2輪 レースでのアクシデント
|
モータースポーツの歴史の中で、事故・アクシデントによる、負傷・死亡は避けられないものです。
素材、設計、レギュレーションの進歩により安全性の向上が図られる4輪のレースに比べると、2輪(オートバイ)により争われるモータースポーツでは、その危険性は何倍にもなることでしょう。
管理人(キャビン85)は、残念ながら2輪のモータースポーツ・レースに関して、多くの知識を持ちません。
しかし、掲示板より数々のアクシデントの情報をお寄せいただきました。
情報をお寄せいただいた方々に感謝いたしますと共に、ここに謹んで掲載させていただきます。
|
|
年月日 |
氏名 |
カテゴリー・場所 |
状況 |
2000年代 |
2008年9月7日 |
山中隆司 |
サイドカー |
富士スピードウェイで開催された「08クラブマンロードレース」において、サイドカー部門にパッセンジャーとして参戦していた山中隆司が、マシンが他のマシンと接触した弾みに投げ出され、頭を強く打って死亡した。
11台が参戦し、8周で争うレースの5周目、時速約160キロで右カーブのコース内側寄りを走行中、外側を走っていた他の車両と接触したもの。 |
2008年8月3日 |
クレイグ・ジョーンズ |
WSS |
(イギリス)
イギリス・ブランズハッチで行われたスーパースポーツ世界選手権にParkalgar Hondaより参戦したクレイグ・ジョーンズが、2位を走行中、クラークカーブでジョナサン・レイ、アンドリュー・ピットに挟まれた形でクラッシュ。この時CBR600RRのタイヤが頭部を直撃し、重い頭部外傷を負い、翌4日午前0時32分搬送先のロイヤルロンドン病院にてに死亡した。享年23歳。
|
2008年7月13日 |
須藤郡宏 |
モトクロス |
モトスポーツランドしどきで開催された「2008CLUB MAN MOTOCROSS」第7戦。レース3週目(1週1.5キロ)に入った上り坂で、須藤郡宏のマシン(450cc)がバランスを崩し転倒、後続のマシン3-4台にはねられ全身を強く打ち死亡した。
須藤郡宏は神奈川県平塚市職員で、前年の同大会でアマチュアのクラスで年間優勝した選手だった。 |
2007年9月4日 |
沼田憲保
(ぬまた のりやす) |
練習走行 岡山国際サーキット |
午前10時50分ごろ、岡山国際サーキットで練習走行を行っていた沼田憲保が、ヘアピンカーブを曲がりきれずコース脇のタイヤバリヤに激突、胸などを強く打って死亡した。
享年41歳。
95、96年の全日本選手権GP250のチャンピオンであり、97、98年には世界選手権GP250に参戦するなど、日本を代表するレーサーとして知られた。
関連サイト・:不死鳥伝説 |
2007年8月26日 |
奥野正雄
(おくの まさお) |
全日本ロードレース選手権 |
全日本ロードレース選手権シリーズ第5戦」「ST600クラス」の決勝6周目(全18周)の第1コーナー直前で奥野選手のマシンが電気系のトラブルでスローダウンし、そこに後続マシンが激突し、6台を巻き込んだ事故が発生した。。この事故で奥野正雄が頭を強打し意識不明の重体となり、ほかのレーサー5人が軽傷を負った。
奥野選手は東北大学病院の高度救命救急センターで懸命な治療を受けていたが、9月26日午後12時49分重症脳外傷、脳ヘルニアにて死亡した。享年32歳。
関連サイト:奥野正雄オフィシャルWEBサイト |
2007年3月24日 |
ロベルト・ロカテッリ |
ロードレース世界選手権250ccクラス スペイン |
ロードレース世界選手権250ccクラスに参戦中、スペイン・へレスでのスペインGPのフリー走行中に、時速160キロで転倒し、防護壁に激突。頭部と顔面を強打し、肩と左足首を複雑骨折した状態で、地元の病院に搬送され、緊急手術を受けた。頭部を強打しており、自発的な呼吸はしているものの予断は許さない状況とされていたが、幸いにも28日に意識が回復した。(4月1日時点)
2000年の125ccクラスチャンピオンを獲得、2006年は250ccクラスでランキング5位となっている。 |
2007年1月9日 |
エルマー・シモンズ |
