アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
幾度の重大事故を経験した ウィリー・メレス
ウィリー・メレス(Willy Mairesse) 1928年10月1日生 ~ 1969年9月2日没 |
F1に参戦した計12戦の中で三度の大事故を起こし、野蛮なドライバーであると不名誉な渾名を付けられたウイリー・メレス。
しかし、その数奇な人生は誰よりも濃密で、1960年代初頭のF1を語る上で外す事の出来ない存在でもある。
戦前のレーシング・スピリットを持った、最後のドライバーといわれるウイリー・メレスは多くの事故を経験し、その事故から復帰を果たした。
ここでは、メレスのレース人生を、1961年ドイツGP、1962年ベルギーGP、1963年ルマン24時間、1963年ドイツGP、1968年ルマン24時間と順を追って綴っていきます。
1961年 F1ドイツGP
1961年F1第6戦ドイツGP。フォン・トリップスが観客と共に事故死するイタリアGPの35日前にあたる。
この年ロータスからエントリーしたウィリー・メレスは不振が続き、シーズン半ばに古巣のフェラーリに戻る形となった。
フェラーリ復帰後初めてとなるドイツGP(決勝8月6日)、彼は28台中13番手からスタートを切ったが、終盤13周目にフルークプラッツのジャンピング ポイントで着地の際バランスを崩し蛇行、スピンに陥りながらコース脇で横転するというクラッシュを演じた。事故自体派手なものだったが、彼は傷ひとつ無く マシンを降り、大事には至らなかった。
1962年 F1ベルギーGP
そして、翌1962年第3戦ベルギーGP(決勝6月17日)
恐らくこれが彼の人生を狂わす契機となり、また彼を思うとき最も印象深い、大事故が発生する。
開幕戦オランダGPはマシンが間に合わず欠場したが、第2戦モナコGPでは予選4位、決勝7位完走。前年
改変型のマシンで、脆弱性は否めないながらも「堅実的」なレース展開を見せメレスは結果を出した。
そして3戦目のスパ・フランコルシャンでのベルギーGP。
メレスは19台中6番手の位置からスタートを切る。(右の画像は1962年ベルギーGP、ピットでのメレス)
4台出場したフェラーリのうち、ロドリゲスとバゲッティを後ろに回しての順位。ポールポジションのグラハム・ヒル(ロータス)はミスファイアに泣きトップの位置を保てず、代わりに首位争いを演じたのがメレスと、こちらもロータスの若手トレヴァー・テイラーだった。
彼らの攻防戦は恐ろしいほどの激しさを見せ、直線はスリップ・ストリームの応酬、コーナーはタイヤが触れんばかりの併走。オー・ルージュですら並んだまま通過する、そのデッド・ヒートは鬼気迫るものがあった。
9周目にそのバトルの隙をつかれジム・クラーク(ロータス)に首位を譲るが、2位争いとなっても2人のバトルの終焉は無いように思われた。そしてレースも終盤戦に突入した25周目、超高速のブランシモンにおいて、メレスが一世一代の賭けに出る。
メレスは限界ギリギリまでスリップ・ストリームを使い、先の緩い左ターンに焦点を定め、一度コーナー
とは逆の右手にマシンを振る。テイラーがブロックするものと予想しての考えで、当然テイラーも右に寄るものと思われた。
テイラーが右に寄った隙に、メレスが空いた左を突く戦法だったのだが、メレスが左へとマシンを振った時、テイラーのロータスはメレスのマシンの延長戦上にいたのである。
テイラーはメレスを見てはいなかった。
メレスに回避する場所は無いに等しく、しかしそれでも彼はタイヤを草地に落としてまで抜こうとする行動を起こした。
しかし、テイラーの後部にメレスの右前部が追突する形となり、メレスのマシンは跳ね上がってコース脇の草に覆われた土手にもんどりうって着地、ドライバーを乗せたまま数回横転したのち火を噴いた。
一方のテイラー車も追突の衝撃でコース反対側に弾き飛ばされ、ランオフエリアに激しく突っ込み、コース片方でもうもうたる砂煙、片方でドス黒い黒煙が立ち上がるという異様な光景を呈した。
テイラーは軽傷を負ったものの、自力で脱出する事は可能だった。
一方のメレスは、火の回りが早かったためなかなか出られず、コース脇に常駐していたマーシャルと警備員の手で救出されたが、腕と足に火傷を負う結果となる。
(画像は接触事故の後、炎上するメレス車)
この事故の代償は彼にとっては大きく、予定していたル・マン24時間の参戦はもとより、シーズン中盤戦すら棒に振る展開となってしまう。
復帰した9月のF1イタリアGPで4位、WSCでも10月のパリ1000kmで5位に入るなど復帰後も良い戦績を残しただけに、一層スパの事故がなかったら…と思わせる一件でもあった。
1963年 ル・マン24時間耐久
ウイリー・メレスの経歴は事故と復帰の繰り返しだった。
