Accident
1949年以前
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2輪
 
アクシデント詳細
1927 速度記録会
1933 モンツァ
1938 ベルント・ローゼマイヤー
1955 アルベルト・アスカリ
1955 ル・マン24時間
1956 ル・マン24時間
1957 ミッレ・ミリア

1958 INDY500

1960 F1ベルギーGP
1961~68 ウイリー・メレス
1964 ドイツGP
1964 INDY500
1967 ロレンツォ・バンディーニ
1969 福沢幸雄
1969 鈴鹿12時間耐久
1970 川合稔
1970 「栄光の・ル・マン」
1971 ブエノスアイレス1000
1973 F1アメリカGP
1973 富士GC
1973 INDY500
1974富士GC Vol.1 Vol.2
1974 F1アメリカGP
1974 ピーター・レブソン
1975 F1スペインGP
1976 F1ドイツGP
1977 F1イギリスGP

1977 F1カナダGP

1977 トム・プライス
1977 F1日本GP

1978 F1イタリアGP

1980 パトリック・デパイエ
1982 ベルギーGP

1982 INDY500

1982 カナダGP
 
 
 

 

 
 
 

 

 

アクシデント ~忘れてはいけない記憶~ 

1978年 イタリアGP (ロニー・ピーターソン)

ロニー・ピーターソン

ロニー・ピーターソン(ペテルソン)(ペターソン)

Ronnie Peterson

(スウェーデン出身)

1944年2月14日生 1978年9月11日没
(享年34歳)

主な記録

F1参戦:123回
優勝:10回
ポールポジション:14回
ファステストラップ:9回

1978年9月10日 F1イタリアGP (モンツァ)

ロータスの二人のドライバー、アンドレッティが63ポイント、ロニー・ピーターソンが51ポイントと僅差で迎えたこの第14戦イタリアGP。
このレースを含めて残り3戦(イタリア、次戦アメリカ、最終戦カナダ)の成績によっては、ピーターソンにもチャンピオンのチャンスが少なからずあった。マシンは共にロータス79・フォードである。

ポールポジションは、ポイントリーダーのマリオ・アンドレッティが獲得。
ロニー・ピーターソンは予選5位からのスタートとなる。この予選でピーターソンはスピンしてキャッチフェンスに当たり、マシンを壊したため決勝はスペアカーで出る事となる。

異常なスタートの混乱の中で

スタートは異様であり、異常だった。

フォーメーションラップを終えて各車が自らのグリッドに付く。
上位陣はグリッドで停止し、シグナルが点灯するのを息を殺してみつめていた。
ここで、早くもシグナルの赤いランプが点灯しはじめた。ドライバー達は変だと思いながらも反応した。
この時点で、5番手のピーターソンはまだゆっくりとグリッドに向けて20mほどの位置を動いていた。
また、最後尾24番手のネルソン・ピケ(マクラーレン)はようやくパラボリカからグランドスタンド前に姿を現した状態。
何かが起こる事は、明らかだった。

あまりにも早すぎるシグナルの点灯に、上位陣はスターターのミスだろうと、エンジンの回転数を上げる行為を行わず、かたや後方群は、異変を感じながらも「赤」が灯いている事実があるため、急いで加速しながらグリッドまで到達しようとした。
ミスと思われていたシグナルは、そのままスタートのシグナルに変わってしまう。周囲は騒然とした。

上位陣はクラッチミートが遅れたため、スタートで加速が効かずゆっくりとしたスタート。
ピーターソンもそうだった。
一方の後方集団は充分な回転数が維持できていたため、ここぞとばかりに加速する。
最後方のブランビラやピケなどは、スロットル全開のままグランドスタンドを駆け抜けていった。
速い車、遅い車が混然一体となり、異常なほど横に広がったマシン群。
その状態で一気にコース幅が狭まる漏斗状の1コーナーに飛び込んだからたまらない。
12番手スタートのリカルド・パトレーゼ(アロウズ)は混雑を回避しようとして僅かに左に寄り、直前にいたジェイムス・ハント(マクラーレン)に追突してしまう。

