アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
1980年代
1980 | 1981 | 1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1989 |
1980年
1980年 | マンフレッド・ヴィンケルホック Manfred Winkelhock |
F2 ニュルブルクリンク |
1980年のニュルブリクリンクでの欧州F2で走行中、ジャンピングスポット状の坂から舞い上がり、何度も縦回転する程の激しいクラッシュ発生。しかしヴィンケルホックは奇跡的にほとんど無傷で生還した。
しかし、この5年後、ヴィンケルホックはレース中に命を落とすこととなる。
2月14日 | リッキー・ノッツ Ricky Knotts | NASCAR |
本名ベニー・リチャード・ノッツ(Benny Richard Knotts)
1980年2月14日、デイトナインターナショナルスピードウェイで行われた「NASCARウィンストンカップシリーズ第二戦 (Twin 125 Qualifying Race)」にオールズモビルで参戦。
14周目に、カーナンバー39のマーキュリーを操るブラッキー・ワンジェリン(Blackie Wangerin)がノッツのマシンと接触。両者コントロールを失い猛スピードのままコース外側のウォールに右側から激突。あまりに激しい衝突によりマシ ンの右半分が大破し、ノッツは頭部に致命傷を受け即死した。享年28歳。
また事故を起こしたワンジェリンも負傷。
3月16日 | マーティン・レイモンド | ブランズ・ハッチ6時間 イギリス |
(イギリス)
世界スポーツカー選手権第2戦ブランズハッチ6時間にトニー・チャーネルと組みシェブロンB36・フォードで出走。103周目(決勝147周)にマーティン・レイモンドのマシンはトラブルによりコースサイドにストップ。現場ではイエローフラッグが掲示され、減速して現場を走行しようとしたレラ・ロンバルディ&マルコ・ロッカ組のオゼッラ(事故時はロッカ)とそれを抜こうとしたカルロ・ファチェッティ&マルティノ・フィノット組(事故時ファチェッティ)のランチアが併走していたところに、レーシング速度のまま後方から接近したたポール・エドワーズ&ラリー・ロビンソン組のポルシェ(事故時エドワーズ)がオゼッラに追突する事故が発生した。。
接触によりコントロールを失ったポルシェがランオフエリアに停止していたシェブロンに激突した。この事故によりレイモンドは死亡した。享年36歳。
3月30日 | クレイ・レガッツォーニ Clay Regazzoni | F1 アメリカ西GP |
(スイス)
本名:ジャンクラウディオ・ジョゼッペ・レガッツォーニ
エンサインN180・フォードで参戦、予選23位からのスタートとなった西アメリカGPで、ブレーキトラブルからウォールに大クラッシュとなる。幸いにも命は取り留めたが、以後車椅子での生活を余儀なくされる。
その後は、手だけで運転できる車を自ら運転し、パリダカにもカミオンで参加するなど活躍していたが、2006年12月15日にイタリアの高速道路上でトラックと事故をおこし死亡した(享年67歳)葬儀には、歴代のチャンピオンが多く参列、その死をいたんだ。
F1では優勝5回、PP5回、FL15回の記録を残している。
4月13日 | マルクス・ヘッティンガー | F2 ホッケンハイム |
(オーストリア)
ホッケンハイムでのF2レース「ジム・クラーク・メモリアルトロフィー」にマウラー
MM80・BMWで出走。直線疾走中に前を走っていたデレック・ワーウィックのトールマンから右リヤタイヤが脱落、ワーウィックはクラッシュした。これだけなら通常のアクシデントの光景なのだが、その外れたタイヤがコース内に跳ね返り、現場を最高速で通過しようとしたヘッティンガーの頭部に直撃、ガードレールに激突し、即死した。享年23歳。
7月6日 | トム・スチュワート |
フォーミュラ・アトランティック |
(アメリカ)
ライム・ロックでのフォーミュラ・アトランティック。レース決勝前のウォームアップ走行中、不可解なコースアウトを喫しタイアバリアに衝突して死亡した。享年20歳。なお、この事故ではマシンの破片を浴びた14歳の少女も亡くなっている。マシンはマーチ79B・フォードだった。
7月20日 | ハンス・ゲオルグ・ビュルガー | F2 ザンドフィールド |
(ドイツ)
欧州F2選手権の第8戦、ザンドフールトでの「グローテ・プリーズ・ファン・ザンドフールト」にタイガーF280・BMWで参戦。決勝前日の練習走行中にガードレールに激突して頭部を負傷、翌21日に死亡した。享年28歳。
8月1日 | パトリック・デパイエ Patrick Depailler | テスト・F1(ホッケンハイム) |
(フランス)