ダカール・ラリー |
(南アフリカ)
1月6日スタートしたダカールラリーにKTMのバイクだ参加。モロッコのエルラシディアからワルザザートまでの第4ステージ(679キロ)の砂地で衝突事故で死亡した。享年29歳。
シモンズは過去2大会に支援チームのメンバーとして参加しており、選手としては今大会が初出場だった。
|
2006年5月29日 |
前田 淳 |
マン島TTレース |
マン島TTレースでの練習走行中、スタート地点から3マイルほどの地点
(ユニオン・ミルズ先)で、何らかの理由でスロー走行していた前田淳選手とアイルランド人ライダーと衝突。前田選手は骨盤、肋骨など数ヶ所の骨折を負い、すぐさまマン島内の病院に搬送されたものの後に英国マンチェスターの病院へと移送。緊急措置が行われ、入院していたが容態が急変。6月6日に同病院で死亡した。享年38歳。
関連サイト:前田淳マン島奮戦記 |
2006年5月16日 |
ステファン・グスタフソン |
スウェーデン |
(スウェーデン)
スウェーデン・リンコピングでの「リンコピングTT」にホンダ600で練習走行中に転倒して死亡。享年22歳。 |
2006年4月2日 |
加藤直樹 |
ST600・ツインリンクもてぎ |
MFJ全日本ロードレース選手権開幕戦、ST600クラスの出場した加藤直樹がスタート直後の5コーナー立ち上がりでハイサイドを起こし転倒、後ろからきたオートバイに跳ねられ死亡した。
加藤直樹プロフィール |
2006年1月9日 |
アンディ・カルデコット |
ダカールラリー |
パリダカ2輪部門で走行中、ヌアクショットからキッファのSS250キロ地点で午前11時31分にクラッシュ。即死だった。享年41歳。
パリダカの歴史の中、23人目の事故死となった |
2005年10月29日 |
岡河司郎 |
もてぎ |
全日本ロードレース選手権最終戦(もてぎ)
ST600予選1回目の90度コーナーで転倒、セカンドアンダーブリッジのコンクリート壁に激突。搬送先の病院で死亡。享年32歳 |
2005年6月12日 |
佐藤圭介 |
鈴鹿サーキット |
鈴鹿200km耐久ロードレースの予選。
鈴鹿サーキットの2コーナー付近で、前を走っていて転倒した2台を避けようとしてコースから外れ、コンクリート壁の切れ目にに衝突し間もなく死亡。
同年5月の鈴鹿選手権シリーズ第2戦で雨の中優勝し、事故当日も予選2グループ目の2番手のタイムを記録していた矢先の事故。享年24歳。 |
2005年1月11日 |
ファブリッツィオ・メオーニ |
ダカールラリー |
テレフォニカ・ダカール2005の第11ステージで10時15分175kmポイントにおいて転倒、20分後に医者を乗せたヘリコプターが到着し救急措置がとられたが、その甲斐なく11時11分死亡が確認された。享年47歳。
ダカールラリーの歴史の中で11番目のライダーの死亡事故となった。
1994年のパリダカで4位入賞をはじめ、2001・2002年はダカールラリーを連覇しており、砂漠の帝王とも呼ばれた偉大なチャンピオンライダーだった。 |
2003年4月6日 |
加藤大治郎
(かとう だいじろう) |
日本GP(鈴鹿サーキット |
モトGP開幕戦、日本GP決勝の3周目に大クラッシュ、頭、首、胸などを強打して加藤大治郎は意識不明の重体となる。多くのファンがその回復を祈ったが、願いはかなわず事故発生から15日目の4月20日午前零時42分、脳幹梗塞のため入院先の三重・四日市市内の病院で亡くなった。享年26歳
関連サイト:大ちゃんすばらしい感動をありがとう(HONDA Motorsports)
加藤大治郎選手事故調査委員会の報告を受けて
加藤大治郎選手の事故はウィーブモードが原因(OCNスポーツ) |
2002年10月27日 |
池 溶哲 |
筑波サーキット |
つくばサーキットで開催された関東チャレンジカップロードレース選手権シリーズ第7戦のレース中、最終コーナーの立ち上がりで転倒。池選手はコース外に避難しようとしたが、後続車に撥ねられて死亡した。享年30歳。
|
2002年6月8日 |
コディ・ハースト |
アメリカ |
(アメリカ)
