Accident
1949年以前
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2輪
 
アクシデント詳細
1927 速度記録会
1933 モンツァ
1938 ベルント・ローゼマイヤー
1955 アルベルト・アスカリ
1955 ル・マン24時間
1956 ル・マン24時間
1957 ミッレ・ミリア

1958 INDY500

1960 F1ベルギーGP
1961~68 ウイリー・メレス
1964 ドイツGP
1964 INDY500
1967 ロレンツォ・バンディーニ
1969 福沢幸雄
1969 鈴鹿12時間耐久
1970 川合稔
1970 「栄光の・ル・マン」
1971 ブエノスアイレス1000
1973 F1アメリカGP
1973 富士GC
1973 INDY500
1974富士GC Vol.1 Vol.2
1974 F1アメリカGP
1974 ピーター・レブソン
1975 F1スペインGP
1976 F1ドイツGP
1977 F1イギリスGP

1977 F1カナダGP

1977 トム・プライス
1977 F1日本GP

1978 F1イタリアGP

1980 パトリック・デパイエ
1982 ベルギーGP

1982 INDY500

1982 カナダGP
 
 
 

 

 
 
 

 

 

アクシデント ~忘れてはいけない記憶~ 

1990年代

1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999

1990年

3月23日 村松栄紀 全日本F3000

全日本F3000にムーンクラフトからステップアップすると同時に、F3にもチャンピオン獲得を目標にエントリー。

初戦終了後に富士スピードウェイでの合同タイヤテストに参加した村松栄紀は、F3000マシンMC-041Bを駆り、早いスピードで100Rに突っ込んでいった。
オーバースピードかマシントラブルか、村松のマシンは100Rを直進、縁石をジャンプ台のように飛び出した。宙を飛んだマシンはスポンジバリアを倒してコンクリート壁に激突し跳ね返され逆さまに落下した。 時は午前10時47分。この時の回転数は8700回転、シフトは4速で約200km/hだったと思われる。
村松栄紀は病院に運ばれたが、脳挫傷で死亡した。享年24歳。

4月15日 ジム・ブルーク フォーミュラ・アトランティック

(イギリス)

4月15日、米国インディアナポリスでのフォーミュラ・アトランティック・レースにラルトRT4・トヨタで参戦中事故で重傷を負い、10月4日に死亡。

4月22日 観客1名  (Ray Plummer) 国際F3000

1990F3000ドニントン・パークで開かれた国際F3000第1戦。3周目、ダンロップ・ブリッジ下地点でアラン・マクニッシュ(Allan McNish)のマシンとエマニュエル・ナスペッティ(Emanuele Naspetti)のマシンが絡む形となりそのまま二台がコースアウト。マクニッシュのマシン(Reynard 90D-Mugen)はウォールに激突し大破、横転しながら観客のいるウォールの外へと乗り出した。この際、マクニッシュのマシンから飛散したエンジンが草地でバウンドし、エンジンの下敷きになった観客1名(Ray Plummer)を押し潰すかたちとなり、押し潰された観客が死亡した。

(資料提供はクロスノフさん、およびピケオさん。画像はクロスノフさんより提供いただきました。)

5月16日 デビット・ケインズ NASCAR

(アメリカ)

シャーロットで開かれたNASCARリミテッド・スポーツマン・ディビジョンの練習走行中、スピンし、コース上にストップしていた他車を避け切れず激突、死亡した。享年27歳。

5月28日 ポール・ワルシュ  

(イギリス)

カドウェルでのレースでヤマハに乗り出場、コースアウトして転倒しながらタイアバリアに激突、さらに後続車が同じ現場に突っ込んだためこの二次災害が致命傷となり死亡した。享年24歳。

7月21日 リッチ・ボグラー  Rich Vogler USACスプリントカー

リッチ・ボグラー(アメリカ)

米国サレムでのUSACスプリントカー・レース「ESPNサンダー」に出走。接触事故で車体が弾かれ、4度トンボ返りののちフェンスに激突。ロールバーが折れて頭部を強打し、即死した。享年39歳。
インディ500にも1985年~89年に5度出場していて、1989年の8位が最高位。

7月31日 ジョン・サフィール テスト シルバーストーン

(イギリス)

シルバーストーンでエキシビション・レースに出走するためF1マシン(ウィリアムズFW07・コスワース)のテスト走行中に事故で死亡。享年43歳。

9月2日 ジャン・パトリック・ハイン(ヘイン)(コースマーシャル) CART 

バンクーバーでのCARTレース「モルソン・インディ・バンクーバー」の16周目、ロス・ベントレー(Ross Bentley)のマシントラブルで、安全地帯へ押しがけすべく作業をしていたが、チーフと思われる人物に後続車へ危険を知らせよと現場からの退避を命じられ数人がコース反対側へ移動した際、縫うように後方から来たウィリー・T・リブスのマシンの後部ウイングに接触、うち一名がリアタイヤの直撃を受けた。享年20歳。