本名パトリック・アンドレ・エウジェン・ヨセフ・デパイエ。
ドイツ・ホッケンハイムにてアルファロメオ179をテスト中にコントロールを失い、ガードレールにクラッシュし死亡。享年36歳。原因はウィングカーの空力部品が壊れたためといわれる。
なお、DEPAILLERは日本語表記では、デバイエ、デバイユ、ドュパイエなどと表記される場合も多い。
関連ページ:1980年パトリック・デパイエ
1981年
4月28日 | コル・トレンゴーブ | F5000 |
(オーストラリア)
アデレードでのF5000レース「アデレード・ミーティング」にローラT330・シヴォレーで参戦。
練習走行中に事故死。
5月16日 | メカニック | F1ベルギーGP |
1981年ベルギーGPの予選中、オゼッラチームのメカニックがピットロードで、C・ロイテマンの運転するウィリアムズFW07C・フォードの後輪に跳ね飛ばされて死亡するという事故が発生。
C・ロイテマンはこの事故の心の動揺を押さえ込み、、PPから決勝レースも優勝。FLも記録している。
5月17日 | メカニック | F1ベルギーGP |
ベルギーGP決勝レース。スターティンググリッドに並んでシグナルが赤から青に変わる直前、4番手グリッドのリカルド・パトレーゼ(アロウズA3・フォード)がエンジンストール。両手を大きくふり、トラブルを知らせる。通常ならこれでスタートディレイとなる場面。アロウズのメカニックはコースに入りパトレーゼ車の背後にしゃがみ込みエンジンをかけようとした。しかしシグナルはそのまま青に変わる。各マシンはパトレーゼのアロウズをかわしながらスタートしていくが、予選13番手のチームメイト、ジークフリート・ストール がかわしきれずに衝突。作業を行っていたメカニックは両足骨折の重傷を負った。
この事故は当然上位走行車は見えていなかったため、1周目はトップスピードで現場を通過したが、異変に気づいたディディエ・ピローニ(フェラーリ)が次の周に入る最終コーナーで激しく蛇行運転(ローリング)し、全車を停止させた。
5月24日 | ハーバート・ミューラー | ニュルブルクリンク1000km |
(スイス)
WSC第7戦「ニュルブルクリンク1000km」にジークフリード・ブルンと組みポルシェ908/3-81・ターボで参戦。14周目、カール・ヨゼフ・ローマーのポルシェ930が早々の事故でコース脇に停止していたボビー・レイホールのポルシェ935K3にスピンして衝突。一周遅れながら、直後につけていたミューラーは回避しようとしたが適わず、ガードレールに激突して炎を上げながらコース上に跳ね返された。コース一帯は完全に残骸と炎で塞がれ、後続車はその場で次々と停止。炎は消火器では消す事ができず、数十分にわたって燃え続ける。ほぼ自然鎮火の状態で救出された時には、すでにミューラーは第4度(炭化)火傷のため死亡していた。享年41歳。
1970年代にインターセリエのタイトルを三連覇する記録をもつ。 ミューラーは1971年のペドロ・ロドリゲスの事故の際、彼の救出にあたったこともあった。
5月24日 | ダニー・オンガイス Danny Ongais | インディ500 |
インディ500決勝。
ダニー・オンガイスは予選21番手からスタートし事故までに4周分のラップリーダーも記録していたが、65周目?のターン3でコントロールを失い外壁に激突。マシンは大破し炎上、コックピットも破壊された。レスキューによる消火活動後オンガイスは救出されたが何箇所もの手足の骨折に加えて内臓にも重傷を負うなど瀕死の状態であった。
しかし長期にわたる治療を経て、翌年のインディ500に再び参戦できるまでの回復を果たした。
また、1996年インディ500では、予選PPを獲得しながらプラクティス中に事故で亡くなったスコット・ブライトンのマシンを引き継いで決勝レースに出走。最後尾スタートから7位に入っている。
6月13日 | ジャン・ルイ・ラフォッス | ル・マン24 |
7月 | ドミニク・ローラン | F2 |
(フランス)
アルデンヌでの非選手権F2レース「コルス・ド・コート・デュ・バライヴ」にラルト・BMWで出走中に事故死。享年31歳。
ラリー出身のドライバーでもあった。
7月9日 | パトリック・ジャクエマール | IMSA |
(フランス)
IMSA第10戦シアーズポイントでのレースに参戦すべくミド・オハイオでルノー・ターボのテスト走行中事故死。享年35歳。
7月11日 | ファン・フェルナンデス | (2輪)モンジュイック24時間 スペイン |
(スペイン)
バルセロナ・モンジュイックでの「モンジュイック24時間」にラヴェルダで出走したファン・フェルナンデスだったが、先にクラッシュしていたバイクに衝突して即死。この事故で先に転倒していたエリック・コーリーと、手当てにあたっていた医師団数名が巻き込まれて負傷した。
ファン・フェルナンデス享年20歳。
