1949年 以前
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年月日 |
氏名 |
カテゴリー・場所 |
状況 |
1940年代 |
1949年11月6日 |
レックス・メイズ |
インディカー・レース |
(アメリカ)
11月6日、デルマーでのダートコースでのインディカー・レースにカーティス・オッフィーで参戦中事故死。享年34歳。
インディ500にも12回出場し、1940年と48年にはポールポジションを獲得。また、1940年と41年には決勝2位の成績を残している。画像は1941年インディ500出走時のもの |
1949年10月22日 |
イタロ・ドミンゴ・ビージオ |
フォーミュラ・リブレ |
(アルゼンチン)
スカンドリオロの死亡事故の翌22日の決勝でもアルファロメオ・モンツァに乗るビージオが事故死。享年38歳。
戦前・戦後にかけての多発する死亡事故により、一時はF1のグランプリ開催が囁かれていたアルゼンチンは、この年の事故が負のイメージとなり、世界選手権の場に登場するにはしばらく待たなければならなかった。
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1949年10月21日 |
アドルフォ・スカンドリオロ
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フォーミュラ・リブレ |
(アルゼンチン)
10月21日、アルゼンチン・サンタフェでのフォーミュラ・リブレ・レース「500ミラス・デ・ラファエラ」のプラクティス中、スカンドリオロ・カプローニに乗るスカンドリオロが事故死。享年36歳。 |
1949年9月24日 |
バクラフ・ユヘール |
非選手権F1 |
(チェコスロバキア)
9月24日、チェコスロバキア・ブルノでの非選手権F1「ベルカ・チェナ・チェコスロベンスカ」にマセラティ6CMで参戦。プラクティス走行中の事故で死亡。享年42歳。 |
1949年8月28日 |
スチュア・セランダー
観客2名
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F3 ノルウェー |
(スウェーデン)
8月28日、ノルウェーのオスロで開催されたF3レース「ノルエ・イスロペ」にエフィー500で参戦。コースアウトして観客席手前のフェンスに激突して宙を舞い、車外に投げ出されて死亡。享年不明。この事故で観客
二人も飛び込んだ車体の下敷きとなり死亡した。 |
1949年8月20日 |
セント・ジョン・ホースフォール |
シルバーストーン |
(イギリス)本名は、セント・ジョン・ラトクリフ・スチュワート・ホースフォール
シルバーストーンでのインターナショナルトロフィーレースで事故死。マシンは、ERA・R11Bの1.5リッター、通称「ハンフリー」だった。享年39歳。 |
1949年8月14日 |
オクタシリオ・ロッカ |
ブラジル |
(ブラジル)
8月14日、ブラジルのベロ・ホリゾンテでのローカルレースで事故死。 |
1949年7月24日 |
トミー・マットソン
チック・バルボ
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スプリント・カー |
トミー・マットソン(アメリカ)
7月24日、インディアナ州サレムでのスプリント・カーレースでトミー・マットソンとチック・バルボのマシンが接触。マットソンは宙を舞って金網を飛び越え駐車場の車に激突して死亡した。享年32歳。なお、接触した
もう一人のドライバー、チック・バルボもコース上で転覆して死亡した。こちらは享年不明。 |
1949年7月11日 |
レス・アンダーソン |
スプリント
カー
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(アメリカ)
7月11日、オレゴン州ポートランドでのスプリント・カーレースで事故死。享年36歳。
インディ500は通算2回出場している。
1947年…11位(69周遅れ)、1948年…24位(58周ギア・トラブル)
(画像は1948年インディ500出走時のもの) |
1949年6月26日 |
ピエール・マレシャル |
ル・マン24時間 |
(フランス)
ル・マン24時間でタソ・マシーソン(英国)とチームを組みアストンマーチンを駆っていたが、192周目(優勝ラップは235周)にユーノディエールへ向かう高速右コーナーでクラッシュしマシンは裏返しに。すぐさま病院に担ぎ込まれたものの、全身打撲により翌日27日に死亡した。享年32歳。 |
1949年6月18日 |
ビル・シェフラー |
インディカー |
(アメリカ)本名バヤルド・シェフラー。
ニュージャージー州トレントンでのインディカー・レース「トレントン100」にブローム・オッフィーで参戦。プラクティス走行中にラジアス・ロッドの破損からクラッシュし横転、重傷を負い、10日後の6月28日に死亡。享年31歳。
インディ500には通算3回出場している(画像は1948年インディ500出走時のもの ) |
1949年5月中旬 |
ジョージ・メッツラー |
インディ500・テスト |
(アメリカ)本名ジョージ・アンソニー・メッツラー・ジュニア。
新人としてインディ500に向けたテスト走行中に第1ターンで曲がれず外壁に衝突。頭部に重傷を負い病院に搬送されたものの6月3日に死亡。 |
1949年5月5日 |
ホレイス・リプレー |
F2 |
(イギリス)
5月5日、ベルギー・シメイでのF2レース「フロンティエーズGP」にリリー9で参戦。レース中の事故で炎上し、重度の火傷と一酸化炭素中毒で重態となり、6月8日に死亡。 |
1949年4月27日 |
ケネス・ベアー |
非選手権F1 |
(イギリス)
4月27日、英国セントヘリアーでの非選手権F1レース「ジェルシー・ロードレース」にブガッティ59で参戦。プラクティス中にフェンスに激突、一般人2名とともに死亡。またコースマーシャル4人も重軽傷を負う惨事となった。享年43歳。 |
1949年4月18日 |
ジャック・ジョンソン |
フォーミュラ・リブレ |
(オーストラリア)
4月18日、豪州バサーストでのフォーミュラ・リブレ・レース「ニュー・サウス・ウェールズ・イースター・レース」にMG-TCで参戦。プラクティス走行中の事故で死亡。享年28歳。 |
1949年2月27日 |
アドリアーノ・マルサルディ |
フォーミュラ・リブレ |
(イタリア系アルゼンチン)
2月27日、アルゼンチン・プラタでのフォーミュラ・リブレ・レース「グランプリ・マル・デル・プラタ」にアルファロメオBタイプで参戦。コースを外れ横転、炎上する事故で死亡。享年33歳。 |
1949年1月末、 |
ジャン・ピエール・ウィミーユ |
ブエノスアイレスGP |
(フランス)
ブエノスアイレスGPにゴルディーニで練習走行中。木に衝突して頭部を強打したのが致命傷となり死亡。。享年41歳。
1937・1939年のル・マン24時間優勝者であり、このためスポーツカー・ドライバーのイメージが強いが、戦前の1930年代にはグランプリドライバーとしても活躍。1933年チェコGP3位、1935年チュニスGP2位、ロレーヌGP2位、1936年…フランスGP1位、ドーヴィルGP1位の記録がある。
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1948年秋 |
ジム・マクマホン |
ミジェットカー |
(オーストラリア)
カリフォルニア州サンタバーバラでミジェットカーのテスト走行中に事故死。 |
1948年10月2?日 |
ダニエル・ウルティア |
ロードレース |