コースに飛び出すような形となったマーシャルは、リブスにとっては、市街地コース故のブラインドコーナーから現れたかたちとなり、想定外の事故であったのかもしれない。

9月30日 マーチン・ドネリー Martin Donnelly F1・スペインGP

(イギリス)

第14戦スペインGPの予選1日目、マーチン・ドネリーの乗るロータスが大クラッシュ。
マシンが粉々になるほどの大クラッシュで、ドネリーはシートベルトを締めたシートごとコースに投げ出された。コース上に投げ出されたドネリーの映像はTVを通して多くのファンに衝撃を与えた。
ドネリーは、全身の数箇所を骨折し、内臓破裂も伴い一時は危篤状態となったが、幸いにも一命は取り留めることができた。

一命を取り留めたドネリーだったが、ドライバーとして復帰することは叶わず、自らのレーシングチーム「マーティン・ドネリー・レーシング」を立ち上げ、F3などに参戦するなど、若手ドライバーの育成にも努めている

11月18日

マイク・リッチ Mike Ritch (ピットクルー)

NASCAR

(アメリカ)

1990年11月18日NASCARウィンストンカップシリーズ最終戦「アトランタジャーナル500」の決勝でビル・エリオットがピットイン。クルーは迅速に作業を進めていく。ところが、ピットレーン上でリッキー・ラッド(Ricky Rudd)がスピン。作業中のエリオットに突っ込んだ。この事故で、エリオットのマシン後部にいたリッチがリード車とエリオット車に挟まれる格好となり、すぐさま病院に運ばれたが、その日のうちに死亡が確認された。享年32歳。

またこの事故ではもうひとりのピットクルー、トミー・コール(Tommy Cole) も巻き込まれ重傷を負っている。

11月24日 ビル・ブコビッチⅢ世 スプリントカー

(アメリカ)

カリフォルニア州ベーカーズフィールドでのスプリントカー・レースに出走中接触事故を起こし、コース外に飛び出して出火。車内で死亡するという、奇しくも祖父と同様の状況で死亡した。享年27歳。

ブコビッチ・ジュニアの息子で、1955年のインディ500で非業の死を遂げたビル・ブコビッチの孫。
インディ500には通算3回出場しており、1988年度のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いている。祖父の時代には無かったが、祖父はインディ二連覇の功績、父は1968年のルーキー・オブ・ザ・イヤーでもあり、親子三代で歴史に名を刻んだ。インディ500の成績は以下の通り。
1988年…14位(21周遅れ)
1989年…12位(14周遅れ)
1990年…24位(102周エンジン)

1991年

5月4日 クリス・ゲーリック  Chris Gehrke ARCA(アルカ)

(アメリカ)1991ゲーリック

タラテガスピードウェイで行われた、ARCA(アルカ)レース「ポウラン・プロ・500-K」(Poulan Pro 500-K)でスピンからマシンがひっくり返り、ウォールに激突、コース中央に天地もとどうりになってストップした瞬間、後続車両がもろに激突、ゲーリックは3日後の5月7日に死亡した。享年25歳。

7月21日 ポール・ワーウィック  Pole Warwick イギリスF3000

ポール・ワーウィック(イギリス)
本名ポール・ジェイソン・ワーウィック。
元F1ドライバー、デレック・ワーウィックの15歳下の弟。

英国F3000・オールトンパークでの「ゴールドカップ」にレイナード90D・DFVで出走。23周目のコーナー入り口で右サスペンションが破損し、 直線的にコースを飛び出して左側面からタイヤバリアに衝突。
角度が悪かったかマシンは粉砕し、ポールは車外に投げ出される格好となり、その場で死亡した。享年22歳。炎も上がったが、これはマーシャルにより消し止められた。

兄デレックをとても尊敬しており、兄と同じカラーリングのヘルメットを被り活躍していた。

8月11日 J.Dマクドフィ NASCAR

(アメリカ)
本名、ジョン・デルフィーズ・マクドフィ。

ワトキンスグレンでひらかれた、NASCARウィストンカップシリーズ第18戦「バドワイザーアットザグレン」にポンテアックで出場中、他車との接触からコースアウト、ガードレールにマシン側部から激しく激突した。ガードレールは完全に破壊され、マクドフィは真上に弾かれて天地逆さまとなり着地した。すぐさま救出されたものの、マクドフィは死亡した。享年52歳。

NASCARにはおよそ27年間参戦した大ベテランだった。

1992年

1992年 ジル・ラレイ (2輪)ダカールラリー

1991年12月25 日~1992年1月16日こ開催されたこの年のパリ・ダカルラリーは例年のダカールゴールが変更され、南アフリカのル・カップ(ケープタウン)がゴールというコースをとられた。

このレースの中、モト部門に参戦していたG.ラレイがポワント・ノワールのリエゾン中、主催者側のメディカル・アシスタントカーと衝突して死亡した。

ジル・ラレイは1989年のパリ・ダカ優勝者であり、1985年世界エンデューロチャンピョンでもあった。

1992年1月 ジャンマリー・セヌイヤック
ローラン・ル・ブルジョワ
ダカールラリー

1991年12月25 日~1992年1月16日こ開催されたこの年のダカールラリーは例年のダカールゴールが変更され、南アフリカのル・カップ(ケープタウン)がゴールとなり、パリ~シルツ~ル・カップいうコースがとられた。

