アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
1977年イギリスGP 179Gの衝撃から奇跡の生還を果たしたデビット・パーレイ
デビッド・パーレイ(パーリー) 1945年1月26日~1985年7月2日没 179Gという衝撃から、軌跡の蘇生を果たした F1デビュー 1973年モナコGP |
1977年 F1第10戦 イギリスGP(シルバーストーン)予備予選
1977年F1第10戦イギリスGP(シルバーストーン)
このレース、概要としてはジル・ビルヌーブとパトリック・タンベイの新人がデビューし、ジェームス・ハントが前年アメリカGP以来の勝利、またターボ搭載のルノーがF1デビューを果たしたレースとしても知られる。
そして、総勢40台という多数エントリーがあり、予備予選が行われた事でも記憶に残る。
その予備予選で、おそらくF1史上最も激しいクラッシュといってもいいだろう、大事故が発生した。
LEC.フォードに乗るデビッド・パーレイは予備予選で14台中9位のタイムを出していた。
本予選には上位8台が進出できるため、彼としては自分の前の位置にいるエマヌエル・デ・ビッロータ(マクラーレン)の1分20秒38を超えなければならない。彼の事故前のタイムはこれよりコンマ25遅いタイムである。
彼は持てる力を存分に発揮し、無我夢中で攻める。
そして、ハンガーストレートで時速200km/hを超え、次のコーナーに入ろうとやや減速しようとした際、スロットルが戻らなくなった。
マシンはステアリングの抑制も効かずにコースを飛び出し、超高速のままキャッチフェンスに突っ込む。この時点で、彼のヘルメットは破壊された。マシンはなおも暴走を続け、その先にあるフェンスに真正面から体当たりしてしまう。通常のクラッシュでもこういう状況は深刻視されるが、彼の場合はさらにひどかった。
彼の事故時の速度は108mph(172.8km/h)と記録されている。
事故の際マシンは跳ね返らず、車体が圧縮されるような形でその場に停止した。
実に約66cmの距離で172km/hからゼロまで一気に減速した計算となる。
時間は一瞬だが、この時彼に作用した重力加速度(G)は実に179Gと公表されている。
航空機の墜落事故並みの衝撃である。
(1985年の日航機墜落事故では100Gを超える衝撃を受けた乗客は全て即死だった)
絶望的な状況ながら、付近のマーシャルは彼の救出作業にあたる。
アルミホイルを潰したようなモノコックとマシン外周が原型を留めず破壊され、コクピットらしき位置にいるパーレイは両足粉砕骨折、両腕の複雑骨折に全肋骨も骨折し、内臓破裂、頸部骨折、そしてすでに心臓は停止していた。
重苦しい雰囲気の中病院に収容されたパーレイはしかし、奇跡を起こす。心臓が動いたのだ。
色めき立つ医師団は内臓の治療を含め彼の蘇生措置に全力をあげ、実に5度の心停止→復活の繰り返しの末、再び鼓動を取り戻したのである。
二度とレーシング・ドライバーとしては戦えない身体にはなったものの、パーレイは生命を取り留める事が出来た。現在でも
この事故で発生した重力加速度の記録は、「最も大きい重力に耐えた人間」の名でギネスブックに記録されている。
▲別アングルからの画像。前輪が無事なのが不思議に思える。衝突時のGがコクピットに集中してしまったことが考えられる。
▲現在ドニントンに展示されている、事故当時の残骸。リヤ部分から見たアングルである。
パーレイはF1断念の後、空に活路を求め、エアアクロバットのパイロット資格を得た。
そして1985年7月2日に曲技飛行中他機と接触、海に墜落し、40年の波乱万丈ながら短い生涯を閉じた。
冷凍機器会社の御曹司という鳴り物入りのデビュー。ロジャー・ウィリアムソンとのエピソード、そしてこの歴史に残る大事故と、まさに記録よりも「記憶」に残るドライバーの一人だった。
F1は1973~1977年に7回出走(75・76年出走せず)。1973年イタリアGPの9位が最高位。
(文章提供はMOZAさん。一部はキャビン85が追記・修正しました)
(画像1/2/4枚目は提供MOZAさん・画像3枚目はjohnさん提供)
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