ダンビルでの「ダンビル・ナショナリー・レース」に出場、転倒後跳ね上がったマシンが自分の上に落ち、内臓破裂で死亡した。享年17歳。 |
2000年7月30日 |
山川 守 |
鈴鹿8時間耐久 |
鈴鹿8時間耐久ロードレースに山中正之とペアを組んで、カワサキZX―9Rで出場。スタートして約1時間後、32週目の130Rで転倒。病院に運ばれたが全身を強く打っており、まもなく死亡。享年47歳
この年23回の歴史を刻む鈴鹿8耐での初の死亡事故となった。
山川守選手は8耐が始まった1978年から参戦し、この年で18回目の参加(決勝は12回目)となるベテランだった。 |
2000年7月2日 |
ジョイ.ダンロップ |
エストニア |
エストニアの首都タリン近郊で行われた公道レースでコースアウト。立木に激突して全身を強く打ち死亡。享年48歳
この1ヶ月前に開催されたマン島TTレースで最多勝記録となる通算26勝をあげていて、公道の王者とも言われる存在だった。。 |
2000年3月7日 |
小倉直人 |
テスト(鈴鹿サーキット) |
スーパーバイクの合同テスト中にヨシムラ・スズキ(GSX1300R隼)の小倉直人が鈴鹿サーキットのヘアピン過ぎの右200Rでハイサイドを起こし、アウト側のバリアに激突、病院に運ばれたものの、頭がい底骨折のため、死亡した。享年31歳。 |
1990年代 |
1999年8月29日 |
大島 正
(おおしま ただし) |
もてぎ7時間耐久レース |
スタート1分後90度コーナーでTOP争いの中、インからさして来たマシンに後ろから接触され転倒。コース上に倒れていたところに後続車に頭部を跳ねられた。大島正は病院に搬送されたがほぼ即死の状態だった。享年35歳
82年にレースデビューし88年の鈴鹿200kmで雨の中プライベート参戦ながら優勝を遂げ、89年と90年には鈴鹿8耐で2年連続2位入賞。その後も国内参戦を続け、亡くなる前年の98年には第一回のもてぎ7耐で3位表彰台に上っていた。
(太字の部分は、当時の状況を独自に調査された大島正選手のお母様よりいただいた情報です。
ここに、お母様よりいただいたメッセージを転載させていただきます)
「レースを愛し続け、人生半ばで逝ってしまった
多くのライダーの冥福を祈りながら・・・
レースに係わる人全てに安全管理、危機回避能力など極めて頂いて多くのファンの皆様が熱く燃えるレースで闘って欲しいと思います」
関連サイト:http://www.t-oshima.com/
(画像は上の大島正メモリアルサイトより、1999年鈴鹿SSS600でのもの)
|
1998年5月17日 |
澤田 令 |
全日本ロードレース選手権 |
筑波サーキットで開催された全日本ロードレース選手権第3戦。オープニングラップで事故が発生。澤田令は病院に運ばれたが、脳挫傷の為、10月12日死亡した。享年21歳
1995年全日本ロードレース選手権GP125スポット参戦
でデビュー。1998年にはSUGOで3位に入るなど頭角を現し、期待されていた矢先での事故だった。 |
1998年 |
青木琢磨
(あおき たくま) |
テスト |
テスト中に事故にあい、脊髄を損傷。
1995年にホンダのワークスライダーとして全日本選手権に参戦、スーパーバイクで95年、96年と2年連続でチャンピオンを獲得。97年からはWGP500クラスに参戦、デビューイヤーにランキング5位を獲得。兄の宣篤、弟の治親と共に青木3兄弟として期待と人気を集めていたが、テスト中に事故に遭い脊髄を損傷してしまった。
しかし、車椅子をパートナーとする生活ではあるものの、カートなど可能なレース活動を続けている。 |
1995年6月3日 |
ボブ・ムンロ |
マン島TT・サイドカー |
英国マン島での「マン島TT・サイドカー部門」にヤマハで出走したボブ・ムンロ&ポール・ファーガー。1周目の衝突事故でカーブを直進し横転、パッセンジャーのポール・ファーガーがマシンから投げ出されて死亡した。ポール・ファーガー(イギリス)享年31歳。
運転側のボブ・ムンロも重傷を負ったが、命は取りとめた。 |
ポール・ファーガー(パッセンジャー) |
1995年4月20日 |
スティーブン・グレイソン |