このラリーでサバの数km 手前で、バギーに乗るジャンマリー・セヌイヤック/ローラン・ル・ブルジョワが事故で死亡した。

4月20日 マルセル・アルバース F3

マルセル・アルバース(オランダ)

英国スラクストンでのF3レースにラルトRT36・ホンダで出走。6位走行中の8周目、前を走るエルトン・ジュリアンのラルトを追っていた彼は前車がトラブルで急激に減速したため、回避しようとするもタイヤを引っ掛けてしまい、反転しながら宙に舞い観客席まで飛んでいった。車体は粉砕し、観客数名が破片の直撃を受けるなどで重軽傷を負う。ドライバーは救出されたが致命傷を負っており、搬送される救急車の中で死亡した。
享年24歳。


1992年5月 ネルソン・ピケ Nelson Piquet INDY500

(ブラジル)本名:ネルソン・ピケ・ソウト・マイオール

INDY500の予選で大クラッシュを起こし、両足を複雑骨折の重傷を負った。

F1に204戦出場、優勝23回、PP獲得24回を記録し、1981・1983・1987年の3度F1ドライバーズタイトルを獲得した偉大なチャンピオン。
1991年限りでF1を引退し、1992年からアメリカに活動を移した矢先での大クラッシュだった。

 

5月15日 ジョビー・マルセロ INDY500

(フィリピン)本名エドワード・ジョビー・マルセロ・ジュニア。

5月15日、インディ500のプラクティス走行中、第1ターン進入中にグリップを失いスピン、一回転したのち正面から外壁に激突した。マシンは彼を乗せたままフラフラと滑走し、第2ターンでようやく停止。救出されたものの頭部に大きな損傷があり、さらに頚椎も折っていて、意識を取り戻す事なくその日のうちに死亡した。享年26歳。激突時の速度は時速280km/hと記録されている。

フィリピン人として初のインディ500出場を目前にしての惨事だった。この年はネルソン・ピケも同様の事故で重傷を負っており、マシンの危険性が再認識された年でもあった。

5月24日 小河 等(おがわ ひとし)
全日本F3000

全日本F3000(現フォーミュラ・ニッポン)のレース中、ストレートエンドでA.G.スコットに追突する形で小川等のマシンが接触。第1コーナーでコースアウトした小河等のマシンは、グラベルで跳ね上がり、フェンスの支柱に激突した。小河は頭部に大きなダメージを受けており即死状態だった。享年36歳。

また、この事故の衝撃で看板が落下、取材撮影中だったカメラマンも死亡している。(カメラマンに関しては、重傷とする記述もあります)

「和製プロスト」とも呼ばれた冷静な走りが特徴で、1989年には全日本F3000でチャンピオンを獲得。
グループCで行われていた、ル・マン24時間やJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)では、トヨタのワークスドライバーとして参戦していた。

関連書籍: レーサーの死

5月27日 デイブ・ヘイス (2輪)サイドカー
ケビン・ロンデス(パッセンジャー)

英国カドウェルでのサイドカー・レースにヤマハで参戦したデイブ・ヘイスとケビン・ロンデスが、接触によりコースアウトしサイド側からタイアバリアに衝突して爆発した。
この事故により、パッセンジャーのケビン・ロンデスが即死、運転側のデイブ・ヘイスは肺に穴が開く重傷を負ったが、命は取り留めている。
ケビン・ロンデス(イギリス)享年23歳

6月7日 イアン・テイラー ツーリングカー

(イギリス)

6月7日、スパ・フランコルシャンでのツーリングカーレース「クーペ・ド・スパ」にローバー216GTiで出走中事故死。享年45歳。

6月14日 デイビー・アリソン NASCAR

(アメリカ) アリソン

ポコノで開かれたNASCARウィストンカップシリーズ第13戦「チァンピオンスパークプラグ500」に出場中、バックストレートで他車と接触。グリーンに出た瞬間マシンが浮き上がり横転、パーツを飛散させ、ガードレールを飛び越えて逆さまに停止した。近くにはマーシャルも待機していたが、犠牲者は出ず、アリソン本人も無事だった。
しかし、翌年アリソンはヘリコプター事故により、死亡してしまう。死亡時の享年32歳。

(10月4日) (デニス・ハルム Denny Hulme) レース中の病死

デニス・ハルムアクシデントによる、死亡ではないが、元F1ドライバーのデニス・ハルムが10月4日の豪州バサースト1000kmにBMW・M3Eで出走中、心臓発作のため急死した。ニュージーランド出身。享年56歳。

