度記録会 |
(オーストラリア)
豪州クーナバラブランでの速度記録会にMG・SPLで出走、準備練習中に事故死。 |
9月2日 |
ボビー・マイヤーズ |
NASCAR |
(アメリカ)
9月2日、サウスダコタ州ダーリントンでのNASCARグランドナショナル・シリーズ「サザン500」にオールズモビルで参戦中事故死。享年30歳。 |
8月30日 |
グラッデン・ミラー |
ドラッグカー・レース アメリカ |
(アメリカ)
8月30日、オクラホマシティーでのドラッグカー・レースにフォード・クーペ・1932モディファイドで出場。加速中、160km/hに到達した時点で爆発し、火の玉となってコースを暴走。数分後に消火措置がとられたが
全身第3度の火傷という重傷を負い、意識不明のまま9月17日に死亡した。享年27歳。 |
8月29日 |
アンドレア・フラスケッティ |
テスト イタリア・モデナ |
(イタリア)
モデナでFerrari-Dinoのテスト走行中、コントロールを失いコースアウト。不幸にも軍事演習に使用されていた、キャタピラのブロックマークが深々とついている地点で溝にタイヤが絡み横転、車外に投げ出されて死亡した。享年29歳。
春のカステロッティ、61年のカビアンカの事故とともにモデナの悪夢として
知られている。 |
8月24日 |
ヘンリー・ニカザ |
ミジェットカー |
(アメリカ)
ウィコンシン州ミルウォーキーでのミジェットカー・レースに参戦中事故死。享年37歳。 |
8月11日 |
ロン・ポリス |
ミジェットカー |
(アメリカ)
メリーランド州ハージェルスタウンでのミジェットカー・レースに参戦中事故死。享年21歳。 |
7月14日 |
ハーバート・マッケイ・フレーザー(アメリカ)
Herbert Mackay-Fraser
ビル・ホワイトハウス(イギリス)
Bill Whitehouse
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F2・ランス |
ランスでのF2選手権第9戦「クプ・インテルナショナーレ・ド・ヴィテッセ」でマッケイ・フレーザー(ロータス・イレブン)とホワイトハウス(クーパーT39)との接触事故が発生。両者とも死亡した。フレーザー享年30歳。ホワイトハウス享年48歳。
フレーザーの事故は名門ロータスのワークスチームの初の死亡事故となってしまった。
(画像はハーバート・マッケイ・フレーザー) |
7月8日 |
アラン・シアーズ |
フォーミュラ・リブレ |
(南アフリカ)
南ア・イーストロンドンでのフォーミュラ・リブレ・レース「イーストロンドン・ウインターハンデ」にMGスペシャルで参戦、フェンスに激突して宙返り
した後車外に投げ出されて死亡。享年37歳。
一昨年のテックス・キンゴン、前年のダグ・ダフに続き三年連続の同レースでの死亡事故となった。 |
7月6日 |
チャールズ・チャンドラー |
ツーリングカー |
(アメリカ)
7月6日、オハイオ州アムハーストでのツーリングカーレースで事故死。享年31歳。 |
6月20日 |
アル・アルパーン |
ミジェットカー |
(アメリカ)本名アルバート・アルパーン。
6月20日、ミシガン州グランドラピズでのミジェットカー・レースに参戦中、ジム・ナイトというドライバーと接触しフェンスに激突、即死した。享年31歳。 |
6月9日 |
ウィム・ガーラック |
スポーツカー |
(オランダ)
ザンドフールトでのスポーツカー・レースにポルシェで参戦中、ボッシュ・コーナーでクラッシュし翌日死亡。享年44歳。 |
5月30日 |
ピエロ・カリーニ
アントニオ・デ・ボルヘス・バッレート
|
フォレス6時間 |
ピエロ・カリーニ(イタリア/画像)
本名ピエトロ・カリーニ。5月30日、サン・エティエンヌでのフォレス6時間でテスタロッサをドライブ中、他車に追突されて中央分離帯に激突、裂けた車体に巻き込まれて即死した。享年36歳。
アントニオ・デ・ボルヘス・バッレート(ポルトガル)
フォレス6時間で死亡。カリーニの事故と関連性があるかどうかは不明。享年26歳。
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5月18日 |
ホセ・フェリックス・ロペス |
アルゼンチン |
(アルゼンチン)
ブエノスアイレスのサン・ニコラスでのメカニカ・ナシオナル・フェルザ・リミテーダシリーズ(ハコ車)に参戦。予選走行中の事故で死亡。享年44歳。 |
5月15日 |
キース・アンドリュース
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インディ500 |
(アメリカ)
インディ500のプラクティス走行中に第4ターンで内側フェンスにマシン後部から激突、車体が圧縮され、ステアリング周辺に身体を強打した事による全身打撲で即死した。。享年36歳。インディ500には3回目の出場だった。
(画像は1956年インディ500出走時のもの)
|
5月12日 |
ヨゼフ・ヒュベルト・ゴットゲンス |
ミッレ・ミリア |
(オランダ)ミッレ・ミリアでトライアンフを
駆り単身疾走中に事故死。時間的には下のポルターゴの事故の数分後と思われる。享年39歳。 |
5月12日 |
アルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵
エドモンド・ネルソン
観客 13名
|
ミッレ・ミリア |
WSC第3戦のミッレ・ミリアにアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵(スペイン)とエドモンド・ネルソン(アメリカ)のペアがフェラーリ335Sで4位走行中、ブレシア郊外のグイディッツォーロという村の付近でタイヤが破裂、激しくスキッドしながらコースを外れて道の脇で見ていた観衆の中に飛び込み横転した。炎こそ出なかったもののポルターゴ、ネルソンの二名と観衆13名が即死するという大惨事となった。
ポルターゴ享年28歳、ネルソン享年40歳。
例年のように発生する重大事故の事態を重く見た主催者は以後この大会を中止する(1982年に復活)。
関連ページ:1957年ミッレ・ミリア |
5月5日 |
ロード・エバリー男爵5世 |
ヒルクライム |
(イギリス)本名ロバート・エジェルトン・グロスヴェノー。
英国プレスコットでのヒルクライム・レースにジャガーCタイプで参戦中、横転事故で死亡。享年43歳。 |
4月19日 |
ソマク・ライ
チャーリー・ソフィ(コ・ドライバー)
|
サファリラリー |
(共にアフリカ)
サファリ・ラリーにてシムカ・アロンデを駆りタンザニアのルヴュ川付近の橋を走行中、コントロールを失って川に転落し水没。車から引き出された二人だが、翌20日に死亡。共に享年不明。 |
4月14日 |
ジジ・オリバーリ
リノ・アプルッツィ
マルゴット・アプルッツィ(夫人)(コ・ドライバー)
|
スポーツカー・レース イタリア |
非選手権スポーツカー・レースのジーロ・ディ・シチリアにおいて、ジジ・オリバーリ(イタリア)がマセラティ2000を駆り疾走中、モディカという町を過ぎた付近で、雨のため濡れた路面にタイヤをとられコースアウト、民家の壁に衝突して炎上、死亡した。享年不明。
また、詳細が定かではないものの、同レースにてフィアットもクラッシュ炎上、ドライバーのリノ・アプルッツィとコ・ドライバーのマルゴット・アプルッツィ(夫人)が死亡している。この事故や、後のミッレ・ミリアの事故が相次いだため、イタリアは当分の期間公道におけるレースの自粛をする措置を取った。 |
4月7日 |
観客1名 |
アメリカ ドラッグカーレース |
4月7日、ルイジアナ州クロウレイでのドラッグカー・
レースでコントロールを失ったマシンが観客区域に
飛び込み、車輪でワトソン・バートランド夫人(アメリカを巻き込んで死亡させた。享年18歳。ドライバーは軽傷。 |
4月7日 |
ジャック・ジョーダン |
ミジェットカー |
(アメリカ)
アリゾナ州フェニックスでのミジェットカーレースに出走中、側壁に衝突して横転。救出されたが頭部に重傷を負い、二日後の4月9日に死亡。享年35歳。 |
3月23日 |
ボブ・ゴルディッチ
|
セブリング12時間 |
(アメリカ)
WSC第2戦セブリング12時間にS・H・アーノルトと組みブリストルを駆っていた40周目(優勝周回数は197周)、単独事故を起こして死亡。 |
3月14日 |
エウジェニオ・カステロッティ(キャステロッティ)
|
テスト・モデナ |
(イタリア)
雨のモデナでフェラーリのテスト走行中、スピンしたマシンがフェンスを突き破ってガレージ奥の建物まで飛び激突、即死した。享年26歳。事故現場の画像
F1は1955〜1957年まで14回出走し、2位を2回(55年モナコ、56年フランス)、と3位を1回(55年イタリア)記録している。
スポーツカーレースにも挑戦し、1956年のミッレ・ミリアとセブリング12時間を連勝、1953年のカレラ・パナメリカーナ・メヒコと1955年のタルガ・フローリオで3位入賞という好成績を残す。最期となった1957年も1月のブエノスアイレス1000kmに勝ち、意気揚々とした中での惨事だった。 |
1957年春 |
レオニド・カラチェフ |
スポーツカー |
(ソ連→現ロシア)
春、ベラルーシ・ミンスク近郊での連邦選手権スポーツカー・レースにカラチェフ・ASK(自作)で出走中事故死。享年不明。 |
2月15日 |