8月16日 | ピーター・メニック | スポーツカー |
(カナダ)
WSC第13戦の「モスポート・パーク6時間」にステファン・ラックス、ヘルマン・ランスバーグと組みポルシェ911で出走。140周目(決勝229周)にガードレールにTボーンクラッシュして即死。享年41歳。
メニックはジル・ビルヌーブ同様カナダの英雄であり、レースにおいて若く有望な選手に与える賞として、後年「ピーター・メニック賞」と彼の名を冠した賞が新設された。
10月3日 | アントニオ・プラド | F2 |
(ブラジル)
リオ・グランデでのF2レース「グラン・プレミオ・デ・ジュアポレ」にポラール・フォルクスワーゲンで出走、その練習走行中に事故死。享年33歳
1982年
1982年 | バリー・シーン Barry Sheene | (2輪)ロードレース世界選手権・イギリスGP |
イギリスGPでの練習走行中、コース上に転倒していた別のバイクに衝突。1975年の事故に続いてまたしても瀕死の重傷を負った。
この年は1975/76年に続いてのチャンピオン獲得が期待されていたが、この事故によりチャンピオン争いから脱落してしまう。1984年に引退後はTVコメンテーターを務めたが2003年3月10日食道癌により死去。ゼッケン「7」がシーンの代名詞でもあった。
3月6日 | 磯 正二 (いそ・しょうじ) | F3テスト(鈴鹿) |
F3のテスト中に起きた事故。
磯正二は鈴鹿での初走行となる練習走行で、吉川とみ子選手に教えてもらう形で2台で走行していたが、第1コーナーで、前の車が撒き散らしたオイルに乗ってしまい2台ともがコースアウトした。先輩の吉川を気遣い、マシンに駆け寄ろうとした磯正二に、さらにコースアウトしてきたマシンが激突、磯選手は跳ねられてガードレールに激突、即死した。享年20歳。
磯タイヤ商会のスポンサードで、1980年のRRC筑波チャンピオンズレースでデビュー。通算10回のレース挑戦のうち、9レースを筑波で走るなど、拠点を筑波に置いていた。優勝や表彰台の経験は無いが、6位を4回記録している。1982年にFL550からF3へとステップアップし、鈴鹿でのレースを目前としていた矢先の事故だった。
5月8日 | ジル・ビルヌーブ Gilles Villeneuve | F1・ベルギーGP |
第5戦ベルギーGP(ゾルダー)予選中、最後のアタックに飛び出したビルヌーブだったが、ヨッヘン・マスが乗るマーチ821・フォードに追突する形で接触。
ビルヌーブのマシンは激しく宙を舞い、地面に叩きつけられた。マシンから投げ出されたビルヌーブは、病院に運ばれたが午後9時過ぎに死亡した。享年32歳。
詳細ページ:1982年ジル・ビルヌーブ
5月15日 | ゴードン・スマイリー | INDY500 |
(アメリカ)
INDY500マイルレースの予選中、第3ターン出口ででコントロールを失い、ウォールにノーズから激突。モノコックは粉々に粉砕されていて、スマイリーはおよそ数100Gの衝撃を受けたとみられ、身体の原型すらとどめていなかった。 享年33歳
詳細ページ:1982年 INDY500
6月13日 | リカルド・パレッティ Riccardo Paletti | F1・カナダGP |
(イタリア)
スタート時にエンジンをストールしたPPのディディエ・ピローニのマシンにバレッティが追突、マシンは炎上する事故となった。
バレッティは、激突の際、その衝撃でステアリングが凶器となり、胸部圧迫を受けたことが致命傷となったと思われる。享年23歳。
詳細ページ:1982年 リカルド・パレッティ
7月31日 | ジム・ヒックマン | インディカー |
(アメリカ)
ミルウォーキーでのインディカー・レース「ミルウォーキー200」にマーチ82C・フォードで出走。その予選中の事故で重傷を負い、翌8月1日に死亡。享年39歳。
インディ500はこの1982年に初出場しており、11周遅れの7位完走。この年のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いたばかりだった。
8月7日 | ディディエ・ピローニ
Didier Pironi |
F1 ドイツGP |
(フランス)
雨の中の土曜日のフリー走行で、水しぶきで視界を失ったピローニがルノーのアラン・プロストと接触、マシンが宙を舞う大事故となる。ピローニは命は取り留めたものの両足粉砕骨折でF1引退を余儀なくされる。
その後、不屈の精神でリハビリを続けたピローニは、海のF1ともいわれるパワーボートに出場するほど回復を遂げる。しかし、1987年8月23日英国で開催されたパワーボートレース「ニードルズ・トロフィー」にミディアル・コリブリ・ランボルギーニで参戦中、事故のため同乗者のジャン・クロード・ジェナールと共に世を去ることとなる。ピローニ享年35歳、ジェナール享年47歳。(画像はパワーボートに参戦したピローニ)