前年の負傷も癒えた1963年、相変わらずメレスはF1とスポーツカーの二足の草鞋を履いた。F1では開幕戦モナコGP、第2戦ベルギーGPと連続リタイアの憂き目に遭ったが、WSCではセブリング12時間とタルガ・フローリオで2位、スパ500kmとニュルブルクリング1000kmで優勝するなど、スポーツカー・レースの分野においては絶好調でもあった。
そんな雰囲気の中開催された1963年のル・マン24時間。
彼はその年のパートナー、ジョン・サーティースと組みFerrari250Pで出場した。
予選は6位と上々の出だしのはずだった。メレスと交代する直前、サーティースがこの大会の最速ラップとなる3分53秒300(207.714km/h)を記録しピットに戻ってきた。レースも339周中252周目に突入し、何事もなければ、優勝を狙える位置にいたのもまた事実である。
給油を終え、意気揚々とメレスはマシンへと鎮座、爆音を響かせて勇躍発進していった。
(1963年ル・マン24時間、マシンに乗るメレス)
しかし、優勝圏内と思われていたマシンはホームストレッチに戻ってくる事はなかった。
メレスの乗ったマシンは、ミュルサンヌのカーブを通過したまでは良かったが、そこからの右続きのコー
ナーを疾走中に突如エンジン部からの出火に見舞われた。車体上部は火に包まれ、視界を遮られたメレスはコース右側のストロー・フェンスにぶつかって停止。
ハンドルよりも低い位置に身体を屈めた状態で激突したため、衝撃で一瞬気を失う形となった。
脱出してこないメレスに心配した付近のマーシャル、警備員、あるいは新聞記者までもが彼の救出作業に
加わり、消火ののち彼を引き出したものの、メレスは前年に続いて、再び火傷を負う結果となった。
メレスの命に別状はないものの、事故の規模が序々に拡大している懸念は否めなかった。
また、この事故のあたりから、彼がレース前に一人悩む姿が度々目撃されている。孤立を好む一匹狼的な彼にとっては後々不安視される印象を与えたクラッシュでもあった。
(画像は1963年ル・マンの事故の連続写真)
1963年 F1ドイツGP
度重なる事故に遭いながらも、彼は復活した。
ル・マンの事故から僅か50日足らずのF1ドイツGP(ニュルブルクリンク)に、奇しくもル・マンでチームを組んだサーティースのナンバー2ドライバーとしてカムバックする。
この頃のフェラーリ「新人予備軍」にはバンディーニやスカルフィオッティ等有望な若手がおり、下手をすると彼らに取って代わられるプレッシャーもあった。無謀なドライビングは慎み、慎重に結果を残すのみのレースを強いられる結果となったのである。
メレスも負傷癒えた手前、本心はそのつもりだった。人一倍事故の恐怖も、ドライバーを降ろされる不安も持ち備えていた。予選こそ22台中7番手につけたが、モチベーションは低いまま。だが、コースがニュルブルクリングと名うての危険極まりない場所であった事が、思わぬ事態を引き起こす結果となる。
スタートして間もなく、メレスは数台の車に抜かれた。
そして迎えたフルークプラッツ、彼がF1で初めて事故の恐怖を味わったまさにその地点で、ジャンプの
着地の際バランスを失った。時速150km/hのスピードでコースアウトしたマシンは土手に沿いながら激しく横転、彼を放り投げる事態となる。メレスはマシンから40メートル近くも飛ばされたが、下が草地であった事でそれがクッションとなり、命を落とす事はなかった。
しかし事故の衝撃は大きく、両腕両足を亀裂ながら骨折する事となる。
右腕の怪我は他よりも大きく、神経を損傷した事が、その後の彼の運命を少なからず左右する結果となった。そして何よりも悲劇だったのは、事故の際車体から外れた左後輪が宙を舞って観客席に突入、一人を死亡させてしまった事実だった。
(画像は1963年ドイツGPでの事故の模様)
これでチームにおける彼の信頼は絶たれる結果となり、また怪我の大きさから、レース界をしばらく離れる結果となった。彼の度胸を買いドライブを依頼する話も無くはなかったが、彼は拒む事も多くなった。
結果重視という現実を目の前にして、彼の戦歴は褒められたものでないのも事実である。事故の規模も大きくなり、死者まで出してしまった。
自らの意思を封印し、殻に閉じこもる事が多くなった彼に、以前の睨み付けるような厳しい表情はなかった。彼を写した写真の表情が全て下向きの憂鬱なものとして捉えられているのも、この頃あたりからである。
メレスが再びレース界に復帰するには長い時間を要している。F1では走る事が無くなったが(実はこの後一度だけエントリーしている)、まだ彼のレースに対する情熱は消えたわけではなかった。
彼の友人であるジャン“ビュアリー”・ブレトンがスポーツカー・レースへのエントリーを持ちかけた事
がきっかけとなり、彼は活路をWSCシリーズへ見出す事となる。1964年の最終戦となるパリ1000kmに出走(中盤イグニッショントラブルでリタイア)し、翌年の手応えは彼自身強く掴んだ事だろう。以降ブレトンが彼のマネジャーとなり、プライベーターとしてではあるが第2のスタートを切る事となったのである。