ブエノスアイレスをスタートしアンデス、太平洋沿いと走ってカラカスがゴールとなるロードレース「南アメリカ・グランプリ」に、ファン・マニュエ ル・ファンジオがドライバー、コ・ドライバーに友人でもあるダニエル・ウルティアというペアでシボレーで参戦。
レースは10月20日にスタートした。途中、リマで革命があって、深夜に無理やりスタートしたところ、山道を走行中、ヘッドライトでは確認できないカーブを曲がりきれず、転落した。
ファンジオはステアリングを強く握り締めていたため軽傷で済んだが、ダニエルはマシンから投げ出され、搬送先の病院で死亡した。
ファンジオは自分の運転で友人を失った為、大きな葛藤をうけたという。 |
1948年10月10日 |
テッド・ホーン
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インディカー・レース |
(アメリカ)
デュコーインでのインディカー・レースで事故死。マシンは、ホーン・オッフィー
だった。享年38歳。
インディ500にも10回の出場経験を持ち、1935年の初出場以降、1936〜1941、1946〜1948年と常に2-4位に食い込む実力者でインディの顔ともいえる存在だった。
(像は1948年インディ500出走時のもの) |
1948年7月10日 |
リシャール・スタルブラ |
スパ・フランコルシャン24時間 |
(フランス)
スパ・フランコルシャン24時間にジャック・フェアマンと組んでアストンマーティン・スピードモデルで参戦。夜間走行中にマルメディ・コーナーでオーバースピードのためコースアウト、コース脇の土手に衝突、即死した。 |
1948年7月4日 |
クリスチャン・カウツ
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スイスGP |
ヴァルツィの事故の余韻が残る7月4日のスイスGP決勝でマセラティ4CLのF1カーで走行中、雨の濡れた路面が災いしコースアウト、死亡した。
1937年モナコGP3位、1936年モナコ・1937年ベルギーGP4位などの記録がある。
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1948年7月1日 |
アキッレ・ヴァルツィ
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スイスGP練習走行
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(イタリア)
ブレムガルテンでのスイスGPでアルファロメオ15(F1カー)の8練習走行中、ジョルデンランプのコーナーで濡れた路面に足をとられ2回スピン、その後横転して木に激突して死亡。享年43歳。
ストレスからモルヒネを常用していたという噂があったが、本人は1938年を最後に使用をしていないと手記に残している。 |
1948年6月30日 |
アキーレ・パルツィ |
ヨーロッパGP |
(イタリア)
スイス・ベルンで行われたヨーロッパGPにアルファロメオ158で参戦。プラクティス中にコースアウトし、転倒したマシンの下敷きになり死亡。享年43歳 |
1948年6月14日 |
ジョニー・シャックルフォード |
スプリントカー |
(アメリカ)
オハイオ州デイトンでのスプリントカー・レースで他車と接触し金網を突き破る事故で死亡。享年34歳。
インディ500は1948年にリザーブ・ドライバーとして出場。ジョー・チトウッドと交代して32周走り、またチトウッドと交代…という記録が残る。(記録上このマシンは138周目オイルもれでリタイア) |
1948年5月16日 |
ラルフ・ヘプバーン
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インディ500 |
(アメリカ)
インディ500にカーティス200・ノーヴィで参戦。プラクティス走行中に第3ターンで事故死。享年51歳。
インディ500には過去15回出場しており、37年の2位が最高位。1939年にはフロイド・ロバーツの死亡事故に巻き込まれたこともあった。
(画像は2位入賞を果たした1937年インディ500のもの ) |
1948年3月20日 |
パブロ・ペサッティ |
フォーミュラ・リブレ |
(アルゼンチン)
ブエノスアイレスでのフェルザ(フォーミュラ)・リブレレースにアルファロメオで参戦。プラクティス中に立ち木に衝突、車体はくの字に折れ曲がり、
圧迫された車体に閉じ込められ、引き出されたものの
間もなく死亡した。享年38歳。
(画像は救出中の事故現場の模様) |
1948年1月9日 |
観客12名 |
速度記録会 ソビエト連邦 |
モスクワで開催された速度記録会「Russian 1000 m with launched start speed record attempt」でソロコフというドライバーが運転するアウトウニオン
Dタイプが、あろう事かコース上に進入していた観衆に遭遇、急ブレーキで回避しようとしたものの観客は次々と跳ねられ、マシンも大破した。
ドライバーは重傷を負うものの命に別状はなかったが、跳ねられた12名がその日のうちに病院で死亡。この事態を重く見たソ連政府は当分の間、競争における全ての車両(2輪含む)の外国機器類の使用禁止という法令を出すが、それは本末転倒で、警備上の不手際という印象が強い。 |
1947年9月7日 |
ヒポリート・ボルカット |
フォーミュラ・リブレ |
(アルゼンチン)
9月7日、アルゼンチン・サンタフェで開催されたフォーミュラ・リブレ・レース「500ミラス・デ・ラファエラ」に出走中事故死。 |
1947年7月27日 |
アンドレ・ボッシュ |
スポーツカー |
(フランス)
パリでのスポーツカー・レース「クーペ・ド・パリ」にDB1・シトロエンで参戦。プラクティス中の事故で死亡。享年40歳。
事故の二ヶ月前、フロンティエーズGPで4位完走という記録がある。 |
1947年6月15日 |
エルバート・ブッカー |
スプリントカー |
(アメリカ)愛称パピー。
6月15日、オハイオ州デイトンでのスプリントカー・レースにジュエル・ハル・スペシャルで参戦。第2ターンの外壁に衝突して宙を舞い、転落の際の衝撃により致命傷を負う。病院搬送後に亡くなった。享年45歳。宙を舞う彼の車の下を、4・5台の車が通過していったというから、その滞空時間がうかがえる。
AAAスプリントカー選手権の、1946年度のチャンピオンでもあった。 |
1947年5月30日 |
ショーティー・キャントロン |
インディ500 |
(アメリカ)本名ウィリアム・H・キャントロン。
インディ500決勝40周目のホームストレートで接戦中のビル・ホランド(2位完走)との接触で大横転事故が発生。最初の一回転目の横転でキャントロン投げ出され、車体のみが壁に激突した事から、直接の死因は車体の下敷きになった際の頚部および頭部の骨折とされている。
享年42歳。
インディ500にはこの年で11回の出場経験を持つベテランだった。
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1947年5月30日 |
ミルトン・ザピア |
フォーミュラ・リブレ |
(ブラジル)
5月30日、サンパウロでのフォーミュラ・リブレ・レース「グランプリ・ド・インテルラゴス」に出走中事故死。 |
1947年2月28日 |
エミリオ・メネゲッティ
エジソン・ホータル
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フォーミュラ・リブレ |
(共にアルゼンチン)
同国サンタフェで開催されたオートモビルレース、「パルケ・デ・ラ・インデペンデンシア」。このレースはアキッレ・ヴァルツィが勝ったと記録に残る。
同日開催だったフォーミュラ・リブレ・レースの練習走行日である2月28日、ハドソンに乗るメネゲッティが立ち木に衝突して即死、プリモスに乗るホータルも炎上事故で三日後に死ぬなど、悲劇の一日となった。