9月8日 | ノリー・ガルブレイス | ヒルクライム |
(イギリス)
9月8日、スコットランドのドーンで開催されたヒルクライム・レースにマーチ782・ハートで出走。
下りコースを疾走中、昼休みでコースを家路に向け走っていた農夫のトラクターと正面衝突して死亡した。
享年42歳。
9月12日 | 小野田耕児 (おのだ・こうじ) | FJ1600 |
筑波サーキットで開催された祭典「筑波グレート30レース」のFJ1600部門にキャビン34Jで参戦。
予選中最終コーナー内側の池に横転しながら飛び込む事故を起こし、救出が遅れたため循環器に甚大な障害を起こす。病院に搬送されたが、17日後の9月29日に死亡した。享年30歳。
1978年9月に筑波での「東京プロダクションカー・レース」でスターレットに乗りデビューを果たす。以後通算20戦し、優勝1回、2位3回、3位6回の表彰台成績を残している。1981年に2度鈴鹿で走った他は、全ての活動を筑波に置いた。
1982年にキャビンのスポンサードを得て、その直後の開幕戦「82チェッカー筑波グレート30レース」で最初で最後の優勝を遂げ、秋の同名レースに勇躍臨んだ矢先の事故だった。デビュー戦以外は、すべてFJシリーズで活躍したドライバーだった。
1983年
1983年 | 片山敬済 (かたやま たかずみ) | (2輪)サンマリノGP |
最終戦サンマリノGP500㏄クラス予選においてタイムアタック中、200㎞/h以上のスピードで転倒。第三腰椎圧迫骨折・右足2箇所、左脚1箇所骨折の重傷を負った。
1977年には350ccクラスで日本人初の世界チャンピオンを獲得。
事故後は復帰したが、1985年フランスGP予選終了後に突如現役を引退した。
(日本生まれの日本育ちではあるが、国籍は韓国であった)
2月17日 | ブルース・ジャコビー | ストックカー |
(アメリカ)
インディアナ州セイラムでのストックカーレース「デイトナ・ツイン125」にシボレーで参戦。ターン2の出口でコントロールを失い内側の草地に出た後バウンドして数度横転、救出されたものの頭部に甚大な傷を負っており、病院で4年間の昏睡状態ののち、1987年2月4日に死亡した。享年51歳。
3月2日 | オリビエ・シャンドン | テスト |
(フランス)
本名オリビエ・シャンドン・デブレイーユ。
3月2日、フロリダ州ウエストパームビーチで新型ラルト(フォーミュラ・アトランティック)のテスト走行中、ガードレールを突き破り運河に転落して死亡。 享年27歳。
3月29日 | 石川岩男 | (2輪)練習走行・ブガッティサーキット |
この年からロードレース世界選手権500クラスにプライベートで参戦予定だった石川岩男選手が、フランスのブガッティサーキットで練習中にレッジアーニ選手に高速で追突され、内臓破裂で死亡した。
1978年には国内350クラスで全戦優勝でチャンピオンになる等、才能のあるライダーだったが、この頃は日本人がワークス体制で世界に出る環境に無く、プライベートで参戦するしかなかった。
4月16日 | ラインホルト・ハーゲンマイヤー | (2輪)サイドカー ドイツ |
(ドイツ)
シュパイエルでの「DMルーフ・シュパイエル」(サイドカーレース)に兄ハイラーのパッセンジャーとして乗車。コースアウトしてコーナーポストに激突、死亡した。享年不明。兄は生命には別状なかった。
4月24日 | ロルフ・シュトメレン Rolf Stommelen | IMSA |
(ドイツ)
本名ロルフ・ヨハン・シュトメレン。
IMSA第5戦のリバーサイド6時間レースにデレック・ベルと組みポルシェ935で出走。94周目(決勝196周)の第2コーナーでリアウイングもろとも車体後部のカウルが吹き飛び、コントロールを失ったポルシェはバリアに激突、衝撃で空を飛び、
実に100mの距離を横転して逆さまになり停止した。
ポルシェは右ハンドルだったが、車体右側面は深く押しつぶされていた。間もなく出火し、シュトメレンは救急隊により救出はされたものの、搬送先の病院で死亡した。享年39歳。
1967年にポール・ホーキンスと組みタルガ・フローリオを、1968年にはビック・エルフォード、ヨッヘン・ニアースパッシュと組みデイトナ24時間を制している。いずれもポルシェでの勝利だった。
F1は1969~1978年に54回出走(1969年はドイツGPでF2に乗車)。優勝は無い。1970年のオーストリアで3位表彰台の経験がある。1975年のスペインGPでは一度トップに立つ走りを見せたが、その直後リアウイングの破損で大事故を
起こし重傷を負う。シーズン終盤で復帰したものの、エンバシー・ヒルのテストには足の不調のため辞退を申し出ている。これにより、暮れの飛行機事故(グラハム・ヒル、トニー・ブライズや主要スタッフが死亡、実質的チーム壊滅)に遭遇する事を回避した結果となった。