1965年、F1ベルギーGPにBRMのプライベーター、スクデリア・チェンドロ・スドからエントリーしたが、彼は見切りをつけ、予選すら走る事なくF1界を後にした。
また、この年におけるWSCでの彼の成績は以下の通り。
第2戦セブリング12時間/66台中23位(25周遅れ)
第8戦スパ500km/27台中1位
第9戦ニュルブルクリング1000km/25周リタイア
第12戦ル・マン24時間/51台中3位(8周遅れ)
第13戦ランス12時間/22台中3位(5周遅れ)
軌道に乗った彼は翌1966年にスクデリア・フィリピネッティのサポートを受け、フォードやポルシェなど様々なマシンで走る機会を得た。またチームメイトもクレバーなハーバート・ミューラーが組み、一層の飛躍が期待された。1966年のWSC成績は以下の通り。
第3戦モンツァ1000km/40台中3位(2周遅れ)
第4戦タルガ・フローリオ/72台中1位
第5戦スパ1000km/序盤リタイア
第6戦ニュルブルクリング1000km/77台中9位(2周遅れ)
第7戦ル・マン24時間/166周リタイア
※3・5戦をフォード、4戦をポルシェ、6・7戦で
Ferrariをドライブ
1967年は再び2年前と同じ布陣となる。Ferrariで数回走り、ル・マン24時間では好成績をあげたものの、この車種に神経質になっていたとみられるメレスは、以後完走すらままならない日々が続いた。ル・マンの前にあったスパ1000kmでは、新鋭ジャッキー・イクスのミラージュ・フォードに肉迫したものの雨の中の強引な走行が祟りクラッシュしてしまう。
同郷ベルギー人という事で明らかな新旧交代の波が訪れていた事も確かで、この年は以降消極的なレースが続く。
1968年 ル・マン24時間耐久
彼の復活ともいえるレースは1968年の春、モンツァでのレースから始まった。2年前の同地で乗ったフォードからのエントリーだった。すでに同郷のイクスはトップドライバーに成長しつつあったが、同型車で臨むメレスにとっても負けられないプライドがあった。
このレースでは7位(イクスはリタイア)。その後3戦休み、5月のスパ1000kmではレース中盤でクラッシュ。このレースの勝者はイクス&レッドマンのフォードだった。
迎えたル・マン24時間。この年は9月の終わりに開催され、ライバルとされていたイクスは一週間前のF1カナダGP予選でクラッシュし足を骨折したために出場は不可能となっている。
メレスは予選10位の位置だった。勝てないレースではないはずだった。たった一つの不具合がなかったら。
(1968年ル・マン24時間のスタート場面)
オープニングラップ、彼はアルピーヌ・ルノーのパトリック・デパイエと競っていた。ミュルサンヌの手前のうねったストレートで、彼の座席側のドアが風圧によって突然引きちぎられるという突発的なアクシデントが発生する。
車内に猛烈な風を受けたマシンは操縦が困難となり、スピンしながらコース脇ガードレールに衝突、大破するという結末となった。半ドアの疑いもあったが、原因は明らかとはならなかった。
メレス自身も怪我を負い、その後二度とサーキットへ戻る事はなかった。
彼の精神的ダメージは、限界を迎えていた。
ル・マンの事故で頭部に傷を負ったメレスは、以前の事故の後遺症である腕の痛みに加え、慢性的な頭痛にも悩まされる日々が続いた。満身創痍の身体はもはやレースに耐え得るものではなく、ル・マンでの事故を最後にモータースポーツの世界から事実上去る事となった。
訪れた 死
そして、約一年後の1969年9月2日、メレスは睡眠薬の多量摂取という形で自らの生命に終止符を打つ。享年40歳だった。
ホテルの一室から彼が発見された時、遺書めいたものはなかった。自殺とも、頭痛により眠れないための摂取ともいわれた。マスコミはこぞって取り上げたが、確かな原因は不明となった。
フェラーリという名門で活躍する機会を得ながら、実力を発揮できなかったウィリー・メレス。しかし少ない出走経験の中で、最高位を記録したのも、そのフェラーリでの事だった(1960年イタリアGP3位)。
後日談だが、チームが彼を解雇したのとは逆に、総帥エンツォは彼に敬意を感じていたという話がある。チームを去った後も、彼をテストドライバーとして残しておいてほしいという話があり、それは結果はもとより、一発の速さに魅力を感じたエンツォの心情ではなかったのではないだろうか。
時代に左右されたのか、最後の土の匂いを残したドライバーはモータースポーツの世界から消えていった。
(写真・文章はもMOZAさん提供・文章の一部はキャビン85が修正いたしました。)
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