この日は地元でも記録的な猛暑であり、体力的な原因も左右したのではないかといわれている。
メネゲッティ享年35歳、ホータル享年不明。 |
1946年9月15日 |
アル・パットナム
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インディカー・レース |
(アメリカ)
インディアナ州フェアグラウンズでのインディカー・レース「ホーシエール100」でスティーブンス・オッフィーで参加。コントロールを失いコース外に飛び出し、跨線橋の台座に激突、事故死した。享年37歳。
インディ500は通算4回出場。
(画像は1940年インディ500出走時のもの) |
1946年9月1日 |
ジョージ・バリンジャー
ジョージ・ロブソン
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インディカー・レース |
9月1日に開催された「アトランタ200」で、ジョージ・ロブソン(マシンはウェッテロス・オッフィー)と、ジョージ・バリンジャー(マシンはショウ・オッフィー)が衝突。ロブソンが死亡、バリンジャーも翌2日に死亡した。
ジョージ・ロブソン(イギリス) 享年39歳。
インディ500には3回の出場経験があり、この年のインディ500で優勝を記録していた。。(リンクの画像は1941年インディ500出走時のもの )
ジョージ・バリンジャー(アメリカ) 享年40歳。
インディ500に通算6回出場の出場をしている。(リンクの画像は1940年インディ500出走時のもの )
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1946年7月28日 |
ロベール・マゾー |
ナントGP |
(フランス)
ナントで開催された24時間レース「I Prix des 24 Heures du Mans」にマセラティ4CLで参戦。エウジェン・シャブーのデラハイエと3周目に接触し死亡した。享年39歳。
1938年のアントワープGP優勝の記録が残っている。 |
1946年7月9日 |
デビッド・シャンプー |
アメリカ |
(アメリカ)
ネブラスカ州リンカーンでのレースでクラッシュし死亡。享年不明。スプリントカー・レースという説もあるが詳細は不明。 |
1946年6月9日 |
エディ・ニコルソン |
スプリントカー |
(アメリカ)
ウィスコンシン州ミルウォーキーでのスプリントカー・レースにミラー・オッフィーで出走中事故で重傷を負い、13日後の6月22日に死亡。 |
1946年5月24日 |
ポール・スウィードバーグ |
ミジェットカー |
(アメリカ)
カリフォルニア州サクラメント、ヒューズ競馬場を利用したコースで開催されたミジェットカー・レースにスティーブンス・オッフィーで参戦。スロットルの故障で全速力のまま木製フェンスを突き破り大破、病院搬送後に死亡した。享年29歳。 |
1939年9月に始まった第二次世界大戦は、大きなうねりとなり世界を飲み込んでいきました。このため、モータースポーツも開催中止となるようになりルマン24時間レース(1940〜48年中止、インディ500(1942〜45年中止)など伝統あるレースも例外ではありませんでした。特に1943年〜1945年の間、戦局は悪化。レース中の死亡事故などは記録されていない反面、戦争により多くのドライバー達の命が失われることとなります。
平和な世があってこそ、モータースポーツを楽しむことができる。改めて、二度とこのような戦争を起こしてはいけないという思いを感じずにはいられません。 |
1942年7月5日 |
ラッキー・テーター |
スタントショー インディアナポリス |
(アメリカ)本名アール・テーター。
インディアナ州インディアナポリスでのスタントショーで事故死。享年40歳。 |
1942年6月18日 |
ハリー・ブッチャー |
アメリカ |
(アメリカ)
イリノイ州ウィルミルトンでのローカルレースで事故死。享年48歳。
インディ500には通算2回出場している。
1930年…14位(73周遅れ)1931年…38位(6周第4ターンでクラッシュ)
画像は1931年インディ500出走時のもの |
1942年5月31日 |
イヴレット・セイラー |
アメリカ |
(アメリカ)
5月31日、ミズーリ州ケープジラルデューでのローカルレースで事故死。享年32歳。インディ500には1941年に一度出場している。
1941年…17位(155周第4ターンでクラッシュ)
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1941年10月22日 |
ガス・シュレーダー |
スプリントカー |
(アメリカ)
10月22日、ルイジアナ州シュレーヴポートでのスプリントカー・レースにウェッテロス・オッフィーで参戦。他車と接触して横転、その際ヘルメットがちぎれ飛んだために頭部に致命傷を負い死亡した。享年46歳。
1933年から1941年まで、1938年を除いた全ての年でスプリントカー・レースのタイトルを獲得している。24年のレース歴の功績が称えられ、死後名誉の殿堂入りを果たした。
また彼は、40台が出走した1932年のインディ500にも一度だけだが出場している。結果は7周目第4ターンでクラッシュしたために総合39位という成績。以後はスプリントカーのみに専念した。
(右の画像はインディ500に出場した1932年大会の
時のもの) |
1941年10月12日 |
トニー・ウィルマン |
ミジェットカー |
(アメリカ)本名アントニオ・トニー・ウィルマン。
コネチカット州トンプソンでのミジェットカー・レースに参戦中事故死。享年37歳。
インディ500には通算4回出場している。
(画像は1941年インディ500出走時のもの ) |
1941年9月1日 |
レア・ブレイ |
ダートインディカー |
(アメリカ)本名クライド・レア・ブレイ。
9月1日、カリフォルニア州オークランドでのダートインディカー・レース「オークランド500」にフェルトで参戦。一周1マイルの356周目にコントロールを失い外側バンクに激突、それを飛び越えて転落し死亡。享年39歳。
コース外に飛び出すブレイのマシン
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1940年10月2日 |
ボブ・スワンソン
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ミジェットカー |
(アメリカ)
オハイオ州トレドでのミジェット・カーレースにハリー・スティーブンス・オッフィーで参戦。プラクティス走行中に横転事故を起こし重傷を負い、翌13日に死亡。享年27歳
インディ500には3回出走し1940年には6位入賞(4周遅れ)を果たしていた。 |
1940年9月2日 |
ルー・ウェッブ |
インディカー |
(アメリカ)
ニューヨーク州シラキュースでのインディカー・レース「シラキュース100」にシルネス・オッフィーで参戦。レース中にラルフ・ヘプバーンの車に追突して横転し死亡。
下はウェッブの事故の瞬間を捉えた画像
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1940年6月19日 |
アッティリオ・マリノーニ
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テスト |
(イタリア)
ミラノでアルファロメオ158(ヴォアチュレット・カー)のテスト走行中に事故を起こし、車外に投げ出されて死亡。享年49歳。
1928〜1930年にスパ24時間三連覇の記録がある。 |
1940年5月7日 |
ジョージ・ベイリー