ジョン・ハミルトン |
オーストラリア |
(オーストラリア)
2月15日、豪州クレアモントでのシングルシーター・
レースに出走中事故死。 |
1月12日 |
ケン・ホウォートン |
スポーツカーレース・ニュージーランド |
(イギリス)
1月12日、ニュージーランド・アードモアでのスポーツカーレースでFerrari 750 Monza Spyder Scaglietti を運転中に事故死。享年40歳。事故時の画像
F1は1952〜1955年に15回出走し、デビュー戦となった1952年開幕戦スイスGPの4位が最高位。マシンはフレイザーナッシュだった。
F1のみならずラリーや耐久レースにも挑戦し、1954年のダンドロッドTTでピーター・ホワイトヘッドと組みジャガーを駆って6位入賞の成績を残す。 |
1956年 |
10月21日 |
トロイ・マクヘンリー |
スポーツカー アメリカ |
(アメリカ)愛称ドクター。外科医の資格を持つ。
カリフォルニア州ポモナでの非選手権スポーツカー・レースにポルシェ550・スパイダーで参戦中、ブレーキの故障からコースを飛び出し、干草の束に突っ込んで横転、頭部に致命傷を負い死亡した。享年
41歳。 |
10月7日 |
ルイ・ロジェ
ブノワ・ミュジー
|
スポーツカーレース |
モンレリーで開催されたクプ・デュ・サロン(サルーンカーレース)で接触事故が発生。ルイ・ロジェのFerrari750Monzaはコースを外れて岩壁に激突。ブノワ・ミュジーの車は炎上するという大事故になった。ミュジーはその場で死亡、ロジェは重症を負って22日後の10月29日に死亡した。
ミュジー享年不明、ロジェ享年50歳。
ルイ・ロジェは1950年には息子のクラウデュと共にル・マン24時間を制したこともあった。(写真はルイ・ロジェ) |
10月7日 |
アレッサンドロ・ゾッキ・ラマッツィ |
ヒルクライム |
(イタリア)
イタリア・トレポンティでのヒルクライム・レース「トレポンティ・カステルヌーヴォ」にアルファロメオ1900TIで参戦中、コーナーリング・ミスからコース脇の木に衝突して死亡。享年25歳。
1950年代のスポーツカー・レースに多く出走し、1955年のミッレ・ミリアではスペシャル・ツーリング部門で4位の成績を残している。 |
9月26日 |
チャールズ・マークランド |
テスト イギリス |
(イギリス)
9月26日、英国シルヴァーストーンでアストンマーティンDB3Sのテスト走行中、オーバースピードからコーナーで転覆し死亡した。享年25歳。 |
9月23日 |
ブルース・ファンダーバーグ |
テスト(ストックカー) アメリカ |
(アメリカ)
オハイオ州リマでのストックカーのテスト走行中に外側ガードレールに接触し横転、車外に投げ出されて重傷を負い、翌24日に死亡。享年23歳。 |
9月2日 |
観客1名 |
アメリカ |
オハイオ州コールドウォーターでのローカルレースで一台のマシンの車輪が脱落、不幸にも観客の一人、キャロル・ハウエル(アメリカ)がその直撃を受けて死亡した。まだ5歳の女の子だった。 |
8月19日 |
ピート・スネル |
スポーツカー アメリカ |
(アメリカ)本名ウィリアム・ハワード・スネル。
カリフォルニア州アルカナでの地方クラブが主催するスポーツカー・レースにトライアンフTR2で参戦中、マシンが横転する事故が発生。保護帽が割れて、スネルは頭部にダメージを負い死亡した。享年41歳。
この事故を悔やんだスネル氏の友人達が、1957年に「スネル記念財団」を設立し、1959年にヘルメットの安全規格である「スネル(SNELL)規格」を制定し、後の安全性の向上に大きく寄与することとなった。
スネル氏の被っていた割れた保護帽は、今でもスネル記念財団に保管されている。
スネル・メモリアル・ファウンデーショ http://www.smf.org/who.html
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8月12日 |
チャーリー・カム |
オーストラリア |
(オーストラリア)
豪州シドニーでの小型シングルシーター・レースに参戦中他車と接触して横転、横転中に安全ベルトの破損から車外に投げ出されて死亡。享年不明。 |
8月4日 |
ビル・ギャラハー |
ミジェットカー アメリカ |
(アメリカ)本名ウィリアム・ギャラハー。
ワシントン州シアトルでのミジェットカー・レースに参戦中、スロットルの故障からフェンスに激突、病院に搬送されたものの全身の骨折がひどく翌5日に死亡。享年27歳。 |
8月4日 |
観客1名 |
ストックカー アメリカ |
ウエストヴァージニア州クラークスバーグでのストックカー・レースで多重事故からグレン・ボルヤードのマシンがフェンスに激突、観客席に破片を飛び散らせる結果となった。この事故で、13歳の少年イロール・ベーゼルが破片の直撃を受け即死、他8名の観客が重軽傷を負う惨事に。ドライバーのボルヤードは軽傷を負った。 |
7月28日 |
ルイ・エリー
|
ル・マン24 |
(フランス)
レース中に4台のマシンが巻き込まれた多重事故が発生。この事故での死亡者はでなかったが、事故の4周後に現場に到達したルイ・エリーは、他者をオーバーテイクにかかる。まだ撤去されていなかった事故の残骸に激突したエリーは車外に投げ出されて死亡した。
詳細ページ:1956年ル・マン24時間レース
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7月22日 |
ジョセフ・シングルトン |
ツーリングカー オーストラリア |
(オーストラリア)
7月22日、豪州シドニーでのツーリングカー・レースにホールデンで参戦中事故死。享年40歳。 |
7月15日 |
ウィリアム・ドブソン |
スプリントカー アメリカ |
(アメリカ)
オレゴン州ポートランドでのスプリントカーレース「レース・フォー・ライヴス」に参戦中、ステアリング・ギアの故障からコースアウトしてフェンスに激突、病院に搬送されたが約2時間後に死亡。享年27歳。 |
7月9日 |
ダグ・ダフ |
フォーミュラ・リブレ |
(南アフリカ)
南ア・イーストロンドンでのフォーミュラ・リブレ・レース「イーストロンドン・ウインター・ハンデキャップ」にサルトール・スペシャルで参戦。後輪の脱落からコースアウトして木製のポールに頭部を直撃し死亡した。享年35歳。 |
7月6日 |
セルジオ・シニョルフィ |
テスト |
(イタリア)
7月6日、イタリア・マラネロでFerrari250Europaの試運転中に事故死。享年31歳。 |
6月 |
ベルヘ・メランデル |
ラリー |
(デンマーク)
スペインのサ・ラ・マンチャで開催されたヨーロッパ・ラリーにフォルクスワーゲン1200で参戦。コースを外れ谷に転落し死亡。 |
6月30日 |
アニー・ブシュケ
Annie Bousquet
|
ランス12時間 |
(フランス/女性)
F1フランスGPのサポートとして開催された「レースランス12時間耐久レース」。ブシュケは、同じく女性のイザベル・ハスケルと組みマリンブルー・カラーのポルシェで参戦。事故は開始早々の17周目に発生。コースを外れ草地で
横転し、ブシュケは死亡した。前日ドイツでポルシェをテストし、その足でこのレースに参戦した事から、過度の疲労が事故の原因と見られている。享年32歳。 |
6月23日 |
ラルフ・ウィリアム・ブラウン |
スプリントカー |
(アメリカ)
ニューヨーク州ランカスターでのスプリントカー・レースで他車との接触からタイヤが脱落して横転、頭部に重傷を負い、翌24日に死亡。享年34歳。 |
6月17日 |
ポール・フリッケンジャー |
ヒルクライム |
(アメリカ)
バーモント州ベニントンでのヒルクライム・レース「マウント・エキノックス・ヒルクライム」にマセラティ4CLで参戦。走行中に燃料漏れから火災に巻き込まれて焼死。享年31歳。 |
5月10日 |
トーマス・プリディー
|
NASCAR |
クリント・マクヒュー(アメリカ)
トーマス・プリディー(アメリカ)
アーカンソー州リーハイでのNASCARグランドナショナルシリーズのレースにマクヒューがオールズモビル、プリディーがシヴォレーで参戦。6月9日の予選中にマクヒューがスピンの後外壁に激突して即死。享年28歳。ダートレースからNASCARにデビューする矢先での事故だった。
翌10日の決勝レースでは、39周目にプリディーが他車と接触、二十数回も横転した末に車外に投げ出されて死亡。享年27歳。
(画像はクリント・マクヒュー。1955に年撮影されたもの) |
5月9日 |
クリント・マクヒュー |
6月8日 |
ハロルド・レイノルズ |
NASCAR |
(アメリカ)愛称ディッキー。
ノースカロライナ州グリーンズボロでのNASCARストックカー・レースに参戦中、25周目に他車からの幅寄せに遭いフェンスに押し潰され、さらに金網により車体が粉砕した。激しい事故のわりには外傷は少なかったものの、内臓に損傷を負い死亡。享年25歳。 |
6月2日 |
ルドルフ・ザイアーウェイン |
ラリー |
(ドイツ)
西ドイツ・タウナスでのラリーに参戦中、コースを外れて浅い谷に転落、全身打撲の重傷を負い三日後の6月5日に死亡。享年不明。
画像は1947年に同国で開催された非公式のBMW競走でのもの(画面左が彼)。ナンバープレートがそのまま付けられているのは、この時期レース自体が進駐軍により禁止されていたため、「試運転」の名目とするためとか。