テスト イギリス |
(イギリス)
英国カドウェルでヤマハTZ125の練習走行中に転倒、二日後の22日に死亡。 |
1995年 |
永井康友 |
スーパーバイク世界選手権・オランダ |
1995年から日本人として初めてスーパーバイク世界選手権にのフル参戦を開始した永井康友だったが、その年の第10戦オランダ(アッセン)において、ドゥカティ916がエンジンブローによってまき散らしたオイルにのって転倒。マシンから投げ出されて滑走する永井選手の上に跳ね上がったマシンが落ちるという不運も有り、意識不明の重体となった。回復はかなわず病院で9月12日死亡した。享年29歳。 |
1994年10月9日 |
アレキサンダー・コザック |
モトクロス ドイツ |
(ドイツ)
ドイツ・ハイバッハでのモトクロスレース「インタークロス・DM・ストラスベッセンバッハ」にカワサキに乗り出場、3ヒート制の最終レースで障害飛越に失敗し転倒、その際大腿部の動脈を切断してしまい、出血多量で死亡した。享年17歳。 |
1994年7月31日 |
宇川徹(うかわ とおる) |
鈴鹿8耐 |
岡田忠之とペアを組み、鈴鹿8時間耐久レースに参戦。
スタート30分後の11週目の200Rの出口で下位集団のマシンから噴出したオイルに乗って転倒。マシンも炎上し宇川も首の骨を折る重傷を負い、シーズン後半を棒に振る。この事故により、鈴鹿8耐初の赤旗中断となり、2ヒート制となった。 |
1993年5月1日 |
若井伸之 |
ロードレース世界選手権・スペインGP |
1993年のロードレース世界選手権(現在のMotoGP)250クラスに参戦していた若井伸之選手。
第4戦スペインGP(ヘレスサーキット)の予選中にピットロードに飛び出してきた招待客を避けようとしてコンクリートウォールに激突し死亡。享年25歳。 |
1993年 |
ウェイン・レイニー
Wayne Rainey
|
ロードレース世界選手権・イタリアGP |
ロードレース世界選手権(WGP)500cc第12戦イタリアGPにおいてトップ走行中のウェイン・レイニーがハイサイドを起こして転倒。マシンから振り落とされたレイニーは、不運にも頭部からグラベルに落下してしまう。この事故によりレイニーは第六頚椎損傷の重症を負い引退を余儀なくされる。
1990年から92年の間WGPを3連覇し、この93年もランキング2位のケビン・シュワンツに11ポイント差をつけているという、まさにキャリア絶頂期での突然の引退となってしまった。 |
1992年5月27日 |
デイブ・ヘイス |
イギリス サイドカーレース |
英国カドウェルでのサイドカー・レースにヤマハで参戦したデイブ・ヘイスとケビン・ロンデスが、接触によりコースアウトしサイド側からタイアバリアに衝突して爆発した。
この事故により、パッセンジャーのケビン・ロンデスが即死、運転側のデイブ・ヘイスは肺に穴が開く重傷を負ったが、命は取り留めている。
ケビン・ロンデス(イギリス)享年23歳
|
ケビン・ロンデス(パッセンジャー) |
1992年 |
ジル・ラレイ |
パリ〜シルツ〜ル・カップ |
1991年12月25 日〜1992年1月16日こ開催されたこの年のパリ・ダカルラリーは例年のダカールゴールが変更され、南アフリカのル・カップ(ケープタウン)がゴールというコースをとられた。
このレースの中、モト部門に参戦していたG.ラレイがポワント・ノワールのリエゾン中、主催者側のメディカル・アシスタントカーと衝突して死亡した。
ジル・ラレイは1989年のパリ・ダカ優勝者であり、1985年世界エンデューロチャンピョンでもあった。 |
1990年5月28日 |
ポール・ワルシュ |
|
(イギリス)
カドウェルでのレースでヤマハに乗り出場、コースアウトして転倒しながらタイアバリアに激突、さらに後続車が同じ現場に突っ込んだためこの二次災害が致命傷となり死亡した。享年24歳。 |
1980年代 |
1988年 |
イルトン・ベロソ・カバルカンディ・フィルホ |
モトクロス ブラジル |
(ブラジル)
ブラジルでのモトクロス・レース「カンピオナート・ブラジリネイロ・デ・モトクロス」に出走、ジャンプ中にバイクが下を向き、頭部から地面に転落して即死した。 |