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インディ500 |
(アメリカ)
四輪駆動のミラーを駆ってインディ500のプラクティスを走行中、第2ターンでスピンし内柵に飛び込んだ。この際燃料タンクが破裂、満載の燃料が
引火し爆発炎上する。ベイリーは自力でマシンから脱出したが、身体の炎がなかなか消えずに昏倒、結果第三度の熱傷を負い、病院に搬送された後死亡した。享年40歳。
インディ500には5回の出場経験有り。
(画像は1939年インディ500出走時のもの ) |
1940年1月29日 |
コリン・デュネ |
デモンストレーション |
(オーストラリア)
、豪州フィリップ島でBMW328のデモンストレーション走行中に事故死。 |
1940年1月1日 |
デニス・ウッドヘッド |
南アフリカ |
(南アフリカ)
南ア・ヨハネスブルグでのシングルシーターレース「ゴールデンシティオープン・モーターレース・グランドチャレンジ」にブガッティT35C・グラハムで
参戦。リヤタイヤの破裂による横転事故で重傷を負い、3日後の1月4日に死亡。享年25歳。 |
1930年代 |
1939年9月20日 |
ローソン・ハリス(同乗メカニック)
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インディアナポリス |
インディアナポリス・モータースピードウェイでベイブ・スタップの駆るマシンに同乗中、第1ターンで直進し外壁に激突。ドライバーは無事だったが同乗メカニックのローソン・ハリスが死亡した。
ラリー、サイドカーを除き、同乗者が死亡した最後の事案となる。 |
1939年8月12日 |
カトゥロ・ラミ |
ペスカーラ |
(イタリア)
ペスカーラでのコッパ・アチェルポ決勝レースではマセラティ6CMに乗るカトゥロ・ラミ(イタリア)が転覆事故で死亡。 |
1939年8月11日 |
ジョルダーノ・アルドリゲッティ |
ペスカーラ |
(イタリア)愛称ナンド
ペスカーラでのコッパ・アチェルポの予選中にアルファロメオ158で事故死。事故は火災を伴うもので、重篤な火傷を負い翌日(8月12日)に死亡した。享年34歳。
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1939年8月11日 |
ジャン・ブガッティ |
テスト |
(ドイツ)本名ジャノベルト・マリア・カルロ・ブガッティ。
ブガッティ創設者のエリオットの息子。レーシングドライバーではなく、主に自社マシンの開発を手がけたテスティング・ドライバーだった。
8月11日、ストラスバーグでブガッティの開発テスト走行中に事故死。享年30歳。1937・1939年のル・マン24時間優勝に貢献した。 |
1939年6月29日 |
ジミー・スナイダー
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ミジェットカー |
(アメリカ)
カホキアでミジェットカー・レースに参加中に事故死。享年32歳。
インディ500には5回出場し、同年(1939年)にはPPを獲得し決勝でも2位を記録したばかりだった。 |
1939年6月25日 |
リチャード・シーマン
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ベルギーGP・スパ・フランコルシャン |
(ドイツ)
スパ・フランコルシャンでのベルギーGPにメルセデスベンツW154で参戦。ラ・ソースヘアピンの手前、現在の最終コーナとなっている地点でコースを外れて横転し木に激突、炎上した。救助作業の不手際があり、結局はサーキットの警護に当たっていたベルギー兵士により救出されたものの、その甲斐もなく翌日死亡した。享年26歳。
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1939年6月20日 |
エミリオ・ヴィッロレージ
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テスト・モンツァ |
(イタリア)
モンツァでアルファロメオ158(通称アルフェッタ)のテスト中に事故死。享年25歳
F1ドライバー、ルイジ・ヴィッロレージの弟で愛称ミーミ(ルイジは「ジージ」)。
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1939年5月30日 |
フロイド・ロバーツ |
インディ500 |
前年のインディ500マイルレースの制し、カーナンバー1をつけて連覇をめざしたフロイド・ロバーツ(ウェッテロス・オッフィー/ No.1)。
しかし予選はふるわず23番手スタート。追い上げていた106周目の第4ターン出口でスピン、後ろ向きにコース中央へと戻ってきたところにラルフ・ヘプバーン(スティーヴンス・オッフィー/No.25)が衝突。ヘプバーンは車ごとコース外に弾き飛ばされたが無事、しかしロバーツは車から投げ出され、横転する車の下敷きとなり即死、車は炎上という悲劇的な事故となった。享年38歳。
(写真は1937年INDY500時のもの)
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1938年11月13日 |
フェルミン・マーティン
プラシド・ルイズ
同乗メカニック
観客
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ヴォアチュレット・
レース |
(共にアルゼンチン)
ブエノスアイレスでのヴォアチュレット・レース「200ミラス・デ・トレス・アロヨス」。
ひどい埃のために、スタート直後から2位以下のマシンは前が見えない状態でのレースとなる状況で、ファンジオ自伝には「見えるものは白い砂埃だけで、エンジン音が埃の中から時々聞こえるのみという状況のなか、5周目に惨事が起きた。」と記されている。
「1台のフォードがピットに向かおうとスピードを落としたところ、フィアットがこれに追突、フォードがひっくり返った。ここにもう一台のマシンが衝突し、"マーティン"(フェルミン・マーティン)というドライバーとメカニックが地に投げ出された。
"ルイス"(プラシド・ルイズ)というドライバーが、火の手の上がったマシンから逃げようとしたが、ピットと観客席を仕切る有刺鉄線に引っかかった。観客の一人がルイスが逃げるのを手伝ったが、この二人を炎が包み込んだ。」
視界不良が引き金となった、多重事故により、少なくともマーティンとルイズ、それぞれの同乗メカニック、さらに救助に当たった観客の5人が巻き込まれたと見られる。
なお、レースはファンジオ自伝では、300マイルレースと記されている。
写真左はマーティン、右はルイズの事故現場の模様。
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1938年9月11日 |
アルド・マラッツァ |
モンツァ |
(イタリア)
9月11日、モンツァでのミラノGPの前座レースとして開催されたヴォアチュレット・レース「コッパ・デル・ファッシオ・プリモジェニート」に、マセラティ6CMのヴォアチュレットで参戦。レズモ・カーブを曲がりきれず森の中に突っ込みマシンは大破しマラッツァは死亡した。享年24歳。
まだ26歳の若い死は、後年のトニー・ブライズやステファンベロフと同様、才能を開花する前に失われた逸材として悲しまれました。
画像は前年、イタリア・スペルバでの非選手権で唯一の栄光を獲得した時のものです。
マラッツァのマセラティ6CMの残骸
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1938年9月11日 |
マヌエル・マンリケ |
ヴォアチュレット |
(アルゼンチン)