しかし、因縁はついてまわり、1975年の大事故と同じ原因で、今度は自らの生命を落とす結果となってしまった事は皮肉な悲劇といえよう。F1では数少ない、眼鏡をかけたドライバーでもあった。
5月1日 | 佐藤文康 (さとう・ふみやす) | 富士GCテスト(富士スピードウェイ) |
富士GC第2戦「富士グラン250キロ」を二日後に控えて、富士スピードウェイにてMCSⅡマーチ792・マツダの練習走行中、最終コーナー手前の250Rでオーバースピード気味にコースを飛び出し草地で一回跳ねた後土手に正面から激突、フロント部を粉砕飛散させながら裏返しになり転覆、炎上した。
後続の数台が現場で停止、マーシャルとともに消火にあたり彼を救出したが、全身を強く打っており現場で死亡が確認された。享年33歳。
レース歴は長く、18歳の1968年7月に「68NRCチャンピオンゴールドトロフィーレース」にホンダN360を駆りデビュー(5位)。1971年に始まった富士GCではツーリングカークラスで活躍した。1976年3月の富士1000kmで優勝を遂げてからは「耐久王」の異名を誇るほどの活躍を示し、富士GCと耐久の二足の草鞋で活躍。デビューからの通算成績は118戦10勝。表彰台を含めると26回を数える。またリタイアが少なく、この出走回数で10度を数えるのみ。完走率の高いドライバーでもあった。事故もこの事故死を含めても生涯3度のみで、いかに丁寧なドライビン
グであったかがうかがえる。
優勝レースは次の通り。
1976年…富士1000km、1977年…富士500km、1979年…鈴鹿500マイル、1980年…富士500マイル、1981年…富士1000km、富士500マイル、1982年…富士500(春秋)、富士1000km、鈴鹿1000km
6月5日 | マイク・アレン | Can-Am |
(アメリカ)
6月5日、Can-Amレース開幕戦のモスポート・パークにローラT333CSを駆り出走。35周目(決勝60周)にガードレールに激突して炎上する事故で重傷を負い、翌6日に死亡。享年41歳。
6月10日 | 木山賢悟 | (2輪)GP500 鈴鹿 |
6月25日 | フランコ・ウンチーニ Franco Uncini | (2輪)オランダGP |
(イタリア)
アッセンで開催されたオランダGPにおいて、前年度(1982年)チャンピオンのフランコ・ウンチーニがコース中央で転倒。マシンから投げ出されたウンチー二はとっさにコース外に逃れようとしたが、同じ方向に回避したワイン・ガードナーのマシン前輪がウンチーニの頭部(ヘルメット)を直撃してしう。ウンチーニはヘルメットが脱げた状態で地面に叩き付けられ、意識不明で病院に搬送された。
幸いにもウンチーニは回復することができ、レースに復帰、1985年に引退した。引退後もレースの安全面について積極的に提言を続ける活動を続けている。
あお、この事故でウンチーニと接触したガードナーにとってこのレースはデビュー戦であった。
10月23日 | 高橋 徹 (たかはし・とおる) |
富士GC(富士スピードウェイ) |
観客1名 |
83年の全日本F2のデビュー戦でいきなり2位表彰台を獲得し、注目を集めた高橋徹選手。
しかし、富士グランチャンピオンシリーズ最終戦富士マスターズの2周目最終コーナー立ち上がりでスピン。マシンは宙に舞い、ウォールに激突、死亡した。享年23歳。
また観客の女性1名もタイヤの直撃を受け死亡した。
1984年
3月3日 | ピーター・ハラー | フォーミュラ・アトランティック(南アフリカ) |
(ドイツ)
南アフリカ・ウェルコムでのフォーミュラ・アトランティック・レース「ゴールドフィールズ・チャンピオンシップレース」にハラー81・マツダで参戦、1周目の事故で死亡。享年43歳。
6月 | ジャッキー・ロワゾー(コースマーシャル) | ル・マン24時間 |
MAZDAスピードの従野孝治が、イエローフラッグが出ていてスロー走行していたところ、ポルシェカーブでフルスピードで突っ込んできたニムロッドNRA-C2B・アストンマーティン(32号車)が接触したことが引き金となったと思われる。
32号車はこの後、左後輪のスローパンクチャーからミュルサンヌでガードレールに激突、マシンは2つに割れてコース上で炎上し、この事故により巻き込まれたマーシャルのジャッキー・ロワゾー(42歳)が死亡。もう一人、アンドレ・レフェブル(ルファブリュ?)が重傷を負った。
(画像は事故を起こしたアストンマーティン32号車)
11月11日 | テリー・シューノヴァー | NASCAR |
(アメリカ)
NASCARグランドナショナルシリーズの「アトランタジャーナル500」にシボレー・モンテカルロで参戦。シューノヴァーのマシンは第3ターンの外壁に正面衝突し、そのままインフィールドに跳ね返され土手に衝突して停止した。テリー・シューノヴァーは外壁に衝突した際に致命傷を負っており、救助の甲斐なく死亡した。享年32歳。