その左前にいたのがピーターソンで、ハントの車はロータスの右後輪に激しくぶつかった。
衝撃でロータスは方向が変わり、内側ガードレールへ向けてスピン、真正面から激突して燃料タンクが破裂したため炎をあげ、跳ね返りながらクレイ・レガッツォーニ(シャドウ)、ディディエ・ピローニ(ティレル)などを巻き込んで大破した。
また、全開で追い上げていたビットリオ・ブランビラ(サーティース)は突然の事故に回避しようとしてガードレールに激突、こちらも後に頭蓋骨骨折という深刻な怪我を負ってしまう。

▲事故の瞬間。異常なスタートの結果、すさまじい多重衝突となった。

現場はまさに修羅場だった。燃え盛るロータスからまずパトリック・ドゥパイエ(ティレル)がステアリングを蹴り上げてはずし、ハントがピーターソンを引き出して路上に横たえた。

ピーターソンはハントやピローニが心配して駆けつけると微笑みも見せ、彼らは生命の危険はないのではないかと考えていた。事実、シド・ワトキンス医師が外科の顧問とともに現場で人垣を作り応急診断をしたが、足が折れているようには見えなかったのである。

▲壮絶な事故現場。下から、ジャコメリのマクラーレン、レガッツォーニのシャドウ、ピーターソンのロータス、ハントのマクラーレン、デイリーのエンサイン、そして一番むこうにロイテマンのフェラーリiが見てとれる。
右端では頭部に重症を負ったブランビラをサーティースから引き出す作業が行われている。
横たわるピーターソンの側に佇むのはハントとレガッツォーニ。当時ピーターソンの足は切断されたのではないかと報じられたが、これはレーシングスーツのズボンが伸びたためである。


ニグアルダ病院での診察の結果、彼の足は亀裂骨折であり、ひびをピンで止める手術で済むという見解だった。公式の記者会見でチーム監督のコーリン・チャップマンも安堵の表情を見せていた。ピーターソンは集中治療室で、その日は安定した容態を保っていた。

しかし、明くる11日の午前4時、思いもよらぬ報道が世界中を駆け巡る。
ピーターソンが死亡したのだ。

事の原因は診断の結果、大腿骨の亀裂が筋肉を傷つけた際に流出した脂肪沈殿物が、傷から血管に進入し肺に達した際そこで血管閉塞を起こし、循環器系を侵しなおかつ、そこで充分な酸素を取り込めないために脳にも負荷が発生。順番に多臓器不全が起こり、死に至ったという見解だった。
またニグアルダ病院は衛生的にもおおよそ病院らしからぬ状態で、雑菌感染説も取り上げられた。
彼の死はガンで死んだグンナー・ニルソン(彼もロータスだった)とともにスウェーデンの大きな損失だった。享年34歳。

ロニー・ピーターソンの記録

F1は1970~1978年に123回出走。優勝は10回(1973年フランス・オーストリア・イタリア・アメリカ、1974年モナコ・フランス・イタリア、1976年イタリア、1978念南アフリカ・オーストリア)
ポールポジションは14回(1973ブラジル・スペイン・ベルギー・スウェーデン・イギリス・オランダ・イタリア・カナダ・アメリカ、1974年アルゼンチン、1976年オランダ、1978年ブラジル・イギリス・オーストリア)、
ファステストラップを9回(1973年スペイン・オランダ、1974年モナコ・オランダ、1976年イタリア、1977年アメリカ、1978年
ベルギー・ドイツ・オーストリア)記録している。
また、1971年はF1に乗りながらもこの年のF2の王座に輝いている。


(写真および文章はMOZAさん提供。文章の一部を管理人キャビン85が修正、追記しました)
 

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