1987年7月16日 |
平 忠彦
(たいら ただひこ) |
GP500 フランスGP |
フランスGP(ブガッティ・サーキット)の練習走行中、第一コーナー手前、6速全開から減速に入ろうとした時にエンジンが焼き付き後輪がロック。
時速260キロものスピードでクラッシュとなり、ストローバリアに叩きつけられた。平は第5頸椎圧迫骨折の重症を負うが、幸いにもわずかな差で手足の麻痺からは逃れた。
わずか1週間後の7月23日の鈴鹿8時間耐久レース公式練習に姿を見せ、8周のフリー走行を行う。しかし、風圧で首に負担がかかるとの事で出走を諦め、監督としてピットで指揮を取った。このレース見事にヤマハの8耐初優勝を記録している。。
その後の平は鈴鹿8耐を活動の中心として、1990年にはエディー・ローソンとくんで悲願の自身初優勝を記録する。
|
1986年 |
平 忠彦
(たいら ただひこ) |
スペインGP |
スペインGP250ccクラス。
押しがけスタートに手間取り、後続車に追突されて足を骨折する重傷を負った。
復帰後の最終戦サンマリノGPではGP初優勝を遂げている。
なお、この事故により押しがけスタートの危険性が問題視され翌1987年からクラッチスタートに変更された。 |
1985年9月14日 |
マーテイン・ホール |
イギリス |
(イギリス)
英国スカボローでの「スカボロー・インターナショナル・ゴールドカップ」に出走中、ヘアピンで転倒しガードレールに激突して即死。 |
1983年6月25日 |
フランコ・ウンチーニ
Franco Uncini
|
オランダGP |
(イタリア)
アッセンで開催されたオランダGPにおいて、前年度(1982年)チャンピオンのフランコ・ウンチーニがコース中央で転倒。マシンから投げ出されたウンチー二はとっさにコース外に逃れようとしたが、同じ方向に回避したワイン・ガードナーのマシン前輪がウンチーニの頭部(ヘルメット)を直撃してしう。ウンチーニはヘルメットが脱げた状態で地面に叩き付けられ、意識不明で病院に搬送された。
幸いにもウンチーニは回復することができ、レースに復帰、1985年に引退した。引退後もレースの安全面について積極的に提言を続ける活動を続けている。
あお、この事故でウンチーニと接触したガードナーにとってこのレースはデビュー戦であった。 |
1983年6月10日 |
木山賢悟 |
GP500 鈴鹿 |
鈴鹿200kmロードレースGP500ccクラス予選走行中スプーンカーブ入口の200Rで転倒、スポンジバリアに激突して即死した。 |
1983年 |
片山敬済
(かたやま たかずみ) |
サンマリノGP |
最終戦サンマリノGP500tクラス予選においてタイムアタック中、200q/h以上のスピードで転倒。第三腰椎圧迫骨折・右足2箇所、左脚1箇所骨折の重傷を負った。
1977年には350ccクラスで日本人初の世界チャンピオンを獲得。
事故後は復帰したが、1985年フランスGP予選終了後に突如現役を引退した。
(日本生まれの日本育ちではあるが、国籍は韓国であった) |
1983年4月16日 |
ラインホルト・ハーゲンマイヤー |
サイドカー ドイツ |
(ドイツ)
シュパイエルでの「DMルーフ・シュパイエル」(サイドカーレース)に兄ハイラーのパッセンジャーとして乗車。コースアウトしてコーナーポストに激突、死亡した。享年不明。兄は生命には別状なかった。 |
1983年3月29日 |
石川岩男 |
練習走行・ブガッティサーキット |
この年からロードレース世界選手権500クラスにプライベートで参戦予定だった石川岩男選手が、フランスのブガッティサーキットで練習中にレッジアーニ選手に高速で追突され、内臓破裂で死亡した。
1978年には国内350クラスで全戦優勝でチャンピオンになる等、才能のあるライダーだったが、この頃は日本人がワークス体制で世界に出る環境に無く、プライベートで参戦するしかなかった。
|
1982年 |
バリー・シーン
Barry Sheene |
ロードレース世界選手権・イギリスGP・練習走行 |