この年デビューの新人で、このレースが2戦目だった。
1985年
1985年 | アッティリオ・ベッテガ | WRC(ツール・ド・コルス) |
世界ラリー選手権ツール・ド・コルス(コルシカ)での死亡事故
1985年 | アリ・バタネン Ari Vatanen | WRC ラリー・アルゼンチン |
(フィンランド)
WRC第8戦ラリー・アルゼンチン。プジョー 205 T16で参戦していたアリ・バタネンは、SS1の直線をトップギアで走行していたところ突然バランスを崩し横転、ロールゲージで守られた為一命は取り留めたが、復帰までに18ヶ月もかかる重傷を負った。また入院した病院の医師から、輸血によってHIVに感染した可能性があると告げられ、極度の不安にも襲われた。
復帰後は1987年にパリ・ダカールラリーに出場し、初出場で初優勝という快挙を成し遂げ、通算4勝を挙げている。1999年に欧州議会議員となった後も、WRCとダカールラリーに出場を続けている。
3月31日 | 標 徹 (しめぎ・とおる) | 富士GC・予選 |
富士GCシリーズ1985年開幕戦。富士300キロスピード。
予選中に事故は起きた。体調が芳しくない標選手はホームストレートを疾走中ふらふらと蛇行気味に。時速200キロオーバーのままコースを飛び出し、現在のコナミブリッジ付近を過ぎたあたりで横向きになり車体が舞い上がった。空中で天地が逆となった車は金網に衝突、カウルやタイヤが弾け飛び、車はフェンスに沿うように横転。モノコックとエンジンだけが残る無残な形となり停止した。標選手は首の骨を折り即死。
4月13日 | ブッチ・リンドリー Butch Lindley | ストックカー |
フロリダ州ブレントンのデソト・スーパースピードウェイで行われた「ストックカーレース・オールプロシリーズ (キーン・ブラザーズ・トラッキング125)」に、シヴォレー・カマロで参戦。
三周目にマシントラブル(ストラット・アームの破損)でスピンし、運転席側からウォールに激突した。
リンドリーは頭部に甚大な損傷を負い、病院へ搬送された後五年間昏倒し、2000年6月に死亡した。
死亡時の享年42歳。
画像は動画ファイルから編集した、事故直後のリンドリーのマシン(資料・画像の提供はエスクさん)
8月12日 | マンフレッド・ヴィンケルホック Manfred Winkelhock | WEC・カナダ(モスポート) |
(ドイツ)
F1にRAM・ハートで参戦する傍ら、世界耐久選手権(WEC)にも参戦。WSC第6戦のモスポート1000km(正式名バドワイザーGT100km)にマーク・シュラーと組みクレマー・ポルシェ962Cで参戦中、83周目(決勝253周)のにコーナーを直線的にコースアウト、車体前部からコンクリートウォールにTボーンクラッシュした。ポルシェの前部は完全に潰れ、頭部はコンクリートに直撃。両足と頭部の損傷が激しく、25分後に救出はされたものの翌12日に死亡した。享年33歳。
右の画像は事故現場の模様。ランオフエリアがほとんどない場所にフェンスが設けられているのがわかる。(画像提供はまっくさん)
WSC開幕戦のムゲロ1000kmで2位、第2戦モンツァ1000kmで優勝を果たすなど好調であっただけに、その死が惜しまれた。F1は1980~1985年に47回出走(1981年は参戦せず)、1982年ブラジルGPの5位が最高位。また同年のデトロイトでは予選5位を獲得している。
9月1日 | ステファン・ベロフ Stefan Bellof | WEC・スパ1000km |
9月14日 | マーテイン・ホール | (2輪)イギリス |
(イギリス)
英国スカボローでの「スカボロー・インターナショナル・ゴールドカップ」に出走中、ヘアピンで転倒しガードレールに激突して即死。
10月6日 | ステファン・ラングトン | ヒストリック・カー・ レース |
(イギリス)
10月6日、英国ダートフォードでのヒストリック・カーレース「VSCCレース」にコンノートB・アルタで参戦中事故死。享年46歳。
10月24日 | リッチー・エバンス | NASCAR |
(アメリカ)
マーティンズヴィルでのNASCARフェザーライト・モディファイドレース「ミズキ500」にシボレー・キャバリエで参戦中事故死。享年44歳。
このカテゴリーでは9度ドライバーチャンピオンに輝いている。
1986年
1986年 | 観客 | WRC・ポルトガルラリー |
ヨアキム・サントスの駆るフォードRS200がコースサイドの観客に突っ込み、多数の観客が死傷する事故が発生した。(死亡者は3人、又は4人と報道されている。)グループBの危険性を改めて認識させられた。
1986年 | 平 忠彦 (たいら ただひこ) | (2輪)スペインGP |
スペインGP250ccクラス。
押しがけスタートに手間取り、後続車に追突されて足を骨折する重傷を負った。
復帰後の最終戦サンマリノGPではGP初優勝を遂げている。