1937〜1938年にル・マン24時間にも参戦しており、ともに総合6位の成績を残した |
5月27日 |
ボビー・マークス |
スプリントカー |
(アメリカ)
ミズーリ州カンザスシティでのスプリントカー・レースにファーガソン・フォードで参戦中、最終ラップで横転事故を起こし死亡。享年26 |
5月20日 |
観客5名 |
スポーツカー |
ベルギーのシメイで開催された非選手権のスポーツカー・レース「フロンティエールGP」で1周目クリス・スレルフォールのブリストルとモーリス・カイエのマセラティが接触、マセラティはコースを外れて立入禁止区域にいた観衆の中に飛び込んで大破炎上した。
この事故で炎上した車の下敷きとなった男性二人が焼死、また車体の直撃を受けた女性二人と12歳の少年も即死。ドライバーのカイエは大火傷を負ったものの命に別状はなかった |
モーリス・カイエ |
5月20日 |
イアン・ダドリー |
スポーツカー |
(イギリス)
5月20日、ブランズハッチでのスポーツカー・レースにブリストルで参戦中事故に遭い重傷、二日後の22日に死亡。享年23歳。 |
5月15日 |
ルイス・トメイ |
カースタント |
(アメリカ)本名ルイジ・ジルバート・トメイ。イタリア系。
インディ500にも通算8回出場などレーシング・ドライバーとして活躍、引退した後は俳優、またスタントマンとしても活躍した。
5月15日、ハリウッドで映画撮影中のカースタントで失敗、燃え盛る残骸の中で命を落とした。享年46歳。
インディ500には通算8回出場。1935年…28位(47周バルブ)、1936年…27位(44周エンジン)、1937年…10位、1938年…23位(88周ロッド)、1939年…15位(14周遅れ)、1940年…16位(190周エキゾースト・パイプ)、1941年…11位、1946年…26位(34周オイル・ライン)
(画像は1937年インディ500出走時のもの)
トメイがスタントとして参加した映画の中には「20000 Leagues Under the Sea」(1954年)(邦題:海底二万哩」もある。 |
5月13日 |
グンナー・ワールベルグ |
スポーツカー |
(スウェーデン)
5月13日、ストックホルムでのスポーツカー・レースにホルバインHH48・BMWで参戦中転覆事故を起こして死亡。享年42歳。
ネクタイを締めてコクピットにおさまるという、個性的な一面もあった。 |
5月6日 |
ニコライ・コザロウィツキー |
スポーツカー |
(ロシア)
、フィンランドのヘルシンキで開催された非選手権のスポーツカー・レース「ヘルシンキGP」にロータス11で参戦。公式テスト走行中に前方の排除されていない事故車に正面衝突して炎上し死亡した。享年43歳。 |
6月17日 |
ボブ・スウェイカート
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スプリントカー |
(アメリカ)
サレムでのスプリントカー・レースで、コースアウトしカメラマンのブース席に突入、マシンは炎上しスウェイカートは死亡した。享年30歳。
この事故により少なくとも三人の一般人が重傷を負っています。
INDY500には5回出場し、1955年には優勝している。
(画像は優勝した1955年インディ500出走時のもの ) |
4月29日 |
ジョン・ヒース
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ミッレ・ミリア |
(イギリス)
ミッレ・ミリアの事故で重傷を負い、二日後の5月1日に死亡。享年42歳。
友人のジョージ・エイブケイシス(F1・耐久ドライバー)とともにHWM(ハーシャム・ウォルト・モータース)を創設した事でも知られる。 |
マックス・バーニー(スイス) |
WSC第3戦として開催されたミッレ・ミリア。ひどい雨の中のレースで事故が発生した。
バーニー&バダラッコはアルファロメオ・ジュリエッタ、ブッチ&ピウコはメルセデスベンツ300SLでの出場だった。
出走は365台、完走182台、優勝はエウジェニオ・カステロッティ(単独)の
Ferrari290MM。 |
イヴォ・バダラッコ(コ・ドライバー)
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ヘルムート・ブッチ(ドイツ) |
ヴォルフガング・ピウコ(コ・ドライバー) |
4月29日 |
ジョン・ベイン |
スポーツカー |
(イギリス)
英国チャーターホールでのスポーツカー・レースにフレイザー・ナッシュで参戦中、コースをそれ土手に激突して跳ね返り、コースに叩きつけられた。ベインは車外に放り出されて死亡。享年27歳。
なお、跳ね返ってきた事故車を避けようとして数台の車がこの事故に巻き込まれている。 |
4月22日 |
ウォルト・フォークナー
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ストックカー・レース |
(アメリカ)
ヴァレホで開催されたストックカー・レースの予選走行中に事故死。享年36歳。
インディ500にも4回の出場経験があり、1955年には5位を記録している。
(画像は5位入賞した1955年インディ500出走時のもの)
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4月22日 |
アーニー・マカフィー
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デルモンテ100マイル・トロフィー |
(アメリカ)
ペブル・ビーチでのデルモンテ100マイル・トロフィーにFerrari121LM・スパイダー・スカグリエッティで参戦中に事故死。享年38歳。
兄弟のジャック・マカフィーも1954年に事故死している。 |
4月21日 |
ジョン・マクビティー |
NASCAR |
(アメリカ)
ペンシルバニア州ラングホーンで開催されたNASCARグランドナショナルシリーズのレースにシボレーで参戦中事故死。享年29歳。 |
4月14日 |
アーサー・ブライアント |
スポーツカー |
(アメリカ)
オールトン・パークでのスポーツカー・レースにアストンマーティンDB3Sで出走中事故死。享年39歳。 |
4月9日 |
リビオ・パルメッジアーニ |
ラリー |
(イタリア)
非選手権のスポーツカー・ラリー「ジーロ・ディ・シチリア」にラファエロ・フォグリアールと組みオスカ1100で参戦。深夜走行中にコースを間違えて、本コースを探している最中民家の外壁に衝突し死亡した。享年43歳。コ・ドライバーのフォグリアールは軽傷を負っただけで済んだ。 |
4月8日 |
ドン・オールズ |
スプリントカー |
(アメリカ)
アリゾナ州フェニックスでのスプリントカーレースにマクロン・ミラー・オッフィーで参戦。レース中にダートコースの轍につかまって横転、頭部に致命傷を負い死亡した。享年40歳。 |
4月2日 |
トニー・デニス
バート・ロジャース
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スポーツカー |
英国グッドウッドでのスポーツカー・レース「ラヴァント・カップ」にデニスはジャガーD-XKD510、ロジャースはサンパット・ブリストルで参戦。デニスは他車との衝突で炎上し焼死、ロジャースは横転事故の末首の骨を折って死亡した。
トニー・デニス(イギリス)享年26歳、
バート・ロジャース(イギリス)享年不明。 |
3月 |
ドン・キャンベル |
ミジェット・カー テスト |
(アメリカ)本名ドナルド・ミルトン・キャンベル。
フロリダ州ハイアラエでミジェット・カーのテスト走行中にクラッシュ、重傷を負って病院に収容されたが、2週間後に怪我の影響と思われる動脈瘤の破裂により死亡した。 |
1月15日 |
デイヴ・ジェンディアン |
ドラッグレース |
(アメリカ)
カリフォルニア州ウィルミントンでのNHRAドラッグレースで事故死。享年20歳。 |
1955年
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12月18日 |
フランシスコ・ホセ・クロクエール
観客 4名
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スポーツカー |
(ベネズエラ)愛称パンチョ・ペペ。
コロンビア・バランクイラでのスポーツカーレースにマセラティCGS2000で参戦。直線でコースを外れ横転、観客4人を巻き込み死亡した。享年35歳。
この年の春にはファンジオからの誘いもありセブリング12時間に参戦するなどスポーツカー・レースに活路を見出した矢先、奇しくもファンジオが優勝したレースで命を落とす結果となった。
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11月6日 |
ジャック・マグラス
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インディカー |
(アメリカ)
インディカー・レースの「ボビー・ボール・メモリアルレース」にカーティス4000・オッフィー(通称ヒンクル)で参戦中に事故死。享年36歳。
インディ500には8回出場しており最高位3位。1948年と1950年以外は、彼がパレードラップの最前列にいるのが通例で、そのロケットダッシュもひとつの見所でもあった。