アルゼンチン・サンタフェでのヴォアチュレット・レース「500ミラス・デ・ラファエラ」にハドソン・プレパラードで出走中事故死。享年29歳。
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1938年9月3日 |
チェット・ガードナー |
インディカー |
(アメリカ)本名チェスター・リロイ・ガードナー。
9月3日、ニュージャージー州フレミントンでのインディカー・レース「ステートフェアー・レース」に参戦。練習走行中、コース内に飛び出してきた子供を避けようと内柵に飛び込んで死亡。享年40歳。
インディ500には通算7回出場している。1930年…38位(1周第1ターンでスピンオフ)、1933年…4位、1934年…21位(72周ロッド)、1935年…7位、1936年…29位(38周クラッチ)、1937年…11位(1周遅れ)、1938年…5位
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1938年8月21日 |
ハンス・ギュベリン |
スポーツカー |
(スイス)
スイスGPの前座スポーツカーレース「プリ・ド・ブレムガルテン」にBMW328で出走。トップ争いを展開しつつ、最終コーナーで1位と併走、チェッカーフラッグが振られようとした瞬間、まさにゴールラインで接触し大横転、即死した。享年不明。
このレースは彼の優勝として記録されているが、この事故で振られようとしたチェッカーも振られず、本人も死亡という、悲しいレースとなった。 |
1938年8月20日 |
ビリー・ウイン |
ミジェットカー |
(アメリカ)
8月20日、イリノイ州スプリングフィールドでのミジェットカー・レース(100マイル)に出走中事故死。享年33歳。
インディ500には通算4回出場している。 |
1938年7月7日 |
観客3名 |
ツーリングカー |
オーストラリアのペンズ・スピードウェイで行ツーリングカーレースでウィリー・ジェームスの車がコントロールを失いコースアウト。コース脇で観戦していた観客の列に突っ込み、観客3名が死亡する事故が発生した。
この事故でパム・ベーカー(本名パメラ・メリーマーガレット・ベーカー)とジョエル・ベーカー(本名ワルター・ジョエル・ベーカー)という幼児の兄弟即死、二人の祖母にあたるマリー・ヒヤシンス・ベーカー・ジョーン
ズが六日後に死亡した(享年47歳)
また幼い兄弟の母ジョシー、ジョシーの妹クラリスが重傷を負っている。 |
1938年6月5日 |
バズ・メンデンホール |
インディカー |
(アメリカ)
インディアナ州ハモンドでのインディカー・レースにムーア・ヒッソで出走。前車を抜こうと外側に進路を変えたもののスリップしてコースを外れ、砂地のバンクで横転。放り出されはしなかったが、その影響で多発骨折を負い、肋骨が肺を突き破ったのが致命傷となり死亡した。享年35歳。
メンデンホールの事故時の画像 1 ・ 2 |
1938年5月30日 |
イヴレット・スペンス(観客)
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インディ500 |
インディ500決勝45周目の第2ターンでエミール・アンドレスがクラッシュ、外れたホイールが観客席の同人を直撃し死亡。 |
1938年5月15日 |
ラツロ・ハルトマン |
トリポリGP |
(ハンガリー)
メラハでのトリポリGPで、ジュゼッペ・ファリーナ
のアルファロメオ(グランプリカー)がラツロ・ハルトマンのマセラティ4CM(ヴォアチュレットカー)に追突。
ハルトマンのマシンは横転した。この事故でハルトマンは重傷を負い翌16日に死亡した。
享年37歳。
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1938年5月15日 |
エウジェニオ・シエーナ |
トリポリGP |
(イタリア)
メラハでのトリポリGPで事故死。
このレースはグランプリカーとヴォアチュレットカーの混走レースで、エウジェニオ・シエナのアルファロメオ・ティーポ312(グランプリカー)が、フランコ・コルテーズのマセラティ(ヴォアチュレットカー)をパスした直後のフレーキングでコントロールを失い、バンクを飛び越えて転落した。享年33歳 |
1938年5月7日 |
オズワルド・メディコ |
ヴォアチュレット アルゼンチン |
(アルゼンチン)
5月7日、ブエノスアイレスでの・レース「グランプリ・デ・ラ・プラタ」にメルセデス・ベンツで出走中事故死。享年32歳。 |
1938年4月3日 |
ルイス・シュナイダー |
ミジェットカー |
(アメリカ)
1938年4月3日にサンディエゴで開催されたミジェットカー・レースに出場中クラッシュし、右腕挫滅の重傷を負う。
その後は、病院と自宅での療養をしていたが、1942年年9月27日、ペニシリンによると思われる感染症により死亡した。享年40歳。晩年は結核を患っていた。
インディ500には通算6回出場しており、1931年には優勝している。
(画像は1931年インディ500出走時のもの) |
1938年1月28日 |
ベルント・ローゼマイヤー |
アウトバーン・速度記録挑戦会 |
メルセデスベンツvsアウトウニオンの速度記録挑戦。
アウトウニオン・アヴスレコードカーで挑戦したベルント・ローゼマイヤーは時速430km/h前後をマークしたのち、少し風が強くなってきた中再挑戦。しかし450Km/hほどで走行中に、モルフェルデンの切り通しと呼ばれる立体交差で猛烈な横風を受けてマシンが粉砕。ローゼマイヤーは100メートルほど離れた林の中まで飛ばされて即死した。 もう少し詳しく |
1938年1月2日 |
ベルン・リーチ |
ヴォアチュレット 南オーストラリア |
(オーストラリア)
南オーストラリアでのヴォアチュレット・レース「オーストレリアン・グランプリ」にMGP850で出走中事故死。 |
1937年10月8日 |
カルロス・ザツシェク |
ヴォアチュレット アルゼンチン |
(アルゼンチン)
アルゼンチンのサンタフェで開催されたヴォアチュレット・レース「カレラ・デ・カシルダ」にメルセデス・ベンツSSKで出走中事故死。
1931年の同国グラン・プレミオの優勝者でもある |
1937年9月19日 |
フェルナンド・サルメント |
グランプリカーレース |
(ポーランド)
、ブラジル・サンパウロでのGPカー・レース「プレミオ・デ・カンピナス」にアルファロメオBタイプで出走中事故死。享年30歳。 |
1937年8月21日 |
ヨハネス・ヴァン・デン・ドール |
南アフリカ |
(南アフリカ)
南ア・ヨハネスブルグでのレース「シルバー・スプリングブック・トロフィー」にオースチン・セブンで出走中事故を起こし重傷を負い、二日後の23日に死亡。享年34歳。 |
1937年7月25日 |
エルンスト・フォン・デリウス
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ドイツGP |
(ドイツ)
ニュルブルクリンクでのドイツGP7周目、有名な「ラクダのコブ」のストレートの地点で他車を抜こうとして路肩の縁石に接触、コースを横切って生垣を飛び越えコース外の一般道路まで飛ばされて大破。享年25歳。
ベルント・ローゼマイヤーの弟弟子のような存在だった。
写真左がデリウス。(中央はベルント・ローゼマイヤー、右はジュゼッペ・ファリーナです) |
1937年6月19日 |
ルネ・キプール
パット・フェアフィールド
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ル・マン24時間 |
ル・マン24時間で大規模な多重衝突事故が発生。