イギリスGPでの練習走行中、コース上に転倒していた別のバイクに衝突。1975年の事故に続いてまたしても瀕死の重傷を負った。
この年は1975/76年に続いてのチャンピオン獲得が期待されていたが、この事故によりチャンピオン争いから脱落してしまう。1984年に引退後はTVコメンテーターを務めたが2003年3月10日食道癌により死去。ゼッケン「7」がシーンの代名詞でもあった。 |
1981年7月11日 |
ファン・フェルナンデス |
モンジュイック24時間 スペイン |
(スペイン)
バルセロナ・モンジュイックでの「モンジュイック24時間」にラヴェルダで出走したファン・フェルナンデスだったが、先にクラッシュしていたバイクに衝突して即死。この事故で先に転倒していたエリック・コーリーと、手当てにあたっていた医師団数名が巻き込まれて負傷した。
ファン・フェルナンデス享年20歳。 |
1970年代 |
1975年 |
バリー・シーン
Barry Sheene |
デイトナ200マイル |
スズキのマシンでデイトナスピードウェイでのデイトナ200マイルレースに参戦。250km/h以上のスピードで転倒、瀕死の重傷を負った。原因はタイヤトラブルと言われる、
しかし、同年末には世界GPレースに復帰、500ccクラスで初優勝を遂げ、1976年と1977年ロードレース世界選手権GP500チャンピオンに輝いている。 |
1975年 |
隅谷守男 |
テスト |
フランスのル・マン、ブガッティサーキットにおいて、ボルドール24時間耐久レースに向けた練習中、転倒して死亡 |
1973年5月20日 |
J.サーリネン
R.パソリーニ
|
イタリアGP |
250ccクラススタート直後の第1コーナーで12台が絡む多重衝突事故が発生。この事故で、サーリネンとパソリーニの2人が死亡した。
この事故により、同日開催される予定だった500ccクラスは中止された。 |
1972年8月27日 |
パトリック・ベルショー |
イギリス |
(イギリス)
英国カドウェルでの500cc選手権「ビンセント・クラブ・ミーティング」にトリトンで出場、転倒して重傷を負い、二日後の8月29日に死亡した。享年27歳。 |
1972年5月27日 |
トマス・グッドフェロー |
イギリス |
(イギリス)
英国マロリー・パークでの選手権レース第7戦でノートン(750cc)に乗り出場。ガードレールに激突して転倒し、バイクもろとも観客の中に飛び込んだ。すぐさま応急措置がとられたが、内臓破裂により間もなく現場で死亡。享年25歳。
観客は素早く避難したため、負傷者は出なかった。 |
1970年8月29日 |
テリー・マクドナルド |
テスト ギリシャ |
(オーストラリア)本名テレンス・マクドナルド。
ギリシャ・コーフで当地のレースに出場すべく練習中に転倒して死亡。享年23歳。 |
1970年8月8日 |
高島了 |
鈴鹿10時間耐久レース・予選
|
鈴鹿サーキットでの鈴鹿10時間耐久レース(シニア・ノービス混合)予選走行中、デグナ・カーブでオーバースピードから転倒し滑走、ガードレールに激しく衝突。肋骨・頭蓋底骨骨折で救急車に運ばれたものの事故から11分後、搬送中に死亡。享年20歳。(彼は
レース歴2年のノービス・ライダーだった。) |
1960年代 |
1966年8月20日 |
ブライアン・マクアネリー |
サイドカー イギリス |
(イギリス)
英国、ビーバーリッジ・パークでのサイドカー・レースの練習中に木に衝突して死亡。享年33歳。同乗者は無事だった。
ブライアンの兄ケビン・マクアネリーも1958年にサイドカーレースで死亡している。 |
1963年 |
エルンスト・デグナー
Ernst Degner |
鈴鹿サーキット |
世界選手権最終戦の日本GP(鈴鹿)にスズキの250ccスクエア4気筒水冷マシンで参戦したが、1周目、第1コーナー出口で転倒してマシンが炎上。転倒により気を失っていたデグナーは、大火傷を負ってしまい、年末近くまで浜松で入院生活を送った。
デグナーは東ドイツ出身のライダーで、1961年には東独の2サイクル・MZを駆ってチャンピオン争いを展開していたが、この年の終盤スウェーデンGP後にに西側に亡命した。