なお、この事故により押しがけスタートの危険性が問題視され翌1987年からクラッチスタートに変更された。
2月21日 | ベルトラン・ファビ | F3 テスト |
(カナダ)
英国グッドウッドでF3マシン(ラルトRT30フォルクスワーゲン)のテスト走行中、雪の中滑りやすい路面でコースアウトしバリアに激突。マシン上部から激突したため頭部に重い傷を負い、翌22日に死亡した。享年24歳。
母国カナダはF1を目前にしたこの若者の死を悼み、彼の名を冠したサーキット「ベルトラン・ファビ・サーキット」を新設した。
4月7日 | 萩原 光 |
テスト(SUGO) |
世界耐久選手権(WEC)などのレースにて活躍。
1986年のニッサンのル・マン挑戦のドライバーに決まっていた。しかし、その直前スポーツランドSUGOでレイトンハウスのベンツ190Eをテスト走行中、2コーナーでコースアウトしクラッシュ、死亡した。享年29歳。
5月2日 | ヘンリ・トイボネン Henri Toivonen |
WRC・ツール・ド・コルス |
セルジオ・クレスト |
世界ラリー選手権第5戦ツール・ド・コルス(コルシカ)で首位走行中のランチア・デルタS4のヘンリ・トイボネン/セルジオ・クレスト組が事故死。
この事故を受け、以前からスピードが出すぎて危険という声が上がっていたグループBは廃止となる。
6月1日 | ヨー・ガルトナー (ジョー・ガードナー) Jo Gartne |
ル・マン24時間 |
をなぎ倒しながら炎上した。彼は車内で首の骨を折って死亡した。享年32歳。なお、この事故によりレーストラックはセーフティカーが入り約3時間、復旧作業のためスロー走行となる。
開幕戦のモンツァ1000kmで8位、前戦シルバーストーン1000kmで3位入賞と昇り調子で、ようやく活躍の舞台が巡ってきた矢先の事故だった。
F1は1984年に8戦出走。予選は20番手以降の下位に甘んじたが、イタリアGPでは5位入賞を果たした。
6月7日 | ディック・パーソンズ |
F3 テスト |
(イギリス)
シルバーストーンでF3マシン(レイナード853・フォルクスワーゲン)の練習走行中、ウッドコート・シケインを通過出来ずにショートカットしながらコースを飛び出し、キャッチフェンスでヘルメットをもぎ取られた末、フェンスにTボーンクラッシュした。彼はノーヘルメットの状態でステアリングに顔面を強打、即死した。享年33歳。
6月14日 | リック・バルドウィン |
NASCAR |
(アメリカ)
ミシガンインターナショナルスピードウェイで行われたNASCARウィストンカップシリーズレース「ミラー400」の予選中、クラッシュ。病院に運ばれた後11年間昏倒し、1997年に死亡した。享年42歳。
(画像提供はクロスノフさん)
10月5日 | マイク・バーグマン |
スポーツカー |
(オーストラリア)
本名マイケル・バーグマン
10月5日、FIAグループAの豪州選手権「バサーストジェイムズ・ハーディ1000km」にホールデン・コモドール・VK・SSで参戦中事故死。享年39歳。
10月26日 | 大宮利明 (おおみや としあき) |
ツーリングカー・菅生 |
1987年
5月24日 | 観客 | インディ500 |
7月11日 | ディエター・ワルティ | F3 ホッケンハイム |
(スイス)
ホッケンハイムでのF3レース「FRCゴールドポーカル」でプラクティス走行中に事故死。享年42歳。
7月16日 | 平 忠彦 (たいら ただひこ) | (2輪)GP500 フランスGP |
時速260キロものスピードでクラッシュとなり、ストローバリアに叩きつけられた。平は第5頸椎圧迫骨折の重症を負うが、幸いにもわずかな差で手足の麻痺からは逃れた。
わずか1週間後の7月23日の鈴鹿8時間耐久レース公式練習に姿を見せ、8周のフリー走行を行う。しかし、風圧で首に負担がかかるとの事で出走を諦め、監督としてピットで指揮を取った。このレース見事にヤマハの8耐初優勝を記録している。。
その後の平は鈴鹿8耐を活動の中心として、1990年にはエディー・ローソンとくんで悲願の自身初優勝を記録する。
7月19日 | コーキー・クックマン(コックマン) Corky Cookman | NASCAR |
(アメリカ)
本名、プレンス・クックマン(コックマン)(画像中央)
トンプソン・インターナショナルスピードウェイでのNASCARモデファイドレース「ウィンストン75」に参戦。第3ターン手前で突然コントロールを失い、コンクリートウォールに右側面から激しく激突した。クックマンは致命傷を負っており、救急隊により救出されたものの死亡した。享年43歳。
(資料・画像提供はクロスノフさん)
9月20日 | ジョン・ファウルストン | テスト シルバーストーン |
(イギリス)