F1での成績として、出走112回、優勝8回、PP1回、FL9回を記録。1967年のドライバーズ・チャンピオンに輝いている。

1993年

1993年 ロジャー・フリース   Rodger Freeth WRC・オーストラリアラリー

スバルのポッサム・ボーン(ニュージーランド)のドライブするスバル・レガシーRSがジャンプに失敗して転倒。

この事故によりコ・ドライバーのロジャー・フリース(同)が死亡した。

1993年 ウェイン・レイニー  Wayne Rainey (2輪)ロードレース世界選手権

ロードレース世界選手権(WGP)500cc第12戦イタリアGPにおいてトップ走行中のウェイン・レイニーがハイサイドを起こして転倒。
マシンから振り落とされたレイニーは、不運にも頭部からグラベルに落下してしまう。この事故によりレイニーは第六頚椎損傷の重症を負い引退を余儀なくされる。

1990年から92年の間WGPを3連覇し、この93年もランキング2位のケビン・シュワンツに11ポイント差をつけているという、まさにキャリア絶頂期での突然の引退となってしまった

2月12日 ジョー・ブーハー NASCAR
デイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開催された『NASCAR Goody's Dash Series Florida 200 Dash』 2周目、ジョー・ブーハーのシボレーがカール・ホートンのマシンに接触。
ブーハーのマシンは横に向きを変え壁にぶつかった。跳ね返されたマシンが、後ろ向きに煙を吐きながらトラックの下側に滑り降りて行ったところへ、視界不良で 避けきれなかったロドニー・ホワイトのマシンが、ブーハーのマシンの右前側に激突した。
この事故でジョー・ブーハーは致命傷を負い死亡した。享年51歳
5月1日 若井伸之 (2輪)ロードレース世界選手権

1993年のロードレース世界選手権(現在のMotoGP)250クラスに参戦していた若井伸之選手。

第4戦スペインGP(ヘレスサーキット)の予選中にピットロードに飛び出してきた招待客を避けようとしてコンクリートウォールに激突し死亡。享年25歳。

1994年

2月11日 ニール・ボネット NASCAR デイトナ500

ボネット(アメリカ)

1994年2月14日NASCARウィンストンカップシリーズ開幕戦「デイトナ500」にシボレー・モンテカルロで参戦。プラクティス走行で最終ターンを旋回中、コントロールを失いコンクリートウォールに激突した。マシンの損傷具合からそれほどダメージはないかに見えたが、ボネットはマシンの中で死亡していた。享年51歳。
1974年にNASCARデビュー。通算勝利数は18回となっている。

2月14日 ロドニー・オア  Rodney Orr
NASCAR デイトナ500

(アメリカ) 本名ロドニー・ブライアン・オア

1993年のNASCAR Goody's Dash Seriesのチャンピオンに輝き、遅咲きながらNASCAR最高峰のウィンストンカップ、開幕戦「デイトナ500」にフォード・サンダーバードで初エントリーを果たしたロドニー・オアだったが、プラクティス走行中にクラッシュ。オアはこのクラッシュの際に致命傷を負ってしまい死亡した。享年31歳。

4月30日 ローランド・ラッツェンバーガー  Roland Ratzenberger F1・サンマリノGP

(オーストリア)

イモラで開催された サンマリノGP予選。
予選アタック中にシムテックS941のフロントウイングが脱落し、ダウンフォースを失ったマシンは制御不能の状態でビルヌーヴコーナーを曲がれずに300km/hオーバーでコンクリート・ウォールに激突、跳ね返って再びコース上まで戻って来た。衝撃で、ローランドのシムテックS941は既に原形を留めてはいなかった。
ラッツェンバーガーはほぼ即死だった。享年31歳。

前年まで日本のモータースポーツシーンで活躍したラッツェンバーガーの死は、日本のファンにも大きな衝撃をあたえた。

F1では12年ぶり死亡事故となったが。前日のバリチェロのクラッシュなど、誰もが嫌な雰囲気を感じてはいた。しかし、現実にその翌日にも大きな悲劇がまた起こってしまうとは、まだ誰も知らなかった。

5月1日 アイルトン・セナ  Ayrton Senna F1・サンマリノGP

(ブラジル)

ラッツェンバーガーの事故翌日。まだ、事故の衝撃がっさめやらないうちにレースはスタート。しかし、スタート直後に追突事故が発生し、観客が負傷。セーフティカーに先導されたレースは6周目に再開されたが、7周目のタンブレロで、首位を走るセナのマシンはコースを外れコンクリートウォールに激突。
レースは赤旗中止となり、マシンからセナを救出する模様はTV中継された。しかし搬送された病院でセナの死亡が確認された。享年34歳。

F1最高のスターの死は、母国ブラジルのみならず世界中に大きな衝撃を与え、その後のレース界の安全性向上のきっかけとなる。

関連書籍:レーサーの死

5月14日 カール・ベンドリンガー  Karl Wendlinger F1・モナコGP

(オーストリア)