(画像は3位入賞を果たした1954年インディ500出走時のものだが、この同型車で運命をともにする結果となった) |
10月初頭 |
ドン・マローン |
インディカー |
(アメリカ)本名ドナルド・マローン。
コロラド州リトルトンでのインディカー・レースにクーバ・オッフィーで出走中事故死。享年28歳。 |
10月2日 |
チェット・ビガム |
スプリントカー |
(アメリカ)本名ジェームス・チェスター・トレビス・ビガム。
カリフォルニア州クロヴィスでのスプリントカー・レースで路面の溝にタイヤがとられ横転、空高く舞い上がり金網に宙吊りとなった。ビガムは事故の際頭部に致命傷を負い、ほぼ即死だった。享年33歳。 |
9月17日 |
ディック・メインウェアリング |
ダンドロッドTT |
ロビー・マッケンジー・ロウと組みエルヴァMK1で出場していたダンドロッド・ツーリスト・トロフィーで34周目(全周回は84周)に単独事故を起こして即死した
多くの死傷者を出したレースとなったが、出走49台、完走27台となり、スターリング・モス&ジョン・フィッチのメルセデスベンツ300SLが優勝した。 |
9月17日 |
ビル・スミス
ジム・メイヤーズ
|
ダンドロッドTT |
WSC第5戦として開催されたダンドロッド・ツーリスト・トロフィー。スタート直後に多重事故が発生。
クーパーにのるメイヤーズが他車を抜こうと誤ってコースアウトしポストに激突、爆発炎上して跳ね返ったところに後続車が突っ込み炎上した。
この事故をきっかけとして、ジム・ラッセル(クーパー)とピーター・ジョップ(ロータス)が突っ込み、さらにビル・スミス(コンノート)、フリードリッヒ・クレシュマン(ポルシェ)、ケン・ホウォートン(フレイザーナッシュ)、ランス・マックリン(オースチン・ヒーレー)、ロバート・ベリー(ジャガー)の5台が避けるまもなく次々と激突、メイヤーズとスミスが即死した。
ビル・スミス(イギリス)享年20歳。
ジム・メイヤーズ(イギリス)享年35歳。
(写真は1953年エンパイヤトロフィーでのジム・メイヤーズ)
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9月9日 |
トム・フリードマン |
アメリカ |
(アメリカ)本名トーマス・フリードマン。
9月9日、ウィスコンシン州ミルウォーキーでのシングルシーター・レースにマセラティで出走。横転事故で火災が発生、大火傷を負った状態で救出されたが、9日後の9月18日に死亡した。享年28歳。 |
9月5日 |
ヨゼフ・バリストレリ |
ミジェット・カー |
(アメリカ)
9月5日、ウィスコンシン州シャワノでのミジェット・カーレースに参戦中事故死。享年25歳。 |
8月28日 |
ビクター・スパングラー |
スポーツカー |
(ドイツ)
8月28日、ニュルブルクリンクでのスポーツカー・レース(Sportcar Deutsche Meisterschaft GT)シリーズ「ADAC インターナショナル500キロメーターレンネン」にポルシェ356で参戦。橋の支柱に激突して死亡。 |
8月20日 |
マイケル・キーン |
グッドウッド9時間耐久レース |
(イギリス)
グッドウッド9時間耐久レースにブリストルT20で参戦中事故死。享年26歳。
1954〜55年にはル・マン24時間に参戦し、ジョン・ラインと組んでブリストル450を駆り9位・8位という好成績を残していた。 |
7月11日 |
テックス・キンゴン |
フォーミュラ・リブレ |
(南アフリカ)
7月11日、南ア・イーストロンドンでのフォーミュラ・リブレ・レース「イースト・ロンドン・ウインター・ハンデ」にマセラティ6Cで出走、コーナーリングで膨らみ外側の縁石に乗り上げ転覆、頭部を強く打ち死亡。享年45歳。 |
7月10日 |
マーガレット・プリチャード |
アメリカ |
(女性/アメリカ)
7月10日、オハイオ州での非選手権に出走中、コーナーリングでオーバースピードのためか横転、頭部に致命傷を負い死亡。享年34歳。 |
7月10日 |
ピエロ・ヴァレンザーノ
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コッパ・デレ・ドロミーティ |
(イタリア)愛称ジーノ。
7月10日、コルテナ・ダンペッツォでのコッパ・デレ・ドロミーティにマセラティA6GCSで参戦。ジュリオ・カビアンカ、エウジェニオ・カステロッティに次いで3位走行中、コース脇の石に衝突し転覆炎上、観客が救助に当たったもののその甲斐もなく死亡した。享年30歳。
ル・マン24時間には1952〜53年と1955年に参戦している。 |
7月10日 |
ジェリー・ホイト |
スプリントカー |
(アメリカ)本名ジェラルド・ホイト。
オクラホマ州オクラホマシティーでのスプリントカー・レースに出走中、接触事故から金網に激突して死亡。享年26歳。
インディ500にも通算4回出場し、同年1955年にはPPも獲得していた。(決勝リタイア)
(画像は1955年インディ500出走時のもの) |
7月9日 |
ドン・ビューマン |
スポーツカー |
(イギリス)本名ドナルド・ビューマン
ウィックロウでのスポーツカーレース(非選手権)「レインスター・トロフィー」コンノートで参戦、事故死。享年26歳。
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6月21日 |
ビル・スリーマン |
ヒルクライム |
(オーストラリア)
英国ジャージーでのヒルクライム・レースにブリストルで出走中事故死。 |
6月12日 |
マリオ・ダラ・ファベラ |
ヒルクライム |
(イタリア/画像)
6月12日、コレチオでのヒルクライム・レース「カンピオナート・イタリアーノ・サリータ・パルマポッジオ・デ・ベルチェット」にFerrari500で出走中
コースアウトしワラ束、岩石とぶつかったのちその先の民家の壁に激突、車体は全壊して即死した。享年29歳。
なお激突された壁が倒壊し、その民家の女性二人も負傷している。 |
6月11日 |
ピエール・ルヴェー(ルべー)
Pierre Levegh
他 観客、スタッフなど約81名
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ル・マン24時間 |
ル・マン史上、モータースポーツ史上にに残る大惨事が発生した。
オースチン・ヒーレーに乗るランス・マックリンとメルセデスのピエール・ルヴェーが接触、オースチン・ヒーレーに乗り上げる形でルヴェーのメルセデスは宙に舞い満員の観客席に飛び込み、爆発炎上した。この時、衝撃でエンジンなどのマシンの部品が観客席に飛び込み、ルヴェーをはじめ観客・スタッフ含めて80人以上が死亡する大惨事となった。ピエール・ルベー享年49歳。
この事故をうけ、メルセデスはモータースポーツ活動を中止。以後30年間レースの現場に現れることはなかった。また、フランス政府などはモータースポーツ活動を禁止する事態となった。
犠牲になった観客の方達の氏名一覧(1955ル・マン24時間) |
5月30日 |
ビル・ブコビッチ
Bill Vukovich
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INDY500 |
史上初のインディ三連覇を目前にしていたアメリカン・ヒーロー、ブコビッチ。その夢は他車のトラブルに巻き込まれるという形で幕を閉じた。
5番手スタートのブコビッチ(リンゼイ・ホプキンスKK500C・オッフィー / No.4)は56周目に入った時点でトップ快走中だった。その周、バックストレートですでに周回遅れにされている3台が多重事故を起こす。
ロジャー・ウォード(クヅマ・オッフィー/No.27)とアル・ケラー(サムトレイラーKK2000・オッフィー/No.42)が接触しウォードが横転、コース中央に停止した。そこにジョニー・ボイド(スマーKK500D・オッフィー/No.39)とビル・ブコビッチがさしかかる。残骸と破片をかわすには一旦内のグリー
ンへ逃げるという策もあったが、ブコビッチは残骸とボイドの隙間、数十センチのラインを選んだ。
結果、同じように回避したボイドのタイヤと接触、ブコビッチは大きく外側に弾き飛ばされ、フェンスをも飛び越えてコース外の駐車場に転落、何度もトンボ返りを打った。ブコビッチのマシンは火を噴き、マシンの中で死亡した。享年36歳。(1954年大会優勝時のもの)
(35年ののち、ブコビッチの孫であるビル・ブコビッチV世も事故で死亡することになる)
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5月26日 |
アルベルト・アスカリ
Alberto Ascari
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モンツァ(テスト) |
(イタリア)
1952・53年のF1世界チャンピオン。
1955年のモナコGPでブレーキ不調の状態で走行を続けていたアスカーリは海側のシケインで姿勢を乱し、マシンもろとも海に飛び込むダイビング事故を起こす。しかし、幸いにもアスカーリは自力で水面に浮上し軽傷で済んだ。
しかし、その4日後の5月26日、モンツァでスポーツカーのテストを行なっていた愛弟子のエウジェニオ・キャステロッティから借りたiで試走中、現在のアスカリ・シケインと呼ばれる旧ヴィアローネ・カーブ(当時は緩やかな左コーナー)で原因不明の転覆事故で死亡した。享年36歳。