1962年11月には、竣工なった鈴鹿サーキットでの第1回全日本選手権ロードレースの、50ccレースでトップを独走していたが、現在のデグナーーカーブで転倒した。名手デグナーの転倒により、現在の鈴鹿サーキットにもデグナーカーブとして名前を残している。
参考サイト:デグナー追想 |
1962年 |
トム・フィリス |
マン島TTレース |
ジュニアTTクラス1週目に転倒。石垣に激突し即死。 |
1962年 |
高橋国光 |
マン島TTレース |
ライトウェイト125tクラススタート直後にコースアウト転倒。頭部を強打し、10日間こん睡状態となる。復帰後は4輪に転向。
ニッサンワークス加入後、四輪でもトップドライバーとして活躍。国さんの愛称で多くのドライバーたちに慕われる。現役引退後も、チーム国光の監督として活躍を続けている。 |
1950年代 |
1958年 |
ケビン・マクアネリー
|
サイドカー イギリス |
(イギリス)
英国でのサイドカー・レースで接戦中事故死。マシン、享年ともに不明。パッセンジャーは弟のブライアンだったが無事だった。しかし、その弟も1966年に事故死する運命が待ちかまえていた。 |
1957年1月 |
ジャック・ゴッドフリー |
オーストラリアGP |
(オーストラリア)
豪州バンディアナでの「オーストラリアGP」にAJS(350cc)で出走中事故死。 |
1940年代 |
1948年7月1日 |
オモボーノ・テンニ |
スイスGP |
(イタリア)
スイスGP2輪部門で、モト・グッチ250で決勝走行中にスリップから転倒し死亡した。
イタリアは若く有望なテンニの死を悼み、サッカースタジアムにその名を残す事となる。現在、セリエAのトレビソの本拠地となっている「オモボーノ・テンニ」がそれである。
|
1930年代 |
1934年6月13日 |
シド・クラブトリー |
マン島TT |
(イギリス)本名アルフレッド・クラブトリー。
英国マン島での「マン島ツーリスト・トロフィー」に250cc部門でエクセルシオを駆り出場。大雨とそれに伴う濃霧という悪天候の中開催されたレースで転倒し、鉄製のゲートポストに激突して即死した。享年31歳。 |
1920年代 |
1929年11月11日 |
アルバート・レジュネ |
フランス |
(フランス)
フランス・マンテスタジョリーでの2輪レースで自作の「レジュネ」で出走中事故死。。享年30歳。
|
1929年8月20日 |
ルネ・コゼット |
速度記録会 フランス |
(フランス)
フランス・モンレリーでの速度記録挑戦会に自身の名を付けた2輪車「コゼット」で出場中事故死。享年34歳。 |
1926年3月7日 |
ジャコモ・バッソ |
イタリア ローマTT |
(イタリア)
イタリア・オステアでの「ローマTT」に出場中事故死。 |
1910年代 |
1914年6月7日 |
チャールズ・バルケ |
練習走行 アメリカ |
(アメリカ)
イリノイ州シカゴの競馬場を使用したダートトラックで練習中、前方の馬場整地中のローラー車が巻き上げる砂塵に視界を奪われ、後方から激しく追突して即死した。享年不明。
1912年のマッチ・レースでは、ジャック・デロージュが死亡する事故の当事者にもなっている。「大胆不敵」というニックネームが表すように、一発勝負をのぞむ傾向が強く、主催者側からは好ましく思われなかった。この日の事故も、「整地中の練習走行は自粛するように」とリリースがあった上で、バルケが独断で走行していた。
|
1913年7月30日 |
オーディン・ジョンソン |
アメリカ |
(アメリカ)
観客が巻き込まれた最も悲劇的な事故として記憶される。
7月30日、ケンタッキー州ラドロウで開催された「アメリカンリーグ・オートバイコンテスト」に出走中、他車との接触からバンクを駆け上がって観客席に突入した。ヘリコプターのローターの如く回転したマシンは観客をなぎ倒し、多数の観客が巻き込まれる惨事となった。そのうち9名はマシンの直撃を受け死亡した。
ライダーのジョンソンも即死。享年は不明だが、まだ10代の若さだった。