予選中にクラッシュ。頭部を強打し生死をさまよう。一命を取り留めたものの、快復後もかっての速さは戻らずF1への復帰は実現しなかった。

7月31日 宇川徹(うかわ とおる) (2輪)鈴鹿8耐

岡田忠之とペアを組み、鈴鹿8時間耐久レースに参戦。

スタート30分後の11週目の200Rの出口で下位集団のマシンから噴出したオイルに乗って転倒。
マシンも炎上し宇川も首の骨を折る重傷を負い、シーズン後半を棒に振る。この事故により、鈴鹿8耐初の赤旗中断となり、2ヒート制となった。

10月9日 アレキサンダー・コザック (2輪)モトクロス

(ドイツ)

ドイツ・ハイバッハでのモトクロスレース「インタークロス・DM・ストラスベッセンバッハ」にカワサキに乗り出場。
3ヒート制の最終レースで障害飛越に失敗し転倒、その際大腿部の動脈を切断してしまい、出血多量で死亡した。享年17歳。

1995年

1995年 永井康友 (2輪)スーパーバイク世界選手権

1995年から日本人として初めてスーパーバイク世界選手権にのフル参戦を開始した永井康友だったが、その年の第10戦オランダ(アッセン)において、ドゥカティ916がエンジンブローによってまき散らしたオイルにのって転倒。

マシンから投げ出されて滑走する永井選手の上に跳ね上がったマシンが落ちるという不運も有り、意識不明の重体となった。永井は回復かなわず病院で9月12日死亡した。享年29歳。

4月20日 スティーブン・グレイソン (2輪)イギリス

(イギリス)

英国カドウェルでヤマハTZ125の練習走行中に転倒、二日後の22日に死亡。

6月3日 ボブ・ムンロ (2輪)サイドカー
ポール・ファーガー(パッセンジャー)

英国マン島での「マン島TT・サイドカー部門」にヤマハで出走したボブ・ムンロ&ポール・ファーガー。

1周目の衝突事故でカーブを直進し横転、パッセンジャーのポール・ファーガーがマシンから投げ出されて死亡した。
ポール・ファーガー(イギリス)享年31歳。

運転側のボブ・ムンロも重傷を負ったが、命は取りとめた。

9月10日 キース・オドール  Kieth Odor ツーリングカー

ベルリンで開催されたSTWカップ(正式名:ADAC Super-Tourenwagen-Cup AVUS・ドイツでの2リッター・ツーリングカー選手権)にニッサン・プリメーラで参戦していたオドールが、コース左側のウォールにクラッシュ。スピンしながらコースに跳ね返ってきたオドールのマシンを直後の2台はなんとかかわしたが、かわしきれなかった1台のアウディがオドールのプリメーラの右側面に激突した。オドールのプリメーラは右ハンドル車であったため、激突した場所はまさにオドールの運転席部分であった。オドールは重傷を負いベルリン病院に搬送されたが、、同日に死亡した。享年33歳。

クラッシュの原因は、左フロントサスペンションの破損、又は左フロントタイヤのバーストではないかとされている。

80年代にラリーでモータースポーツをはじめたが、ツーリングカーレースに移行し、BTCC(イギリス・ツーリングカー選手権)ではニッサン・プリメーラで活躍した。95年はドイツに活動の場を移したが、1勝を記録していた

9月24日 片山右京 (かたやま うきょう) F1 ポルトガルGP

スタート長後に多重クラッシュが発生。

予選16位からスタートしたティレル・ヤマハの片山右京もミナルディのL.バドエルと接触し、右京のマシンはミナルディに乗り上げるような形で宙に舞い上がり回転しながらコース左のガードレースに激突、跳ね返されたマシンはさらに回転しながらコース上右側まで跳ね返り裏返った状態で停止した。激しいクラッシュに最悪の事態も予想されたが片山右京は奇跡的に軽傷で済み、翌週のヨーロッパGPは欠場したものの、4週間後のパシフィックGPには復帰している。

10月6日 ラッセル・フィリップRussell Phillips NASCAR

シャーロットで行われたNASCARのスポーツ・リミテッド・ディビジョン「ウインストン100」。

ポールポジションを獲得していたフィリップだったが、レース中に順位を落とし、67周目には17番手を走行していた。フィリップの前方を走っていた2台のマシンが同時にスピンとなり、それを避けようと、フィリップスとすぐ横を走っていたもう一台がアウト側へとマシンをふった。しかし接触した後、フィリップのマシンは接触したマシンに乗り上げて宙に舞い、フェンスに吸い込まれるように屋根から激突、フィリップスは車体もろとも上半身を切断され即死した。事故のおきたターン4周辺はまさに地獄絵図でヘルメットはピットロード付近に、腕は切断され、フェンスの金網に引っかかっていた。さらに、事故現場周辺は彼の肉片や血液が散らばっておりその処理に夜9時までかかったという。

この凄惨な事故は後のストックカーレースの大幅な安全改革につながっていった。
(画像、資料提供はクロスノフさん) 

10月15日 マルコ・カンポス 国際F3000 マニクール

マルコ・カンボス(ブラジル)

