アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
1973年 富士GC 富士スーパー200kmレース
富士スピードウェイ30度バンクでおきた大事故
1973年1月.23日 中野 雅晴(なかの・まさはる) (クレバー・シェブロンB23・フォード) 享年24歳。 コース:富士スピードウェイ |
オイルショックが到来したこの年、GC界で未曾有の
大惨事が発生した。42台が参加したこのレースはこの
年のグラチャンレースの最終戦。富士ビクトリー200kmレースと冠ぜられた。
中野雅晴は、朱色のシェブロンB23・フォードで参戦。
朱色の車に同色のヘルメットの中野はひときわ目立つ存在だった。
クリスマスツリーが点灯して轟音を響かせながらのスタート。
そして・・・まず生沢徹のシグマが十分なラインをとれず30度バンクの下方を走行。
さすがに挙動が不安定となりスピンを起こしてしまい、操縦不能に陥りながらバンク上方に駆け上がってくる。
丁度そこを通過しかけた漆原徳光のローラの右側面に激突、両車は弾け飛んだ。
後方は大混乱。
まず津々見友彦のローラが田島基邦のシェブロンに接触、
田島は岡本安弘のシグマに追突する形となり、
さらに前にいた清水正智のマーチに衝突。
清水車は前方の事故を回避しようと若干左にハンドルを切っていた中野のシェブロンの左横腹に激突した。
完全に横向きとなった中野車は前部から上方ガードレールに激突、
それとともに物凄い爆発音を上げて炎を上げた。
この炎に清水、田島、岡本が巻き込まれ、連鎖反応のように次々と炎上。
巨大な火の塊と化しながらバンクを滑り落ちていった。
田島は岡本に助けられ、清水は二人に救出されたが、
中野車は火の勢いが激しく消防隊が近寄る事すら出来ない。
腕はステアリングを持ったままの形で、姿は見えるのだが成す術がなかった。
結果鎮火まで火は消されず、黒煙はレース中上がり、マシンはその黒煙の中を通過
するという異様な光景を呈した。
以下は事故の模様の画像です
▼バンク下方でコントロールを失い、スピンに陥る生沢徹のシグマ
▼スピンしながら猛スピードでバンクを駆け上がってくるシグマ。この直後、向かって左端の漆原徳光のローラと激突大破
▼前方で起こった衝突事故を避けるべく後続車が回避、その中で中野の車に清水、田島の車が次々と追突。
▼数台もつれあいながら上方のガードレールにむけて一直線。中野車は既に90度向きを変えている。
▼中野のシェブロンが外側ガードレールに衝突した瞬間。生沢と漆原はこの前方で大破している
▼間髪入れず燃料タンクが破裂、大音響とともに中野車が爆発炎上
▼清水、田島、岡本の各車も次々と誘爆。火の手はガードレールや金網までも越える巨大なものに
▼火の帯は須走り落としの地点まで到達、ゆっくりと坂を落ちていく
▼炎を吹き続ける中野のシェブロン。真っ赤な車、真っ赤なヘルメットの中野車はこの後延々と燃え続けた
▼事故の顛末の全景。前方では生沢と漆原が衝突、後方では中野車を含む数台が連鎖事故となった。
▼立ち上がる黒煙。前方が中野車、後方が巻き込まれた車の炎。この後レース終了近くまでこの黒煙は上り続けた。
▼TV中継で茶の間にも流れた炎上の模様。スタート直後で燃料が満載であったため、しかもそれが4台出火と
いう未曾有の大炎上であったため消化剤が足りず、結果自然鎮火を待つよりなかった。
このため、このレース後に予定されていた別レースも消化剤の払底という理由で中止されている。
当時はTVの生中継中で、この黒煙の影の中を他のマシンが潜り抜けて行く様は異様だった。
一命を取り留めた三人、田島は軽症で済んだが岡本は顔面を含む身体の大部分に大きな熱傷、清水は激突の際腕を後に450針も縫うという大きな裂傷を負っていた。この事故後、風戸裕選手がホームストレートにシケインを二つ設置する案などを出したが、結果それは定着しなっかった。それから一年も経たずに風戸裕自らが同様の事故で亡くなってしまうこととなる。
まさに暗黒の時代だった。
(文章、写真とも、提供MOZAさん)(改行、タイトルは管理人・キャビン85)
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