この9周目の事故で巻き込まれたのは6台。タルボ(エンブリコス/ラフ組)、デラハイエ(シャブー/トレムレ組)、ブガッティ(キプール/ポーレン組)、BMW(フェアフィールド/マーレイ組)、BMW(ロス/リクター組)、ライリー(フォレスティエ/カロン組)。
遅いマシン群れに上位のタルボが突っ込んだ事故だったが、ブガッティと一台のBMWは事故と共に炎を上げ激しく炎上。
ブガッティのキプールはマシンから出られず焼死。BMWのフェアフィールドは全身火傷の重症を負い、二日後の21日に死亡した。 |
1937年6月1日 |
フィリップ・ジャッカー |
ヴォアチュレット |
(イギリス)本名フィリップ・フォンタナ・ジャッカー。
英国マン島でのヴォアチュレット・レース「ライトカー・レース」にアルタで出走。その練習走行中に事故死。享年30歳。 |
1937年5月28日 |
アルバート・オパルコ(同乗メカニック)
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インディ500 |
インディ500のプラクティス走行中、第1ターンでフランク・マクガークが壁に激突。ドライバーは無事だったが、同乗メカニックのアルバート・オパルコが死亡した。 |
1937年5月27日 |
ジョージ・ウォーフォード(消防士)
オットー・ローデ(ピットメカニック) |
インディ500 |
インディ500のプラクティス中にフィリップ・オーバートンがピットエリアでクラッシュ、暴走したマシンにジョージ・ウォーフォード(消防士)、オットー・ローデ(ピットメカニック)の2名が跳ねられた。ウォーフォードは即死、ローデは6月1日に死亡。 |
1936年12月5日 |
ジョルジュ・ソーリー |
ヴォアチュレット |
(フランス)
フランス・アルジェリーでのヴォアチュレット・レース「コルス・ド・コート・デ・ラ・ブーザレア」にデラハイエ135で出走。プラクティス走行中に事故死。 |
1936年10月8日 |
ヨハン・ウルフ |
テスト ニュルブルクリンク |
(ドイツ)
10月8日、ニュルブルクリンクでのテスト走行でメルセデス・ベンツW25を運転中、カルッセルのバンクを飛び出して転落し死亡。 |
1936年10月5日 |
イグナチオ・ラディーチェ・フォッサーティ
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モンツァ 耐久記録 |
(イタリア)
モンツァで12時間耐久記録挑戦中、観客が連れていた犬がコースに迷い込み、彼のマセラティ・ティーポ4CS/1000が避けきれず衝突、急制動を
かけていたためバランスを崩して横転し、大破炎上して死亡した。 |
1936年8月30日 |
レイ・ピクスレイ
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ニュー・ロビー |
(アメリカ)本名レイモンド・ピクスレイ
ニュー・ロビーでのレース「ロビー45」にジェター・ヒッソで参戦、事故死。
この年インディ500に初出場しており、同一周回の6位という好成績だった。
右の写真はピクスレイ最期となったレースの模様。4番手がピクスレイ
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1936年8月26日 |
ドク・マッケンジー |
ミルウォーキー |
(アメリカ)本名ジョージ・マッケンジー。
ミルウォーキーで開催された「ミルウォーキー100」にウェッテロス・オッフィーで参戦したが事故死。享年30歳。
インディ500にも5回出場し死亡した1936年には3位を記録していた。(画像は1933年インディ500出走時のもの) |
1936年7月19日 |
アルバート・シャンボス |
ドーヴィルGP |
(フランス)
下のルオーの事故と同じく「グランプリ・ド・ドーヴィル」でクラッシュ。重傷を負い、3日後に死亡した。享年41歳、マシンはマセラティ8CMだった。 |
1936年7月19日 |
マルセル・ルオー
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ドーヴィルGP |
(フランス)ドーヴィルGP(正式名称は「グランプリ・ド・ドーヴィル」)にERA・R3Bを駆って参戦。アルファロメオのジュゼッペ・ファリーナと接触して、両者コースアウトしてクラッシュ。ルオーは即死し、ファリーナも頭部に重傷を負った。マルセル・ルオー(右の画像)享年47歳。 |
ジュゼッペ・ファリーナ |
1936年6月1日 |
ケネス・カール |
グランプリカー・レース |
(イギリス)
英国ブルックランズでのグランプリカー・レース「ウィットサンBARCミーティング」にアルファロメオ・モンツァで参戦。プラクティス走行中に横転事故を起こし死亡。 |
1936年6月 |
ダンテ・パロンボ |
ヴォアチュレット |
(イタリア)
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催されたヴォアチュレット・レース「グランプリ・デ・リオ・デ・ジャネイロ」にフォード・アダプタドで参戦。
プラクティス走行中に事故死。享年不明。このレースでは前年のイリネウ・コルレアに次いでの惨事。 |
1936年2月4日 |
ルドルフ・ヘイダー |
テスト モンツァ |
(ドイツ)
モンツァでのテスト走行でアウトウニオンを操縦中に事故死。享年23歳。 |
1936年1月26日 |
アル・ゴードン
ウィリアム・マトロック(同乗メカニック)
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テスト |
(アメリカ)
アスコットでテスト走行中にパンクが原因となりクラッシュ。ゴードンとマトロックが死亡した。ゴードン享年33歳。
アル・ゴードンはインディ500にも3回出場しているが、いずれもクラッシュによるリタイアに終わっている。
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1935年11月2日 |
ルドルフ・スタインベック |
ヴォアチュレット・レース |
(ドイツ)
ハンガリー・ブダペストでのヴォアチュレット・レース「グジェールベルグレンネン」にブガッティ51Aで出走中事故死。享年45歳。 |
1935年9月8日 |
ハリス・インシンガー |
テスト |
(アメリカ)
オークランドで新車試走中に事故死。享年25歳。この年インディ500に初出場しており、15周遅れの14位という成績を残していた。 |
1935年6月16日 |
ロバート・カズー |
ヒルクライム |
(フランス)
6月16日、フランス・セザンヌでのヒルクライム・レース「コルス・ド・コート・ダ・セザンヌ」にブガッティT51で出走。このレースを制したものの、ゴール後の走行で転覆事故を起こし、車体の下敷きとなって死亡。享年29歳。
事故のあったコーナーは人の全くいない場所であり、目撃者はいなかった。彼が上るべき表彰台の頂点には、レイを掛けたトロフィーが捧げられたという。 |
1935年6月12日 |
レッド・クラーク |
グランプリレース |
(アメリカ)本名ローレン・クラーク。
カリフォルニア州アルハンブラで開催されたグランプリレース「レグノン・アスコット・レース」にミラーで出走、車輪の脱落が原因で事故を起こし重傷を負い、翌13日に死亡。享年29歳。 |
1935年6月2日 |
イリネウ・コルレア |
ヴォアチュレット・レース |
(ブラジル)
6月2日、リオデジャネイロでのヴォアチュレット・レース「グランプリ・デ・リオ・デ・ジャネイロ」にフォード・アダプタドで出走。スタート直後の1周目にコースアウトして運河に転落し死亡。享年35歳。
運河に水没したコルレアのマシン |
1935年5月30日 |
クレイ・ウェーザリー |
インディ500 |
(アメリカ)