マニ・クールで行われた、国際F3000。最終ラップでの接戦中にマルコ・カンポスののるローラT95/50が、アデレートヘヤピン手前で前を行くトマス・ビアッジと接触、カンポスは天地逆の状態でヘアピン内側のフェンスに激突し、ロールバーが根こそぎもぎとられ、カンボスは脳挫傷と頚椎損傷により死亡した。享年19歳。

10月28日 鈴木亜久里 (すずき・あぐり) F1・日本GP

この年を限りに引退を決意していた鈴木亜久里(リジェ・無限ホンダ)だったが、予選中にクラッシュ。予選終了10分前ごろ、S字カーブの入り口で、右側の前後両輪がコースをはみ出て芝に乗り次のの瞬間マシンがスピン、タイヤバリアへ激突し、再びコースまではじき飛ばされた。

亜久里はろっ骨骨折の為翌日の決勝レースは欠場となり、地元での最後のレースを走ることはできなかった。

11月11日 ミカ・ハッキネン  Mika Hakkinen F1・オーストラリアGP

(フィンランド)

最終戦オーストラリアGPの予選中、タイヤ・バーストによりフェンスに激突。頭部を強打し意識不明の重体に陥るも幸いにも意識は回復。翌シーズンには復帰し、1998・99年には2度のチャンピオンを獲得した。

1996年

1996年 観客1名 WRC 1000湖ラリー

第46回1000湖ラリー(現在のフィンランド・ラリー)でプライベート出場のラリーカーがコースアウトしコース脇のポールにぶつかった、

この衝撃でマシンのアンダーガードが折れ曲がり、マシンを浮き上がらせる形となり、マシンはタイヤを宙に浮かせたままコースを滑走、100m近く離れた場所で観客を巻き込み、1名の観客が死亡する事故となった。

5月17日 スコット・ブライトン(ブレイトン)  Scott Brayton INDY500

スコット・ブライトンインディ500でのpractice。

すでにポールポジションを獲得したレースカーに代わりバックアップカーで出走。
ターン2でタイヤが破裂しスピン、外側の壁に230mphを上回ると思われる速度で激突し死亡した。
前年につづき2年連続でポールポジションを確定していた矢先の事故だった。享年37歳。

1981年から毎年インディ500に参戦(1982年のみ予選落ち)し、決勝最高位は6位(2回)。また1981年から1993年までいわゆるインディカーシリーズ(PPG cup)にも参戦(1996年はインディ500のほかIRLに1戦出走)を続けていたベテランドライバーだった。

7月14日

ジェフ・クロスノフ Jeff Krosnoff
オフィシャル1名

CART・カナダ

クロスノフチャンプカーシリーズ(CART)第11戦カナダ(トロント市街地)。
92周目(全95周)にクロスノフのマシンが他車との接触からスピン、コースの脇に立つニレの木にマシンが激突して死亡した。享年31歳。また、この事故に巻き込まれたオフィシャルも死亡した。

1988年から1995年にかけては、全日本F3000、全日本GT選手権等などに参戦、日本でも多くのファンを持つドライバーだった。

事故から5年後の2001年、この木が立ち枯れ病のために切り倒されることになったが、レースのオフィシャルたちが中心になって、切り株を残すための募金活動がおこなわれ、集まった寄付金で、クロスノフとオフィシャルの名を刻んだプレートが、2002年に事故現場に設置された。

参考ページ;すがやみつるの雑記帳(縁は異なもの――ホンダ、インディ500参戦異聞) 
STAY HUNGRY! バイバイ、ジェフ・クロスノフ

8月31日 ブレイン・ジョンソン Blaine johnson ドラッグレース

1996BlaineJohnsonインディアナポリスドラッグスターレースウェイで行われた「NHRA Top Fuel Dragster Championship」で、無事フィニッシュラインを超えた直後にエンジンが爆発しタイヤとリアウィングが破損!
コントロールを失ったマシンは左コース側壁に激突し、跳ね返され右コース側壁にも接触した後粉砕した。
ジョンソンはすぐにメソジスト病院に搬送されたものの、全身を強く打っており同日中に死亡した。享年34歳。

※ジョンソンは1990年~1993年に「NHRA WINSTON Alcohol Dragster」に参戦し1994年から『Travers Tool』と契約し「NHRA Top Fuel Dragster」にステップアップを果たし、今後更なる活躍が期待されていたドライバーだった。
NHRAの総合優勝は26回を数える!!