詳細ページ:1955年アルベルト・アスカリ
アルベルトの父、アントニオ・アスカリも1925年にレース中の事故で死亡しており、親子共にレースで命を落としたことになる。
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5月21日 |
ピエロ・ピサノ |
スポーツカー |
(イタリア)
イタリア・サルジニアでの非選手権スポーツカー・レースにフィアット500Cで出走中事故死。 |
5月16日 |
マヌエル・アユロ |
INDY500・予選 |
インディ500にカーティス500C・オッフィーで参戦。プラクティス走行中に第1ターンでスピンし外壁に激突して死亡。享年33歳。
インディ500は4回出場し、1953年の13位が最高位。
(画像は1953年インディ500出走時のもの) |
5月8日 |
アルマンド・フランソワ |
スポーツカー |
(イタリア)フランス系イタリア人。
5月8日、イタリア・ゴリチアでの非選手権スポーツカー・レースにオスカMT4で出走中、外壁に衝突して即死。 |
5月1日 |
ジョバンニ・ブリンチ
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ミッレ・ミリア |
(ともにイタリア)
WSC第3戦のミッレ・ミリアでフェラーリ212を駆り走行中に単独事故で死亡。
優勝したのはスターリング・モス&デニス・ジェンキンソン組のメルセデス
ベンツ300SL。出走534台/完走279台。
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ドランド・マリンコーニ(コ・ドライバー) |
5月1日 |
ジュゼッペ・ドニーニ |
ミッレ・ミリア |
(イタリア)
5月1日、ミッレ・ミリアにファウスト・カステラリンと組みフィアット600で出走、深夜走行中に一般乗用車と衝突事故を起こし、ドライバーのドニーニが死亡。享年50歳。
現場はブレシア近郊のモンティチアリという地点だった。 |
5月1日 |
ジャック・ドラモンド |
スポーツカー |
(アメリカ)
5月1日、カリフォルニア州シャフターでのスポーツカー・レースにオースチン・ヒーレー100で出走中事故死。享年30歳。 |
5月1日 |
マイク・ナザルク
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スプリントカー・レース(アメリカ) |
(アメリカ)
ラングホーンでのスプリントカー・レースで事故死。マシンはナイキスト・オッフィーだった。享年33歳。
インディ500には過去3回出場しており、1951年には2位に入っている。
(画像は2位入賞を果たした1951年インディ500の出走時のもの) |
4月16日 |
ニール・デンソン |
スポーツカー |
(イギリス)
オールトン・パークでのスポーツカー・レースにジャガーXK120で出走中事故死。 |
4月11日 |
マリオ・アルボルゲッティ
観客9名
|
F1 ポー |
(イタリア)
ポーでの非選手権のF1レースで、ヘアピンで減速できずコースアウトしてストローフェンスに突っ込み大破、ヘルメットがもぎとられ、頭部に致命傷を負い死亡した。享年26歳。
また、この事故で観客9人も犠牲となっている。 |
3月20日 |
ラリー・クロケット |
スプリントカー |
(アメリカ)
ペンシルバニア州ラングホーンでのスプリントカー・レースに出走中事故死。享年28歳。
インディ500には1954年に一度出場、9位完走を果たしルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。(画像は1954年インディ500出走時のもの) |
1月31日 |
イアン・マウンテン
観客1名
|
オーストラリア |
(オーストラリア)
豪州オレンジでのシングルシーター・レース「サウスパシフィック・トロフィー」にマウンテン・プジョーで参戦。ヒルクライム形式のこのレースで路上に飛び出した観衆を避けようとコースアウトしクラッシュ、即死した。享年25歳。
この事故で観衆一人が巻き込まれて死亡している。 |
1954年 |
11月23日 |
ビクトリオ・メンギ(アルゼンチン)
レオポルド・オルベラ・ザバド(アルゼンチン/コ・ドライバー)
|
カレラ・パナメリカーナ・メヒコ |
WSC第6戦(最終戦)のカレラ・パナメリカーナ・メヒコで5周目に3台を巻き込む激しい接触事故が発生。巻き込まれたのはメンギ、サバドが乗るシヴォレー・ベルエアと、カルロス・ディアズ・ガルシラーゾ(メキシコ)&フェデリコ・カラジン(同/コ)組のステュードベーカー、ブルーノ・ボニーニ(イタリア)&ピエロ・ザナボーニ(同/コ)組のアルファロメオ1900TI。
シヴォレーは損傷が激しく救出作業もままならず、そのうちに火災が発生、2名が死亡する事態となった。
テストから相次いで死亡事故が発生したため、この年限りでこの大会は中止という事態になった。なお最後の大会の覇者はウンベルト・マリオーリのフェラーリ375。出走150台/完走85台。 |
11月23日 |
ジャック・マカフィー(アメリカ)
フォード・ロビンソン(アメリカ/コ・ドライバー) |
カレラ・パナメリカーナ・メヒコ |
WSC第6戦(最終戦)でスタートして間もなFerrari375のジャック・マカフィー&フォード・ロビンソン組が死亡事故を起こしていた。
ドライバーのジャックは1956年に死亡したアーニー・マカフィーとは兄弟。
|
1954年11月? |
ファン・アントニオ・ガッティ(アルゼンチン)
アルフレッド・ドーラ(アルゼンチン) |
テスト |
カレラ・パナメリカーナ・メヒコのテスト中にもファン・アントニオ・ガッティ&アルフレッド・ドーラ(いずれもアルゼンチン)が乗るフォードが死亡事故を発生。 |
10月24日 |
ルー・フィガロ |
NASCAR |
(アメリカ)
NASCARグランドナショナル・シリーズ「ウィルクス160」にハドソンで出場、フェンスに屋根から激突し死亡。享年37歳。 |
10月1日 |
ルイザ・レゾーニコ
フランチェスコ・シモンタッチ(コ・ドライバー)
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ラリー |
ルイザ・レゾーニコ(女性/イタリア)
フランチェスコ・シモンタッチ(イタリア)
10月1日、ジーロ・ディ・イタリアにランチアで出走中、決勝線地点でコントロールを失い脇の壕に落ちて全壊、コ・ドライバーのシモンタッチとともに即死した。レゾーニコ享年21歳、シモンタッチ32歳。 |
9月10日 |
ロベール・アンドレ・ブシャール
モレル(コ・ドライバー)
|
ラリー
ツール・ド・フランス |
(フランス)
セントローレンでのツール・ド・フランスでオースチン・ヒーレーを駆り出走中事故死。享年55歳。
モレルという名のコ・ドライバーも死亡した。 |
9月3日 |
フレデリック・クレマー |
ラリー
ツール・ド・フランス |
(ドイツ)
フランスでの「ツール・ド・フランス」にオースチン・ヒーレーで出走中、コースアウトして谷底に転落し死亡。享年48歳。コ・ドライバーは彼の
妻がつとめたが、こちらは重傷を負った。米国ハートフォード大学の歴史の先生という肩書きを持つ。 |
8月29日 |
ジェルマン・バーニ |
フォーミュラ・リブレ |
(アルゼンチン)
8月29日、母国ラス・ロカスでのフェルザ・リブレ・レース「プレミオ・デ・ラス・ロカス」に出走中事故死。享年44歳。 |
7月31日 |
オレフノ・マリモン |
F1・ドイツGP(ニュルブルクリンク) |
ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPの予選中、マセラーティのオレフノ・マリモンがクラッシュ。コッテンボルンのロングカーブでブレーキの不調により
コースアウトしたもので、マリモンのマシンはコース外の土手に右前方から激突。車体前部圧迫による胸部破裂で死亡。享年30歳。
ル・マン24時間にも1951年と1953年に参戦。1953年はファン・マヌエル・ファンジオと組みアルファロメオでエントリーしていた。
|
7月18日 |
ネド・トムリンソン |
ミジェットカー |
(アメリカ)
オハイオ州コロンブスでのミジェットカー・レースで事故死。享年31歳。 |
7月17日 |
ワリー・キャンベル |
テスト |
(アメリカ)
インディアナ州サレムでスプリントカー・レースに出走するためナイキスト・オッフィーで練習中事故死。享年28歳 |
7月5日 |
ボブ・スコット |
インディカー |
(アメリカ)
サウスカロライナ州ダーリントンでのインディカー・レース「ダーリントン200」にカーティス4000・オッフィーで出走中事故死。享年25歳。
インディ500には通算2回出場。1953年の大会では、衰弱死亡したカール・スカーボローのマシンを引き継ぐというエピソードを残している。
1952年…29位(49周ドライブシャフト)
1953年…31位(14周オイル・リーク)
上の戦績は自身のもの。179周終了時点でスカーボローのマシンを引き継ぎ、10周遅れで12位完走を果たした。(画像は1953年インディ500出走時のもの) |
5月16日 |
アラン・カールソン |
F3 |
(スウェーデン)