インディ500決勝9周目の第4ターンで外壁に激突して死亡。享年不明。この年がインディ500マイルレース初出場だった。 |
1935年5月21日 |
ジョニー・ハノン
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インディ500 |
(アメリカ)
インディ500のプラクティス中に事故死。この大会が初出場となるはずのルーキーだった。なお、下のスタッブルフィールドの事故とは因果関係はない。 |
1935年5月21日 |
スタッビー・スタッブルフィールド
レオ・ウィテカー(同乗メカニック)
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インディ500 |
(共にアメリカ)
スタッビー・スタッブルフィールドの本名はハートウェル・スタッブルフィールド。
インディ500のプラクティス中にマシンが外壁を飛び越えて200フィート暴走するという事故が発生。スタッブルフィールドとウィテカーは共に頭部にダメージを負い死亡した。
スタッブルフィールド享年27歳。インディ500には4回の出場経験があり1933年には5位を記録している。
事故後のマシンの模様 |
1935年3月31日 |
バド・スナーベリー |
スプリントカー |
(アメリカ)本名オニックス・スナーベリー。
3月31日、カリフォルニア州アルハンブラでのスプリントカー・レース「レグノン・レース」のウォームアップ走行中に事故死。享年34歳。 |
1935年3月29日 |
レス・クランプ |
ヴォアチュレット・レース |
(オーストラリア)
豪州ビクトリアでのヴォアチュレット・レース「オーストラリアン・グランプリ」にバロー2LSで出走中コースアウトし土手に激突して死亡。享年は不明。元々は2輪のレーサーだった。 |
1934年10月3日 |
ニーノ・クレスピ |
グランプリレース |
(ブラジル)本名ステファーノ・クレスピ。イタリアから移民としてブラジルに渡った。
10月3日、リオデジャネイロで開催された非選手権のグランプリレース「グランプリ・デ・リオ・デ・ジャネイロ」にブガッティで出走。ビセンテと呼ばれるコーナーのポストに激突し、頭部を強打して死亡。享年不明。
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1934年9月29日 |
ヨゼフ・フランティセク・ブラズディル |
グランプリレース |
(チェコスロバキア)
チェコスロバキア・ブルノでのグランプリレース「ベルカ・チェナ・チェコスロベンスカ」にマセラティ6C34で出走。プラクティス走行中にコースアウトして立ち木に激突、折れた車体の下敷きとなり死亡。享年35歳。
これだけなら他の死亡事故と同様の扱いとなるのだが、彼の死亡資料にはSuicide(自殺)とあるのである。事実解明すべく調査してみた結果、概要は以下の通り。
彼はレースの経験が無い全くの素人であり、金銭の問題で刑務所に服役中である事がわかった。とある女性(彼とは無関係)がこの事故の三日前に刑務所を訪れ、司法取引に応じる事を条件に彼を保釈させた。その際、彼に圧力がかかったと思われる。事故はカーブの無い直線で起きており、マシンに異常が起きた形跡もなく、目撃者によればコースアウトしてからもスピードを上げ続けていたといい、勿論ブレーキの跡もなかった。
またこの女性は彼の婚約者ともいわれていたが、彼女は他に男性がいた。またこの事故で彼のマネージメントという肩書きであった彼女には弔意金という名目の金銭がオーガナイザーから支払われており、いわば保険金目的の行為だったともいわれている。彼がこのレースに出なければならなかった事、故意に事故を起こさるばならなかった事など不可解な点も多々あるが、いずれにしても72年を経た現在でも、彼の死亡記事から「自殺」の単語は消える事はない。
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1934年9月27日 |
エルフレイダ・メイス |
スタントショー |
(アメリカ)ドイツ系アメリカ人女性。1915年のインディ500に
出場経験のあるジョニー・メイスの妻。
アラバマ州バーミンガムでのスタントショーで単座インディカーに乗り、炎の木板を突き破るスタントに挑戦。見事成功したものの、その後コントロールを失い、土手を転げ落ちて転覆、車外に放り出されて死亡した。享年42歳。
インディアナポリスに生まれた彼女はスタントのかたわらレースにも参戦しており、インディ500こそ出なかったもののカンザスでのローカルレースに多く出場。1916年のエキシビジョンレースでは、2ラップ、1マイルの短距離ながら優勝経験がある。現在のアメリカモーターレースの女性ドライバーの先駆けである。 |
1934年9月9日 |
ジョージ・ブライアン |
インディカー |
(アメリカ)
ニューヨーク州シラキュースでのインディカー・レース「シラキュース100」にオークランドで出走中事故死。享年28歳。 |
1934年8月26日 |
ヒュー・ハミルトン |
ヴォアチュレット |
(アイルランド)
ブレムガルテンでのヴォアチュレット選手権の第6戦「プレ・ド・ベルン」
MG K3に乗るヒュー・ハミルトンが、6周目の事故で死亡 |
1934年8月19日 |
エディット・フリシュ |
ドイツ |
(ドイツ)
8月19日、ドイツ・バーデンでのベルグレンネンにアルファロメオ・モンツァで参戦中事故死。 |
1934年8月15日 |
ギ・モル
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ペスカーラ |
(フランス)
ペスカーラでのコッパ・アチェルポで事故死。
アルファロメオ・ティーポB・2900で参戦していたギ・モルが、メルセデスのエルンスト・ハーネと狭い路地で争い、接触したのち側溝に飛び込んで四散し脇の家の壁に再び激突した。モルは車外に投げ出されて死亡した、
事故時の時速は220km/hと伝えられている。享年24歳 |
1934年7月22日 |
ロイド・ビュー |
スプリントレース アメリカ |
(アメリカ)
7月22日、アトランタでのスプリントレース「アトランタIMCAレース」にビュースペシャル・クレイガーで出走。同僚トミー・スウェイラーから引き継いだばかりの周で事故を起こし死亡した。享年33歳。 |
1934年7月15日 |
バート・カルナッツ |
スプリントレース アメリカ |
(アメリカ)本名アルバート・カルナッツ。
7月15日、ミシガン州デトロイトでのスプリントカー・レース「デトロイトIMCAレース」にテリー・ヒスパーノで参戦。接戦中にウィンディ・ジェニングスのマシンに追突され、横転して大破した。カルナッツは首の骨を折りその場で死亡。享年29歳。 |
1934年7月 |
ジャン・ゴーピヤー |
デイエップGP |
(フランス)
デイエップGPで事故死。
1907〜1913年に幾多の死亡事故を展開したこのコースは、改修もほとんど行なわれずに再び非難の的となった。 |
1934年5月24日 |
ジョン・ホールズワース |
グランプリレース |
(イギリス)本名ジョン・ロサール・ホールズワース。
6月24日、英国ブルックランズでのグランプリレース「ブリティッシュ・エンパイア・トロフィー」にブガッティT35で出走。31周目に接触事故で横転し木製の壁に激突して大破、頭蓋骨骨折で同日夜に死亡した。 |
1934年6月10日 |
ジョー・ルッソ |
インディカー |
(アメリカ)
6月10日、ウィスコンシン州ミルウォーキーでのインディカー・レースにデューセンバーグで出走中事故死。享年32歳。インディ500は通算4度出場していて、死亡事故の10日前の同年のインディでは自身最高位となる5位入賞を果たしていた。 |
1934年6月3日 |
エミール・フランクル |
ニュルブルクリンク |