以下は、死亡した9名の氏名。
ハーマン・デービス(30歳・男) 翌31日死亡
ウィリアム・デービス(5歳・男・ハーマンの子) 即死
マリンダ・バシュトマン(43歳・女) 8月2日死亡
エゼル・バシュトマン(16歳・女・マリンダの子) 翌31日死亡
ルイザ・ミッシェル(35歳・女) 翌31日死亡
ジェームズ・カーター(不明・男) 翌31日死亡
ウィリアム・パッターソン(3歳・男) 翌31日死亡
ヘンリー・アンドリュース(15歳・男) 翌31日死亡
マイケル・カーニー(22歳・男) 8月2日死亡 |
1913年6月6日 |
フレデリック・リチャード・バートマン |
マン島TT |
(イギリス)
マン島でのツーリスト・トロフィーにラッジで出走中転倒し死亡。享年23歳。 |
1912年9月8日 |
エディー・ハシャ
ジョニー・アルブライト
観客6名
|
アメリカ |
。
ニュージャージー州ニューアークでの非選手権競走でバンクを飛び越え観客席に飛び込みんだ。ライダーのエディー・ハシャは跳ね返されてトラック上に転落し死亡した。
この事故でオートバイの直撃を受けた観客が6人おり、エドワード・フィッシャー(アメリカ)、トマス・ホーナー(アメリカ)、ジェームス・ローフィング(アメリカ)、ラッセル・ダレー(アメリカ)の4名が即死、ウィリアム・バーレット(アメリカ/24歳)が翌日死亡、チャールズ・ウィリアムズ(アメリカ/26歳)がさらに次の日に死亡する惨事となった。
ライダーのハシャは享年17歳という若さだった。
また、ハシャの直後につけていたジョニー・アルブライトも事故に巻き込まれた形で転倒、全身を強く打って病院に運ばれたが、その日のうちに死亡した。
エディー・ハシャ(アメリカ)本名ウイリアム・エドワード・ハシャ 享年17歳
ジョニー・アルブライト(アメリカ)享年21歳
(画像はハシャ。MOZAさん提供) |
1912年6月30日 |
リード・オール
W・F・ブレッド
|
アメリカ |
カリフォルニア州サンノゼでのオートバイクラブが主催するレースで4台を巻き込む多重事故が発生。上記の二人が死亡する惨事となった。このレースは8台が参戦しており、一気に半数が事故で消えた事
となる。
リード・オール(アメリカ)享年19歳
W・F・ブレッド(アメリカ) |
1912年4月20日 |
アーサー・モールハウス |
イギリス |
(イギリス)
英国ブルックランズでの競走でインドに乗り出走中事故死。 |
1912年3月12日 |
ジャック・デロージュ |
マッチレース アメリカ |
(カナダ)
ロサンゼルスでチャールズ・バルケとのマッチレースでウッドヘアに乗り競走中、2台が接触、外側を走っていたバルケがデロージュの上に降ってくる形となり、2台もつれあいながらバンクを滑り落ちた。
バルケは軽傷で済んだが、デロージュは全身打撲の他、大腿骨を酷く損傷しており、マサチューセッツ州の病院に運ばれ治療を受けたものの、翌1913年2月25日に容態が急変、死亡した。享年33歳。
(画像は、マッチレースの様子。この頃多く建設された木製のオーバルコースの模様:提供MOZAさん) |
1911年7月27日 |
ウィニー・サーリッジ |
マン島TT |
(イギリス)本名ウィニー・ジョン・サーリッジ。
マン島でのツーリストトロフィーにリッジで出走中、コースアウトして路肩の側溝に転落し死亡。享年19歳。
マン島のレースにおける初の死亡事故。 |
1911年5月28日 |
ハリー・ニクソン |
アメリカ |
(アメリカ)
イリノイ州シカゴでの競走で後輪の破裂により転倒、先に転倒して転がっていた他のオートバイに激突して死亡した。享年21歳 |
1900年代 |
1900年9月10日 |
アッティリオ・カッファラッティ |
|
(イタリア)
9月10日、プレシアで開催されたレースで死亡。
コースは未舗装の公道で、ブレシア〜クレモナ〜マントーヴァ〜ヴェローナ〜ブレシアと周回する競走であったと。オートバイはダラーク、路面上で転倒し木に激突、その後近くを渡る運河に転落して死亡した。享年22歳。
|
|
|
|
|
亡くなられた皆様の、ご冥福を改めてお祈りいたします |