アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
1974年 富士GC・富士グラン300km (Vol.1)
前年に引き続き富士スピードウェイ30度バンクでおきた大惨事
1974年6月2日 富士スピードウェイ
日本モータースポーツ界、最悪のカタストロフともいえる事故は二人の有能な選手を鬼籍に葬った。
前年の石油危機の影響で撤退を余儀なくされる関係機関や選手が相次ぎ、「明日は我が身」とドライバーや関係者に鬼気迫る雰囲気が流れていた時代の悲劇でもある。
富士グラン300kmと称されたこのレースは最初の1ヒートで高橋国光のマーチが勝ち、3台が棄権。続く午後の2ヒートには総勢17台が出走した。風戸は5番手、鈴木は9番手の順位だった。
前年(1973年)の悲劇の一因ともいえる「密集状態」を緩和するためかローリングスタートとなったこのレース、先頭は国光のマーチが果敢に出たが、早くも2番手は接戦。
先の30度バンクに入るためにコース左側のラインを占守しようと黒沢元治と北野元のマーチが競り合った。その際、黒沢車は二度三度と左にいる北野車に接触、北野車は左のタイヤをコース外にはみ出してしまう。
制動の生じた北野車は右側から数台に抜かれながらも、なんとかコースに戻ろうと試行錯誤。しかし、ちょうど戻った先は、前に風戸車、後ろに鈴木車。なんとその間に割るように入ってしまったのである。
風戸は左の後部、鈴木は左の前部にぶつけられ、鈴木は時計回りに、風戸はその逆で、左の外側ガードレールへ向けてスピンしていった。
北野車はというと、コースを横切ったのち漆原徳光のローラと接触、北野車に漆原車が乗り上げる形となり停止。二人が脱出した直後に車体は炎上した。
一方・・・風戸と鈴木の車はガードレールを突き破り、草地で何度か横転したのちに火を吹いた。
もはやレースと呼べる光景ではなく、リタイヤした北野がコース上に仁王立ちになり、一周目を終えて疾走してくる各車に
身を呈して「止まれ、止まれこの野郎!」と叫ぶというすさまじさ。
風戸は燃え盛る車から自力で這い出し、ふらふらとよろけながらヘルメットを外したが、そこで力尽きるように倒れた。
鈴木はマシンの中で、脱出も出来ずにこと切れた。風戸25歳、鈴木37歳。
もうもうたる黒煙は当時の新聞各紙の一面を賑わし、雑誌各誌もこの事故を取り上げました。
それよりも何よりも、前年の炎上事故に続いて、この事故までもが一般家庭の茶の間にリアルタイムで放映された事。昔の
ナショナルカラーといいますか、すこし濃い目のブラウン管に浮かぶにじんだような炎の橙色は忘れる事ができません。
そして、前年中野選手が死んだあのレース、1位2位はこの鈴木選手と風戸選手でした。
因縁といえばいいのでしょうか、古きよき時代の出来事だけでは片付ける事の出来ない、まさに忘れてはならないシーンであると思いました。
風戸 裕(かざと・ひろし) 16歳で軽免許、18歳で普通免許を取得、その一ヶ月後にはA級ライセンスを獲得し、11日後に早くも船橋のジュニアシリーズで2位デビューを果たす。 優勝したレースは以下の通り。 |
鈴木 誠一(すずき・せいいち) 2輪レースを経て1964年に4輪へとデビュー。1967年には彼のシンボルとなるカーナンバー84が登場する。 |
(文章、写真とも、提供MOZAさん)(改行、タイトルは管理人・キャビン85)
さらに詳しい状況はVOL.2:1974年富士GC(風戸裕・鈴木誠一)もご覧下さい
管理人注:本件事故に関しては、レーサーの死(著者:黒井尚志 出版社:双葉社 )でも、レポートされています。
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