(資料・画像提供はエスクさん)

1997年

3月16日 ジョン・ネメチェック NASCAR

ホームステッドでのNASCARクラフツマン・トラックシリーズ第3戦「フロリダダッジディーラーズ400」にシボレーで参戦。

24周目の第2ターンで単独事故を起して頭部に致命傷を負い、5日後の3月21日に死亡した。享年27歳。

10月19日 横山 崇 (よこやま たかし) 全日本F3

富士スピードウェイで開催された、全日本F3選手権第9戦。

アクシデントからセーフティカーが入ることとなり、イエローフラッグとSCのサインが出た直後、メインスタンド前のストレートで、横山崇の乗るマシンが前車に追突する形で接触。横山崇のマシンは空中に舞い上がり、高さ5.5mでコースを横切るブリッジに激突、マシンはバラバラになって落下した。
横山崇は即死だった。

1992年夏の仙台でFJ1600Aカテゴリーからデビュー、以降仙台と筑波を中心にレース参戦し、生涯成績での最高位は水谷敬一・菅谷重雄と組みインプレッサで参戦した1993年富士ツーリングカー6時間での2位。
以後海外遠征の後、1997年の国内F3でANABUKI無限からエントリー、第5戦の鈴鹿では9位完走を果たしていた。

関連サイト:97富士F3死亡事故裁判・判決要旨 

1998年

1998年 青木琢磨 (あおき たくま) (2輪) テスト

シーズン開幕前のテスト中に事故にあい、脊髄を損傷。
ライダーとしては再起不能となる。

1995年にホンダのワークスライダーとして全日本選手権に参戦、スーパーバイクで95年、96年と2年連続でチャンピオンを獲得。97年からはWGP500クラスに参戦、デビューイヤーにランキング5位を獲得。兄の宣篤、弟の治親と共に青木3兄弟として期待と人気を集めていた。
しかし、車椅子をパートナーとする生活ではあるものの、改造したマシンによるカートやラリーレイドなどレース活動を続けモータースポーツを愛する気持ちは変わっていない。

2月14日 ジャーナリスト1名 ラリー

ベルギーのスパで行われたWRCのステップアップシリーズ[ベルギー1stディビジョンラリーチャンピオンシップ](通称BRC)の一戦「ブクレ(ブークレス?)デ・スパ」で、ベルナール・ミュンスター(バーナンド・ムーンスター)の駆るスバルがコントロールを失い、コースサイドで観戦していた観客の列に突っ込んだ。

この事故により4人が巻き込まれ、そのうち記者の一人が死亡、同行した無線技師、カメラマン、またもう一人の記者が重傷を負った

5月3日

太田哲也 (おおた てつや)

JGTC・富士スピードウェイ

JGTC第2戦。ローリングスタートに向けてペースカー先導によるフォーメイションラップ中、雨が激しく視界が悪かったために、ペースカーはピットに戻らずフォーメイションラップ継続となったが、この混乱によりメインストレートにおいて多重クラッシュが発生。太田哲也のフェラーリ・F355も巻き込まれ、爆発・炎上した。
炎上する太田のマシンに対して救助は遅れ、消化・救出にはドライバー仲間が開始したが、太田は1分近くマシンに取り残された。
太田は瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に一命は取り留めた。

事故の原因として、スタートのペースカーの速度や挙動があげられ、また事故後の救助体制の問題など、レース主催者やサーキットサイドの安全管理など多くの問題点が指摘されることとなった。
太田哲也は当初再起不能と言われたが、事故から2年半後にサーキットへ復帰。リハビリの模様などは、自らの著した書籍や映画化もされた。
関連サイト 太田哲也公式HP  1998JGTCRd.2ドライバー証言集1  
関連書籍 クラッシュ-絶望を希望に変える瞬間-  リバース-魂の戻る場所- 

   
5月17日 澤田 令 (2輪)筑波サーキット

筑波サーキットで開催された全日本ロードレース選手権第3戦。オープニングラップで事故が発生。
澤田令は病院に運ばれたが、脳挫傷の為、10月12日死亡した。享年21歳

1995年全日本ロードレース選手権GP125スポット参戦でデビュー。
1998年にはSUGOで3位に入るなど頭角を現し、期待されていた矢先での事故だった。

8月28日 チャド・コールマン Chad Coleman アメリカ

コールマンアトランタ・スピードウェイで行われた「ARCAレース (Georgia Power 200)」にフォード・サンダバードで出走中、コントロールを失いウォールに45度の角度で激突。
激突時の速度は240km/h以上だったと言われ、コールマンは頭部に致命傷を負い、搬送された病院で死亡した。
享年30歳。

1999年

3月11日 舘 信吾 (たち しんご) テスト TIサーキット英田

TIサーキット英田(現、岡山国際サーキット)でJGTCのテスト走行中にコースを外れクラッシュ。

胸などを強打して死亡した。

5月23日 OSAMU(中嶋 修) フォーミュラ・ニッポン

セントラルパークMINEで開催されたフォーミュラ・ニッポン第3戦は雨の中での開催となった。

強い雨が降り続く中スタートがきられたが、1周目に大アクシデントが発生した。予選16番手からスタートし、中段で走っていたOSAMUは水煙で前が全く見えない状況の中、前を走るクルムを追走。メインスタンドストレートでアクセル全開のままOSAMUがミハエル・クルムのマシンにに接触、クルムをジャンプ台にしてオサムのマシンは跳ね上がりコンクリートウォールへ激突した。マシンのモノコックは割れ、ヘルメットも割れていたという状況であり、オフィシャルも関係者もOSAMU選手は死亡したと思い、ブルーシートが来るのを待っていたという。(事故当時42歳)