スウェーデンでのF3レース「スマーランズロペット」にスウィーブTT・JAPで出走。コースアウトしてランオフエリアの砂利を滑走し、電信柱を支えるワイヤーに首を切断されて死亡。 |
5月2日 |
チャック・スタップルトン |
スプリントカー |
(アメリカ)
インディアナ州ウインチェスターでのスプリントカー・レースに出走中事故死。享年28歳。 |
5月2日 |
アンドレ・プシュコル(フランス)
フランク・サイス(フランス/コ・ドライバー)
|
ミッレ・ミリア |
WSC第3戦のミッレ・ミリアで事故死。下の事故から2時間ほど経過した後のことだった。
マシンはシトロエン15six。 |
5月2日 |
フランコ・マンチーニ(イタリア)
S・ダルシン(イタリア/コ・ドライバー)
|
ミッレ・ミリア |
WSC第3戦のミッレ・ミリアでマセラティのA6GCSを駆るマンチーニ、ダルシン組が事故死。
出走378台/完走182台。優勝はアルベルト・アスカリ(単独)のランチアD24だった。 |
4月21日 |
ギ・メレス
観客の少年
|
クーペ・ド・パリ市街地レース |
(フランス)
クーペ・ド・パリ市街地レースの練習走行中での事故が発生。タルボにのるメレスは前を行くルノー4CVのギャモをを追走。ギャモには青旗が提示されていたが、ギャモは接戦中からかそれを見止める事ができず、そうしているうちにコーナーでブレーキングミスからクラッシュしてしまう。そこにさしかかったメレスだったが、メレスの車と事故車との余裕ある間隔は僅か10数センチで、減速すらしていなかったメレスは半開きとなったルノー4CVのドアに接触、大きくバランスを崩してコース脇のコンクリートフェンスに激突した。その場所で観戦
していた観客、主に三人の子供をマシンが直撃。メレスと巻き込まれた子供の一人はその場で死亡した。メレス享年43歳。
ギ・メレスはル・マン24時間に1950〜1953年にタルボ・ラーゴで参戦し、1950年から二年連続2位入賞を果たしている。
|
4月4日 |
オラジオ・プリッツィ |
|
(イタリア)
ジーロ・ディ・シチリアにパオロ・グラビナのコ・ドライバーとしてマセラティA6GCSに乗り参戦。シアッカ近郊の橋を渡る際、太陽光線の反射でドライバーが一時盲目となりクラッシュ、橋の欄干に激突しプリッツィが翌日死亡した。享年不明。ドライバーのグラビナも重傷を負った。 |
1954年春 |
マイク・ホーソーン |
F1非選手権・シラクーザGP |
他者と絡んでクラッシュ、転倒、炎上したホーソーン。チームメイトのゴンザレスがマシンを止めて救助に向かったが、マシンから投げ出されたホーソーンは幸運にも火傷と軽傷で済んだ。 |
3月14日 |
レイ・スミス |
ミジェットカー |
(アメリカ)本名レイモンド・スミス。
カリフォルニア州サクラメントでのミジェットカー・レースで予選走行中に事故死。享年37歳。 |
3月8日 |
ジャック・ランハム |
フォーミュラ・リブレ |
(オーストラリア)
メルボルンでのフォーミュラ・リブレ・レース「アルトゥーナ・レース」にロンバード・バウホールで参戦。コーナー進入時に多重事故に巻き込まれて重傷を負った。ランハムは約半年間昏睡状態にあったが9月4日死亡した。 |
2月20日 |
ディック・カウフマン |
NASCAR |
(アメリカ)
フロリダ州デイトナビーチでのNASCARスポーツマン・モディファイド・ディビジョンシリーズ、「Daytona Speed Weeks - Saturday's
Race for Modifieds and Sportsmen」にオールズモビルで参戦。2周目の横転事故で死亡。享年23歳。 |
1月24日 |
フォレスト・グリーン
|
ブエノスアイレス1000km |
(アルゼンチン)本名:エリック・フォレスト・グリーン
WSC開幕戦のブエノスアイレス1000kmでカルロス・スタビルと組みアストンマーティンDB3で走行中の14周目に単独事故が発生。マシンは横転ののち逆さまになって炎上、グリーンは自力で車外に出るも衣服についた火が消えず、火だるまになった。助けを求めてグリーンは群集に近づき、その群集がそれぞれの衣服を用いてグリーンの火を消したものの、火傷は致命的で、翌25日に死亡した。享年50歳。
このれーすの優勝はジュゼッペ・ファリーナ&ウンベルト・マリオーリ組のフェラーリ375。出走35台/完走16台のレースだった。
|
1月17日 |
フィリップス・セシル |
ミジェットカー |
(アメリカ)
フロリダ州ジャクソンビルでのミジェットカー・レースに出走中事故死。享年28歳。 |
1月4日 |
ボビー・ボール |
ミジェットカー |
(アメリカ)本名ロバート・K・ボール。
アリゾナ州フェニックスでのミジェットカーレースに出走中多重事故で重傷を負い、2月27日に死亡。享年28歳。
インディ500は通算2回出場していて、1951年…5位、1952年…32位(34周ギア・ケース)の記録が残る。
(画像は1951年インディ500出走時のもの) |
1954年 |
エンリコ・プラテ |
アルゼンチン |
1954年のアルゼンチンのレース中に事故死。
国籍、生年月日、享年不明
ちなみに、この事故死によってエンリコ・プラテのチームで走っていたエマヌエル・デ・グラッフェンリードと言う選手が現役を引退している。 |
1953年 |
12月16日 |
ベズル・クック |
ヒルクライム |
(南アフリカ)
南アフリカ・ダーバンでのヒルクライム・レース「バーマン・ドライブ・ヒルクライム」にMGスペシャルで出走中事故死。 |
11月21日 |
フェリーチェ・ボネット |
カレラ・パナメリカーナ・メヒコ |
(イタリア)
カレラ・パナメリカーナ・メヒコでランチアD24を駆って上位走行中、ジョバンニ・ブラッコと接触してコースアウトし電柱に激突、車体が真っ二つに裂け爆発炎上するという大事故に遭い死亡。享年50歳。
F1では1951年のイタリアGP3位が最高位。
ル・マン24時間には52年と53年に参戦、52年は同郷のエンリコ・アンセルミと組みランチア・アウレリアを駆って8位完走。53年はこれも同郷のジーノ・ヴァレンザーノと組みランチアD20で出場、66周目ピットインした際にスターターの故障でリタイアとなっている。 |
11月19日 |
アントニオ・スタニョーリ
ジュゼッペ・スコトゥッツィ(コ・ドライバー)
|
カレラ・パナメリカーナ・メヒコ |
(イタリア)
WSCの第7戦(最終戦)カレラ・パナメリカーナ・メヒコに参戦中、タイトな山岳路で岩壁に激突、ドライバーのアントニオ・スタニョーリは意識不明となり翌日の20日に死亡した。
この年ル・マン24時間にも同郷のピエトロ・パルミエーリと組み、アルファロメオでエントリーしていたが、予選通過ならずレースを去っていた。
またこの事故で、コ・ドライバーのジュゼッペ・スコトゥッツィも死亡した。 |
9月18日 |
シャルル・ド・トルナコ
Charles de Tornaco
|
F2・イタリア |
(ベルギー)
イタリアのモデナで開催されたイタリア国内のF2選手権第4戦「グラン・プレミオ・ディ・モデナ」プラクティス中に、フェラーリ500で事故により死亡。享年26歳。
なお、この事故により出走予定していた他のフェラーリi3台はレースをボイコット
している。
F1では1953・53年に4戦に参戦し、、デビュー戦となった1952年のベルギーGP7位が最高位。 |
9月6日 |
ファン・タンボリーニ |
アルゼンチン |
(アルゼンチン)
同アルゼンチン・エスペランツァでのフェルザ・リブレ・レース「プレミオ・シウダッド・デ・エスペランツァ」に出走中事故死。享年45歳。 |
7月?日 |
ボビー・ベアード |
スネッタートン |
(イギリス)
数日前にスネッタートンでのレースでクラッシュした時の傷が思わしくなく、7月25日に死亡した。享年42歳。 |
6月14日 |
トム・コール
|
ル・マン24時間 |
(アメリカ)
ル・マン24時間でルイジ・キネッティと組みFerrari340MMを運転中、175周目(優勝周回は304周)にダンロップ・コーナーを駆け下りた後のS字コーナーで直進し外壁に激突。トム・コールは車外に投げ出され即死した。 |
6月7日 |
ピエール・ボナファース |
イェール12時間 |
(フランス)本名はピエール・ボンコンパニ(Pierre-Boncompagni)
愛称パニボン。6月7日、イェール12時間で事故死。
1952年には下記のトム・コールとフェラーリを駆ってル・マン24時間に参戦している(結果リタイア)。 |
5月30日 |
カール・スカーボロー |
INDY500 |
19番手からのスタートしたカール・スカーボロー(KK2000・オッフィー/No.73)。 異常とも思える酷暑の中179周を走行しチームメイトのボブ・スコットに交代した。交代の際も疲労したスカーボローは自力でマシンから降りることが出来ず、メカニックに引き出される状態だった。
スカーボローは病院に収容されたが、「酷暑による著しい過労と脱水症状」により死亡が確認された。享年38歳。
(この年の大会は5月ながら異常とも思える酷暑に見舞われた。この時代はまだドライバーに対するクーリング対策などが無く、体調不良の選手はチームメイトであれば運転を交代する事が許可されてはいた。しかし、多くのドライバーは出来るだけ交代なしに走り抜こうとしていた。それでもこの年は100周前後から交代が相次いでいた)
