アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
不死鳥と呼ばれたニキ・ラウダ ニュルブルグリンクの炎の中から生還を果たす
ニキ・ラウダ Niki Lauda 本名アンドレアス・ニコラウス・ラウダ F1での主な通算成績 |
1971年途中でマーチ・フォードでF1にデビューした、ニキ・ラウダ。
1972年からフル参戦を開始し、1975年にはフェラーリ312Tを駆って初のチャンピオンに輝いた。
翌1976年もラウダはシリーズを席巻。全16戦中の第9戦イギリスGP終了時には5勝と2位2回、3位1回を記録し、2位のシェクターに25点差という余裕のチャンピオンシップポイントをあげていた。
そして、迎えた1976年ドイツGP。
1976年8月1日 F1第9戦ドイツGP(ニュルブルクリンク)
この日はラウダは非常に神経質になっていた。
年々高速化しつつあるモータースポーツにおいて、ニュルブルクリンクのようなコースは危険すぎるというのがその理由。
ガードレールは貧弱で低く、高速のバンクやジャンピングスポットがあったり、何よりも救急・消防体制が不完全な事を彼は指摘していた。
確かに1950年のF1世界選手権開催以来、
5人の死者と9人の負傷者を出しており、ラウダ自身も1973年に右手を負傷するクラッシュを経験していた。
ラウダは主催者側にも要望を出したが、レース終了後に検討するという始末。
納得いかないながらもラウダは決勝を走る事になった。
オープニングラップ、雨で湿った路面は乾きつつ、ラウダを含むトップグループはタイヤ交換を行う。
ラウダはタイヤ交換をしない下位グループの直後につき、2周目の長いコースへと消えていった。
数分後、ピットから遠く離れたベルグウェルクのコーナー付近で黒煙が上がる。
ラウダは時速180km/hで前の車を抜きあぐねていた。
S字コーナーの出口で、車体後部が幾分スライドし、僅かにカウンターを当てた途端、ラウダの乗るフェラーリ 312T2は外向きに方向を変えスピン状態に陥った。
左側面からキャッチフェンスに当たってそれを突き破り、サイドポンツーンが破壊されて燃料が噴出したところでまともにフェンスに激突。
一気に引火したマシンは火の玉となって跳ね返りコース中央で停止した。
直後のブレッド・ランガー(サーティースTS19・フォード)は避ける暇も無くラウダに衝突、反対側のガードレールまで弾かれたところでさらに後続のガイ・エドワーズ(ヘスケス308D・フォード)がすり抜けようとしてガードレールに衝突し停止。
ハラルド・アートル(ヘスケス308D・フォード)は衝突はしなかったものの、避けようとスピンして事故現場の100m先に停止した。
一面火の海となるコース上。巻き込まれたランガーとアートルはすぐさまマシンを降り、ラウダのもとへ駆け寄る。
エドワーズも近くのマーシャルから消火器を奪い取り、走りながら燃えるマシンに向け噴射した。
▲ ラウダ救出にあたるドライバー達(左からアートル、ランガー、エドワーズ)
ピット前では既に赤旗が提示されている。
続く後続のマシンは先に進む事はできず十数台が現場に停止した。
燃料満載のマシンはなかなか消火できず、遅れてアルトゥーロ・メルツァリオ(ウィリアムズFW05・フォード)も停止し救出に参加。
ようやく炎が消えた時にはラウダは重篤な火傷を負っていた。
この4人の捨て身の救出作業が無ければ、命すら絶望視される事故だった
▲撤去されるラウダのマシン。原型はとどめておらず、事故の衝撃を物語る。
ラウダは救急車に収容されるまでは手の動きなどでコミュニケーションをとれる程だったが、状態は深刻で、顔面の重度の火傷とともに肺を熱傷し、全身のおよそ70%の血液を入れ替えなければならない状態であった。
周囲が絶望的となり、葬儀に先立って司祭まで病室に呼ばれた程で、一部のマスコミは「ラウダ死亡説」まで報道した。
しかし、奇跡的にも容態は回復し、ラウダは死の淵から帰ってくることが出来た。
そして、事故からわずか42日後、第13戦イタリアGPには包帯姿のまま復帰。そのレースで4位完走を遂げてみせた。ニキ・ラウダは不死鳥のごとく、炎の中から復活した。
ニュルブルクリンクはこの事故により22km超の忌わしきオールドコースはF1より閉ざされ、1977年からはホッケンハイムに場を移す事となったのである。