OSAMU選手は多発骨折を負い数ヶ月にわたる入院生活を必要としたが、退院後再びレースシーンに復活した。
関連サイト:http://www.geocities.co.jp/MotorCity/2325/krhc.htm「公認非公式?OSAMUファンページ」

6月11日 マーク・ウェバー Mark Webber ル・マン24時間
6月13日 ピーター・ダンブレック Peter Dumbreck

1999年のル・マン24時間耐久レース。
メルセデス・ベンツはGT1規定のマシン「CLR」を送り込んだ。しかし、ル・マン決勝前の予選日、衝撃的なシーンがコース上で展開された。

木曜日の予選2回目、マーク・ウェバーが乗るCLRがミュルサンヌとインディアナポリスの高速区間を走行中、いきなりマシンのノーズが浮き上がり空中に舞い上がったのだった。木の葉のように宙を舞ったマシンは天地逆の状態で落下する。幸いにもウェバーは無事だった。

メルセデスは、フロントノーズ両脇に小さなスポイラーを追加し決勝レースに出場する。
そして6月13日決勝レースがスタートして、約4時間が経過したころ、再びアクシデントは発生する。
ウェバーのチームメイトであるピーター・ダンブレックがCLRで走行中、ウェーバーと同様にマシンは宙を舞った。高く舞い上がりガードレールのはるか上空を通過してコースサイドにマシンは落下した。ダンブレックも無事ではあったが、その衝撃的なシーンは世界中に配信された。

この事故を受けて、メルセデスはル・マンから撤退。(1955年の大惨事による撤退以来、これがメルセデスとしては4度目の撤退となる)
原因は、フロントのダウンフォース不足、路面のうねりにより想定を越えたピッチングが起こり、想定以上の空気がマシン下面に入り込んだこと。前車に近づきすぎたためダウンフォースを失った為、などと言われる。
この事故は、後にFIAを初めとする各種機関で研究され、その研究成果は世界のモータースポーツシーンに提言され、レギュレーション規制やマシン設計に大きな影響を与え、安全性の向上に寄与するきっかけとなった。

7月11日 ミハエル・シューマッハ  Michael Schumacher  F1・イギリスGP

1999年F1第8戦イギリスGPは、スタートしてまもなく他車のクラッシュが発生し、レースは赤旗が提示された。
しかしミハエルにはその知らせが通じなかったのか、シューマッハはチームメイトのアーバインにオーバーテイクを仕掛ける。しかし、オーバースピードからコースアウト、マシンはタイヤバリアにまっすぐにクラッシュし大破。シューマッハは命には別状が無いものの、足を骨折。第9~14戦を欠場することとなった。

ミハエル・シューマッハは、この事故の翌年2000年から2004年まで5連覇を記録、都合7度のタイトルという記録を残して2006年限りでF1から引退。
2009年1月にTVのインタビューにおいて、この事故について次のように振り返っている。
「クラッシュしてマシンが止まり、コクピットから救出されて横たわっていると、自分で心臓の鼓動が急に遅くなっていくのがわかったんだ。
ほらだんだんと炎が小さくなり、やがて消えてしまう時のようにね。それで僕は『ああ、こうして死んでいくんだな』と感じていた。」

8月29日 大島 正 (おおしま ただし) (2輪) もてぎ

スタート1分後90度コーナーでTOP争いの中、インからさして来たマシンに後ろから接触され転倒
コース上に倒れていたところに後続車に頭部を跳ねられた。大島正は病院に搬送されたがほぼ即死の状態だった。享年35歳

82年にレースデビューし88年の鈴鹿200kmで雨の中プライベート参戦ながら優勝を遂げ、89年と90年には鈴鹿8耐で2年連続2位入賞。その後も国内参戦を続け、亡くなる前年の98年には第一回のもてぎ7耐で3位表彰台に上っていた。

(太字の部分は、当時の状況を独自に調査された大島正選手のお母様よりいただいた情報です。 ここに、お母様よりいただいたメッセージを転載させていただきます)
「レースを愛し続け、人生半ばで逝ってしまった
多くのライダーの冥福を祈りながら・・・
レースに係わる人全てに安全管理、危機回避能力など極めて頂いて多くのファンの皆様が熱く燃えるレースで闘って欲しいと思います」
関連サイト:http://www.t-oshima.com/ 
(画像は上の大島正メモリアルサイトより、1999年鈴鹿SSS600でのもの)

9月12日 ゴンザロ・ロドリゲス CART

CARTシリーズ第17戦ラグナセカの予選中コークスクリュー・コーナーでコースアウト。

タイヤバリアとガードレールにTボーンクラッシュの後それを飛び越えて裏返しになり、コース外の法面に転落し死亡。享年27歳

10月31日 グレッグ・ムーア CART
カリフォルニア州フォンタナでのチャンプカーシリーズ最終戦決勝でグレッグ・ムーアが側壁に激突し死亡。享年24歳
 

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