(写真は最期のレースとなった当年1953年のインディ500でのもの)
|
5月15日 |
チェット・ミラー |
INDY500 |
インディ500のプラクティス中にチェット・ミラー(カーティス・ノーヴィ)が第1ターンでクラッシュして死亡。享年50歳。
インディ500にはなんと16回出場しているベテランで、最高位は1938年に3位を記録している。
(画像は最高位(3位)を記録した1938年大会でのもの)
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4月26日 |
ルク・デスコランジェ(フランス)
ピエール・ジルベルト・アグノン(フランス/コ・ドライバー)
|
ミッレ・ミリア |
この年からWSCに組み込まれたミッレ・ミリアにて初の死亡事故。
総勢490台が参戦し、WSC第2戦として4月26日に開催されたが、その当日の事故だった。
優勝はジャンニーノ・マルゾット&マルコ・クロサラ組のフェラーこの年からWSCに組み込まれたミッレ・ミリアにて初の死亡事故。
総勢490台が参戦し、WSC第2戦として4月26日に開催されたが、その当日の事故だった。
優勝はジャンニーノ・マルゾット&マルコ・クロサラ組のフェラーリ340MM。 |
1月18日 |
観客10名 |
F1・アルゼンチンGP |
大勢の観客がサーキット内に入り込み、コースのすぐ脇に観客が取り巻く状況の中でレースがスタート。3位を走行していたジョゼッペ・ファリーナの目前で観客(8歳の少年)がコースを横断しようとしたため、これを避けようとしたファリーナのフェラーリが群衆の中に突っ込むという事故が発生。コースに飛び出した少年はファリーナのマシンに跳ねられて死亡。ファリーナのマシンは草地に飛び出しながらも回避動作をしますが叶わず、木製のフェンスとネットを突き破って観客の中に突入。ファリーナは無事だったが、観客の10名が死亡、30名以上が負傷するという惨事となった。 |
1952年 |
11月2日 |
ジョー・ジェイムズ |
マイナーレース |
(アメリカ)本名:ヨセフ・デビッド・ジェイムズ
サン・ホセでのマイナーレース「サン・ホセ100マイル」にワトソン・オッフィーで参加。予選中に他車との接触で横転したのち第一ターンの外壁へ激突、重傷を負い、3日後の11月5日死亡した。享年27歳。
インディ500にも、1951・52年の通算2回出場。
(画像は1952年インディ500出走時のもの) |
10月19日 |
シド・バフキン |
スプリントカー |
(アメリカ)本名ロバート・レオ・バフキン。
インディアナ州フォートウェインでのスプリントカー・レースにウィルソンレンジャーで出走中に事故死。享年26歳。
|
9月21日 |
フランク・ルプトウ |
ストックカー |
(アメリカ)
ジョージア州アトランタでのストックカー・レース(グランド・ナショナル・シリーズ)にハドソン・ホーネットで参戦。駆動部の破損によりクラッシュ
し死亡。享年46歳。
このシリーズには1950年から参戦しており、1951年のシャーロットでのレースでは5位の記録がある。 |
9月20日 |
ビル・シンドラー (ウィリ
アム・シンドラー) |
スプリントカー・レース |
(アメリカ)
スプリントカー・レースでの事故で死亡。、この事故で観客数名にも犠牲者が出た。享年43歳。
シンドラーは1936年にロングアイランドのレースで大事故を経験し、以後左足の膝から下は義足だった。
インディ500には1950年〜52年に3回連続出場していた。
(画像は1951年インディ500出走時のもの )
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8月31日 |
ジム・リグスビー |
スプリントカー |
(アメリカ)
オハイオ州デイトンでのスプリントカー・レースにボブ・エステス・スペシャルで参戦。先に起きた事故で停止している車に突っ込み死亡。享年
29歳。
インディ500は1952年に一度出場。同一周回で12位完走を果たしている。それから三ヶ月後の事故だった。(画像は1952年インディ500出走時のもの) |
6月26日 |
イアン・ストラザーズ |
ヒルクライム |
(イギリス)
英国ボネスでのヒルクライム・レースにアラードJ2で出走中事故死。享年48歳。 |
6月18日 |
キャメロン・アール |
テスト |
(イギリス)
英国リンドリーでERAのF1マシンをテスト中に事故死。享年不明。 |
6月16日 |
ペーテ・ロムシュビッチ |
ミジェットカー |
(アメリカ)元はセルビア出身。帰化しアメリカ国籍となった。
ミシガン州デトロイトでのミジェットカー・レースに参戦。スタート直後の接触が原因で観客席に飛び込む大事故となり、大きく跳ねた車は駐車場の車にも数台激突、さらに開会パレードに出場していた騎馬警官の中にも突っ込み大破した。この事故でロムシュビッチと騎馬一頭が即死、騎乗していた警官一人と観客4人が重軽傷を負う惨事となった。ロムシュビッチ享年46歳。
インディ500には1947年に一回出場。1947年…12位(168周オイル・ライン)
(画像は1947年インディ500出走時のもの)
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6月8日 |
ジョニー・マクドウェル |
インディカー・レース |
(アメリカ)
ミルウォーキーでのインディカー・レース「レックス・メイズ・メモリアルレース」でカーティス2000・オッフィーにて参戦。予選中の事故で車外に投げ出されて死亡。享年37歳。
事故の原因は色々取り沙汰されてま
すが、幾度もの改造で車体重量が著しく軽減していた
のが有力とされている。
インディ500には通算4回の出場経験がある。(画像は1950年インディ500出走時のもの ) |
6月8日 |
ファン・マヌエル・ファンジオ |
F2非選手権(モンツァ) |
6月7日に北アイルランドでのレースに出場したファンジオは、翌8日のイタリア・モンツァでのレースに出場するた夜を徹して陸路で移動した。ようやく決勝レースには間に合ったものの疲労は激しく、2周目に大事故を起こしてしまう。
クラッシュしてコースにたたきつけられたファンジオは数日間意識不明の重傷を負う。一時は再起不能と言われたものの、翌シーズンには復帰、その後もF1参戦を続け計5度のチャンピオンを獲得する。 |
5月31日 |
ルイジ・ファジオーリ |
モナコGP・スポーツカー |
(イタリア)
スポーツカーレースで行われたモナコGPでランチアB20にて練習走行中、トンネルでクラッシュ、側壁に激突して投げ出された。左足に重症を負い、意識不明だったが四日後には意識が回復。一時は起きて新聞が読めるまでに回復したが、6月20日に容態が急変し死亡した。享年54歳。
手術の際の、神経系統に関する医療ミスといわれている。
(1951年〜54年はモナコGPがF1世界選手権に組み込まれていなかった)
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5月11日 |
ブライアン・ハウィーズ |
スポーツカー
シンガポール |
(イギリス)
シンガポールでのスポーツカー・レース「ギャップ・ヒル」にジャガーで出走中事故死。 |
5月10日 |
パウル・グレイフズ |
F2 |
(ドイツ)
ドイツ・ダッソーでのF2レース「ダッソーレンネン」にグレイフズ・BMWで参戦。4周目のグランドスタンド前で後部が分解し、白煙を上げながら数回横転。頭部を強打した事により死亡した。享年50歳。
(右の画像は1951年のもの)
グレイフズ車の残骸。大きな損傷が無い様に見えるが、コクピット右側が損傷し運転席を圧迫している。 |
4月20日 |
ゴードン・レイド
観客2名 警備員
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スプリントカー |
(アメリカ)
オハイオ州デイトンでのスプリントカー・レースにカーティス・クラフト・オッフィーで参戦。観客の中に飛び込む事故で死亡。享年29歳。
この事故で、観客のジーン・ローソン(19歳男性)とルビー・エレン・シャッファー(43歳女性)、警備員のロバート・サッチャー(22歳男性)も犠牲となった |
4月12日 |
レス・カーク |
フォーミュラ・リブレ |
(南アフリカ)
南アフリカ・ピーターマリッツバーグでのフォーミュラ・リブレ・レース「コロネーション100・ジュニアハンデキャップ」にオースチン・セブンで参戦。
レース中の転覆事故で死亡。享年44歳。 |
1951年 |
1951年 |
アントニン・コマー |
F2 |
(チェコスロバキア)
母国オストラハでのF2レースにシチタリア・D46で出走中事故死。享年44歳。 |
12月30日 |
ルイス・デ・ディオス |
アルゼンチン |
(アルゼンチン)
ブエノスアイレスでのフェルザ・リミターダレース「プレミオ・シエラ・デ・ラス・パドレス」に出走中事故死。 |
10月21日 |
ハリー・パーカー |
F3 |
(イギリス)
ブランズハッチでのF3レースにクーパーで出走中事故死。 |
10月6日 |
ロナルド・ドライデン |
F3 |
(イギリス)愛称カーティ。
10月6日、英国チッペンハムでのF3レース「キャッスル・コンビ・ミーティング」にJBS・ノートンで出走中事故死。 |
9月15日 |
エリック・ウィンターボトム |
ダンドロッド・ツーリスト・トロフィー |
(イギリス)