1976年 日本GP (F1選手権 in ジャパン)
最終戦の富士F1(F1選手権] in ジャパン)を迎えたときには、2位のジェームス・ハントとは3点のリードをたもち、ラウダが勝つか、ハントがラウダよりも直順が下、、もしくはハントが5位以下であれば、2年連続となる1976年のチャンピオン獲得となるはずだった。
しかし、雨の富士は夕闇迫る雨の中でのスタートとなる。
ラウダは自らレースを棄権。これによりこのレースで3位に入賞した、ジェームス・ハントが王座を獲得する結果となる。
チャンピオンを自らあきらめた行為には賛否両論あったが、ラウダのこの年の展開、何よりもこのニュルブルクリンクでの事故を鑑みる時、だれも彼を批判する事はできないだろう。
1977年以降
翌1977年、ラウダは3勝をあげ、2度目の世界チャンピオンとなる。
78年にブラバムに移籍し、1979年でF1から引退。
しかし、1982年には、マクラーレンから現役に復帰する。
1984年には、チームメイトのアラン・プロストを抑えて、3度目の世界チャンピオンに輝く。
1985年にはF1から改めて引退する。
引退後は、「ラウダ・エア」「ニキ・エアライン」という航空会社を設立するなどビジネスでも実力を発揮。
その一方では、フェラーリやジャガーのF1チームでアドバイザーとしても活動した。
ニキ・ラウダを救ったドライバーたち
ブレット・ランガー |
ランガーが乗っていたサーティースTS19 |
最初にラウダに衝突したブレット・ランガー。Brett Lunger (アメリカ)
本名ロバート・ブレット・ランガー。
1975年F1デビューしてわずか9戦目にこの事故に遭遇した。
自身も相当の衝撃だったはずだが、身を呈し救出に当たった勇気が賞賛された。2008年現在61歳で健在。アメリカ人。
F1は1975~1978年に34回出走。1978年ベルギーGPの7位が最高位。
ガイ・エドワーズ |
ヘスケス308D |
ガイ・エドワーズ Guy Edwards (イギリス)
冷静沈着な人物で、救急隊の到着時にはラウダの状態を逐一報告した。
F1引退後はスポンサーハンターとなり、スポーツカーレースのジャガーにシルクカット、1992年のF1ロータスにカストロールのスポンサーを
呼び込んだ経緯がある。2006年現在64歳、健在である。
F1は1974~1976年に11回出走(1977年イギリスGPにも出たが予備予選落ち)。
1974年スウェーデンGPの7位が最高位。
ハラルド・アートル |
アートルが乗っていたヘスケス308D |
ハラルド・アートル(アーテル) Harald Ertl (オーストリア)
同郷のラウダの事故にいてもたってもいられず、消火器が到着する前に猛火に飛び込み救出しようとした所をエドワーズに止められた。
映画「グッバイ・ヒーロー」で挿入されるラウダを呼ぶ声は、おそらくこのアートルではないかと思われる。
ふさふさの髭がトレードマークで、その人柄から他のF1ドライバーとも強い親交があった。
1982年4月7日、飛行機の墜落事故で死亡。享年34歳。
各マスコミは翌月事故死したジル・ビルヌーブと併せて「二つの巨星が落ちた」と報じた。
F1は1975~1978年に19回出走。1976年イギリスGPの7位が最高位。
アルトゥーロ・メルツァリオ(メルヅァリオ)
アルトゥーロ・メルツァリオ(メルヅァリオ)Arturo Merzario (イタリア)
本名アルトゥーロ・フランチェスコ・メルツァリオ。
このベテランドライバーの指示により、救出作業に当たった各ドライバー達は落ち着いて行動する事が出来た。
自らも死線をくぐってきただけに、その場の仕切り方には救急隊も脱帽したという。
マルボロのテンガロンハットがトレードマークの陽気なイタリアンで、不遇時代のFerrariに乗せる事となった1973年当時、総帥エンツォは「彼にすまない事をした」と後に語っている。
F1は1972~1979年まで57回出走し、3度の4位(1973年ブラジル・南アフリカ、1974年イタリア)が最高位。
2006年現在63歳で、まだまだモータースポーツへの情熱は盛んである。
画像・文章提供はMOZAさん / 本ページは、MOZAさんの文章を管理人:キャビン85が加筆、再構成したものです。)
|