シルバーストーンでインディカー(マクラーレンM15・オッフィー)の試走中、クラブ・コーナーでコースアウトしフェンスに激突、車体が割れ、ファウルストンは出血多量で死亡した。
享年40歳。
11月8日 | ジム・フィッツジェラルド | Trans-Am |
(アメリカ)
本名ジエームス・ジョイス・フィッツジェラルド
11月8日、セントピーターズバーグでのTrans-Amレースに日産300ZXターボで参戦中、他車との接触で一度大きく横転し停止。それほど衝撃はないように思われたが、高齢が影響したか、彼は車内で死亡していた。
享年66歳。
1988年
1988年 | イルトン・ベロソ・カバルカンディ・フィルホ | (2輪)モトクロス ブラジル |
(ブラジル)
ブラジルでのモトクロス・レース「カンピオナート・ブラジリネイロ・デ・モトクロス」に出走、ジャンプ中にバイクが下を向き、頭部から地面に転落して即死した。
2月14日 | リチャード・ぺティ Richard Petty | デイトナ |
(アメリカ)
1988年デイトナで最終ターン立ち上がりで他車と接触し、フェンスに沿って横転しながら大破した。後続車両はペティを避けようとパニックになる。そのうちの一台がペティにもろに激突したもののペティ本人は無事たった。
1958年にデビュー、デイトナ500を3回制した偉大なるアメリカン・レースの雄。
その後、1992年におよそ34年間のNASCAR人生に終止符を打った。しかし、まだまだペティは人気者。2007年で70歳になるベティはトレードマークのサングラスとカウボーイハットを着け、今も元気な姿を見せてくれている。
2月14日 | カル・ニディ | ミジェット・カー |
(アメリカ)
本名カルバン・L・ニディ
カリフォルニア州ウィロウ・スプリングスで開催されたクラシックカーのミジェット・カーレース「アンティーク・レース」に出走。前の数台が接触事故を起こしそれを回避しようとしたが、弾けながら横転してきた事故車にコクピット部を直撃されて死亡。享年73歳。
17歳でレースを始めてからの歴史もさる事ながら、悲しい事に最年長物故ドライバーとなってしまった。遠い昔ではあるが、インディ500にも3度挑戦している記録がある。
1953年…30位(30周マグネトー)
1954年…10位
1955年…16位(170周第4ターンでクラッシュ)
3月18日 | ボブ・コープマン | セブリング12時間 |
(アメリカ)
本名ロバート・チャールズ・コープマン
IMSA第3戦のセブリング12時間にジョー・フィリップスと組みポルシェ911カレラRSRで参戦。予選走行中にタイヤトラブルからクラッシュし死亡。享年48歳。
4月26日 | ダン・クロフト | トランザム ロングビーチ |
(アメリカ)
本名ダニエル・ダウ・クロフト
ロングビーチでのTrans-Amレースにシボレー・カマロで出走。スピンして空を飛び、コンクリートフェンスに激突し即死した。享年47歳
6月24日 | ケスヤー・クサバ |
F3 |
(ハンガリー)
ノリスリングでのF3レース「ノリスリングレンネン」にダラーラ388・フォルクスワーゲンで出走。予選走行中、スロットルの故障からガードレールに激突、それを飛び越えて森に突っ込み大破した。チームメイトのベルント・シュナイダーが現場に駈けつけたが、頭部に致命傷を負っており、その場で死亡した。享年26歳。
カートから着実にステップアップを果たし、1987年のF1ハンガリーGPの折にはザクスピードに乗り数周走る機会(画像)を得ていた。ハンガリー人初のF1ドライバーは2003年のゾルト・バウムガードナーであるが、もしこの事故が無かったら、クサバがその位置にあったのかもしれない。
8月21日 | ジョニー・ハーバート Johnny Herbert | 国際F3000 ブランズハッチ |
(イギリス)
国際F3000選手権第7戦ブランズハッチにおいて、他車に大クラッシュ。ハーバートのマシンはコクピットを除いてバラバラになってしまった。幸いにもハーバートは一命を取り留めたものの、両足複雑骨折という重傷を負った。
事故当時、翌年からのF1デビューが決まっていたハーバートは、予定通りベネトンから参戦を実現し、デビュー戦で4位とおいう好成績を残す。しかし、足は完全に復調していたわけではなく、シーズン半ばでチームを離脱、その後ロータスから本格復帰を果たした。F1では通算3勝を記録。明るく、誰からもすかれる性格で、多くのファンに強い印象を残した。
関連サイト:Johnny Herbert WebSite
1989年
10月14日 | スコット・リーブラー | フォーミュラ・アトランティック |
(アメリカ)
ロード・アトランタでのフォーミュラ・アトランティックレースにマルティニMK53・フォルクスワーゲンで出走。接触事故から大横転を演じ、救助されたものの内臓の損傷が酷く、翌15日、肺に溜まった血による肺水腫を併発して死亡した。享年29歳。
|