ダンドロッド・ツーリスト・トロフィーでフレイザー・ナッシュを駆って参戦中に事故死。享年42歳。
ル・マン24時間に1950〜1951年に参戦。1950年はジョージ・フィリップスと組みMGを駆って60台中18位完走。1951年はジョン・マーシャルと組みフレイザーナッシュを駆って60台中14位完走という成績を残している。 |
8月25日 |
リカルド・リサッティ |
アルゼンチン |
(アルゼンチン)
8月25日、サンチアゴでのツーリスモ・デ・カレテラシリーズ「ヴュエルタ・デル・ノルテ」にフォードで参戦。他車を追い越そうとしてコントロールを失いクラッシュ、死亡した。享年43歳。 |
8月11日 |
デビッド・ブレーク |
F3 |
(イギリス)
8月11日、ボアハムでのF3レース「ボハアム・レース」にクーパー・ノートンで参戦。グランドスタンドの手前で他車と接触して舞い上がり転覆し死亡。享年32歳。 |
7月29日 |
セシル・グリーン
ビル・マッケイ
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ウィンチェスター |
(アメリカ)
ウィンチェスターのレースで多重事故が発生。巻き込まれたセシル・グリーン(享年32歳)とビル・マッケイ(享年23歳)の2人のドライバーが死亡した。。
セシル・グリーンがインディ500には過去2回出場し、豪雨の為138周で打ちきりとなった1950年には4位に入賞している。
また、ビル・マッケイもこの年のインディ500に初出場を果たしていた。
写真左はセシル・グリーン、右がビル・マッケイ。(共に1951年インディ500出走時のもの) |
7月29日 |
ウォルト・ブラウン |
テスト |
(アメリカ)
ウィリアムズ・グローヴでの非公式テスト中に事故死。享年39歳。
インディ500にも3回出場しており最高位は7位(1947年) |
7月14日 |
ジャン・アチャード・ラ・ブレトン |
フォーミュラ・リブレ |
(フランス)本名ジャック・グロスマン。ジャン〜は戦時中のレジスタンス時代の彼の俗称。
リオ・デ・ジャネイロでのフォーミュラ・リブレ・レース「スビダ・デ・ラ・ガベア」にFerrari125で参戦。練習中にコンクリートフェンスに激突して死亡。享年33歳。
事故の原因は定かではないが、彼の車はスロットルとブレーキペダルが逆に配置されていたという。 |
6月30日 |
ブルノ・サジュカ |
ヒルクライム |
(チェコスロバキア)
母国チェコスロバキアでのオロモ・アクでのヒルクライム・レース「エセ・ホモ・オクルー」にタトラプランで参戦。練習走行中に道を外れ、法面を転がり落ちた。頭部に致命傷を負い、病院搬送中に死亡した。享年42歳。
戦前のチェコGPでは多く上位入賞を果たしており、スポーツカーに転身してからも1949年のエルテルライヒアルペンファウトなどに優勝するなど活躍中だった。
( 右の画像は練習走行中のサジュカ)
事故直後、救出作業中の画像(サジュカ本人も撮影されており、ショッキングな画像の部類に入ります。画像の拡大には細心の注意の上、お願い致します) |
6月23日 |
ジャック・ラリヴィエール |
ル・マン24時間 |
(フランス)
ル・マン24時間にアンドレ・グェルフィと組みフェラーリiで参戦中、5周目にユノディエールの直線でコントロールを失いクラッシュ、即死した。 |
6月10日 |
ロン・ケネディ |
ツーリングカー |
(オーストラリア)
6月10日、豪州ガウラーでのツーリングカー・レース「1951・ガウラー・ミーティング」にMG-TC・SPLで参戦。練習走行中に橋の欄干に衝突して死亡。 |
5月14日 |
ビリー・ベシュテ |
F3 |
(ドイツ)
5月14日、ホッケンハイムでのF3レース「マイポカル(通称)」にアイゲンボーで出走中に事故死。 |
5月13日 |
ボブ・スピキンズ |
フロンティエールGP |
(イギリス)
5月13日、シメイでのスポーツカー・レース、フロンティエールGPでフレイザー・ナッシュで走行中、事故死。享年51歳。 |
5月3日 |
アルフ・ボトムズ |
F3 |
(イギリス)本名アルフレッド・ジョン=ハーバート・ボトムズ。
ルクセンブルク・フィンデルでのF3レース「グランプリ・ド・ルクセンブルク」にJBS・ノートンで参戦。ウォームアップ走行中、約3.8kmの長いスト
レートを疾走中にコースを外れ、駐車中の車に激突して大破、即死した。享年32歳。 |
4月1日 |
ステファーノ・ラ・モッタ
フランチェスコ・ファラコ
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ジーロ・ディ・シチリア |
(イタリア)
ジーロ・ディ・シチリアにアルファロメオ1900で参加。プリオロ・ガルガーロの村付近で家の壁に衝突し、ドライバーのモッタと、同乗者のフランチェスコ・ファ
ラコも死亡した。モッタ享年30歳、ファラコ享年42歳。 |
1950年 |
9月23日 |
サム・コリア |
ワトキンズグレン |
(アメリカ)本名:サミュエル・カーネス・コリア
ワトキンズグレンでのスポーツカー・レースでFerrari166Cで参戦中に事故死。
この年のル・マン24時間では兄のマイルズとキャディラックで参戦して10位完走を果たしていた。 |
9月17日 |
カール・ゴーマン |
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(ドイツ)
欧州F2選手権第28戦(ソメールの事故から一週間後)、ドイツのみにおいては8戦、レース名「グレンツランドリングレンネン」にAFM-BMWで参戦。出走5台、周回8周というミニ・レースは激しい豪雨に祟られ、トップ走行中のゴーマンが視界不能か、タイヤが滑ったかコースアウトして立ち木に激突して即死した。享年の詳細は不明だが、30歳前後とみられている。なお、このレースはカール・クリンクのヴェリ
タスが優勝したが、ゴーマンはこのレースでポールポジションを獲得していた。 |
9月10日 |
レイモン・ソメール(レイモンド・ソマー)
Raymond Sommer |
カドゥール |
(フランス)
カドゥールでF2レースの「グランプリ・ド・カドゥール」にクーパー・JAPで参戦。レースは8台が出走。事故は3周目(全20周)にソメールが横転事故のため頭部に致命傷を負った。このレースはジョニー・シモンが優勝したが、ソメールはポールポジションとファステストラップを記録、死して名を残し手いる。享年44歳。
レース2年目の1932年にルマン24時間をほぼ一人で走り切り華々しい優勝、翌年もタツィオ・ヌヴォラーリとのコンビで二連覇を達成している。F1では1950年に5戦参戦、デビュー戦のモナコGP4位が最高位。F1よりは耐久レースの顔でもあった。
また、英国名レイモンド・ソマーの名でボクシングの経験もあった。
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8月20日 |
ギュンター・シュルター |
F3 |
(ドイツ)
ニュルブルクリンクでのF3レース「グロッサー・プレイス・フォン・ドイチュランド」にスカンポロ・DKWで参戦。レース中盤の事故で炎上し死亡。 |
7月29日 |
ジョー・フライ
Joe Fry
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練習走行 |
(イギリス)本名ジョセフ・ギブソン・フライ。
ブランドフォードでヒルクライムにシングルシーターのフレイカイザー・ワーゲンで練習走行中に事故死。享年34歳。
記念すべき1950年の第一回イギリスGPにプライベートのマセラティで参戦して10位完走。これが彼にとって最初で最後のF1だった。 |
5月7日 |
ロバート・ジャービス・ロビンソン |
速度記録会 |
(アメリカ)
エルミラージュでの速度記録会にホットロッド・ドラッグスターで出走中、151マイル(約242km/h)に到達した時点で車体の安定性を欠き
横転、即死した。享年24歳。 |
4月23日 |
ピーター・モンクハウス
ピーター・ウッド
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ミッレ・ミリア |
(イギリス)
ミッレ・ミリアにピーター・モンクハウスとピーター・ウッドが組みヒーレー・シルバーストンで参戦。ベネチア郊外で先に事故で停まっていたマシンに衝突して大破した。モンクハウスとウッドは頭部と両足を著しく損傷し、ともに病院搬送中に死亡。モンクハウス享年37歳、ウッドの享年は不明。 |
1950年3月 |
アンリ・ディジョアンニ |
テスト |
(フランス)
マルセイユでブガッティ37(F2)のテスト走行中に事故死。享年42歳。 |
4月23日 |
アルド・バッシ |
ミッレ・ミリア |
(イタリア)
ミッレ・ミリアにFerrari166MMバルチェッタ・ツーリングで参加。開始から8km地点のポンテ・サンマルコという村付近でコースアウトを喫っし事故死。享年40歳。 |
■非選手権F1;1950年から世界選手権が開催されるようになったF1だが、1950〜60年代までは世界選手権には含まれないが、F1マシンを使用したF1レースも開催されていた。
■ 本ページ内の画像はすべてMOZAさんより提供いただきました
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