(オーストリア)
6月3日、ニュルブルクリンクでのアイフェルレンネンにブガッティT35Bで出走中事故死。 |
1934年5月25日 |
ピーター・クライス
ロバート・ハーン(同乗メカニック)
|
インディ500 |
(共にアメリカ)
インディ500のプラクティス中に第3ターンで外壁を飛び越え立ち木に激突、車が二つに引き裂かれて死亡。同乗メカニックのロバート・ハーンも裂けた車体に身体を突き刺されるという悲惨な状態で死亡した。
ピーター・クライスは享年33歳。インディ500には6回の出場経験があり1925年には8位を記録。1932年にもクラッシュを経験している。 |
1934年5月20日 |
ジョバンニ・アロアッティ |
タルガ・フローリオ |
(イタリア)
5月20日、イタリアでのタルガ・フローリオにブガッティT51で参戦中、他車と接触しコースを外れ、パレルモ近郊の橋の下に転落。重傷を負い、20日後の6月9日に死亡。享年不明。 |
1934年5月13日 |
エリック・ローラ
観客4名
|
ヒルクライム |
(フランス)本名オーギュスティン・コチン
「エリック・ローラ」は彼が海役軍人として所属していた際の通称。
5月13日、フランス・フォンテンブローでのヒルクライム・レース「コルス・ド・コート・デ・フォンテンブロー」にブガッティT35Cで出場。走行中にコースを歩いている犬を発見し回避したものの、コントロールを失って観衆の中に飛び込み、観客の女性4人とともに死亡した。享年28歳。 |
1934年5月7日 |
チャーリー・イェレン |
速度記録 |
(オーストリア)
ドイツのミュンヘンでアウトバーンを使用した速度記録テストにアルファロメオ8Cに乗って参加し、直線走路を全開で疾走中に車体の歪みから操縦
不能に陥りコース脇に激突、車外に投げ出され死亡。享年25歳。 |
1934年4月22日 |
カルロ・ペドラッツィーニ |
グランプリレース |
(スイス)
イタリア・アレッサンドリアで開催された非選手権のグランプリレース「シルクイット・ディ・ピエトロ・ボルディーノ」(1928年に事故死したイタリアの英雄の名を冠したレース)にマセラティ8CMで出走、橋の欄干に激突して宙返りを演じ、コース上に叩きつけられて死亡。享年24歳。
なお、このレースでは同僚のエース、ヌボラーリも事故で足を骨折している。 |
1934年4月12日 |
アル・レインク |
テスト |
(アメリカ)
カリフォルニアでタルガ・フローリオの練習としてインディカーに乗り走行中、タイヤの脱落から横転して死亡。享年22歳。 |
1934年3月4日 |
アーニー・トリプレット
|
エル・セントロ |
(アメリカ)
エル・セントロで事故死。享年27歳。
インディ500にも5回の出場経験が有り、1931年には7位を記録している。 |
1933年10月8日 |
グイード・ディッポリート |
テスト |
(イタリア)
メリディオナーリで試作車試走中に事故死。 |
1933年9月10日 |
ジュゼッペ・カンパーリ
Giuseppe Campari
(イタリア)
バコーニン・ボルザキーニ(イタリア)
スタニスラス・チャイコフスキー伯爵(ポーランド)
|
モンツァGP |
2ヒートレースの2ヒート目、バンクに散乱したオイルに滑り、次々とクラッシュ。立て続けにカンパーリとボルザキーニにの2人のドライバーが死亡するという大事故が発生した。さらにレース再開後、同じ地点でチャイコフスキー伯爵のマシンのエンジンが火を噴き炎上。チャイコフスキー伯爵は焼死した。
カンパーリ享年41歳、ボルザキーニ享年34歳、チャイコフスキー伯爵享年34歳。
(画像はアントニオ、シボッチと並ぶ「アルファの三傑」といわれたカンパーリ)
詳細ページ;1933年モンツァの悲劇 |
1933年5月7日 |
サー・ヘンリー・バーキン |
トリポリGP |
(イギリス)
1929年・1931年のルマン24時間を制し、時のジョージ5世より「サー」の称号を授与されたドライバー。
5月7日、メラハでのトリポリGPで炎上事故に遭遇。昏睡状態が続いたものの46日後の6月22日に死亡した。 |
1933年.5月30日
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マーク・ビルマン
レスター・スパングラー
G.L.ゴードン(同乗メカニック)
|
インディ500 |
レスター・スパングラー(ミラー・ミラー/No.15)7番手、 マーク・ビルマン(ケンプ・デューセンバーグ/No.64)22番手からのスタート。
79周目、クラッチ不調でスローダウン走行していたジョニー・ソーヤー(レンキ・ミラー/No53)をビルマンが避けようと外壁に激突、頭部打撲で死亡した。享年27歳。
さらに終盤にさしかかった132周目にはバックストレートでマルコム・フォックス(リチャーズ・スチュードベーカー/No.57)、ウェズリー・クロフォード(スティーヴンス・ミラー/No.32)、そしてレスター・スパングラーを含む多重事故が発生。スパングラーは激突ののちコース上を二転三転、壁に激突した時点で車体前部は著しく圧縮されており全身強打により即死となった。また、享年27歳。また、この事故でスパングラーの同乗メカニックであるG.L.ゴードンも共に死亡している。
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1933年5月28日 |
ビル・デンバー
ボブ・ハースト(同乗メカニック)
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インディ500 |
(アメリカ)
愛称オーレム。インディ500のウォームアップ走行中に第1ターンで事故死。同乗メカニックのボブ・ハーストも運命を共にした。 |
1933年5月21日 |
ギ・ブーリア |
ピカルディーGP |
(フランス)
ベロンヌでのピカルディーGPで事故死。
前日のトランティニアンに続き、地元の有力選手二人が続けてて死亡する惨事となった。 |
1933年5月20日 |
ルイ・トランティニアン |
ピカルディーGP |
(フランス)
5月20日、ベロンヌでのピカルディーGPの予選走行中に事故死。 |
1933年5月中旬 |
オットー・メルツ |
練習走行 |
(ドイツ)
5月中旬、アヴスレンネンでベンツSSKLを練習中、コースアウトした後付近にあった小屋と、側に停まっていたトラックに次々と衝突して死亡。 |
1933年5月7日 |
サー・ヘンリー・バーキン
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トリポリGP |
(イギリス)
1929年・1931年のルマン24時間を制し、時のジョージ5世より「サー」の称号を授与された。
5月7日、メラハでのトリポリGPで炎上事故に遭い、昏睡状態が続いたものの46日後の6月22日に死亡。 |
1933年4月16日 |
ボブ・カレイ |
練習走行 |
(アメリカ)本名ロバート・カレイ。
4月16日、アスコットで練習走行中にスロットルの故障から事故死。マシンはライオンヘッド・スペシャル・ミラー。享年28歳。 |
1932年12月7日 |
アメデオ・ルッジェーリ |
速度記録会・モントレー |
(イタリア)
モンレリーで速度記録挑戦中に突風を受けマシン(マセラティV5)が分解し死亡。 |
1932年9月11日 |
マルセル・リスター |
アンティブ |
(フランス)
アンティブで開催されたヴォアチュレット選手権第17戦(最終戦)「シルキット・デュ・カプ・ド・アンティブ」にマセラティ26で参戦。スタート直前に傾斜のついたコーナーで転覆し、頭部を路面に強打し死亡。享年29歳。
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1932年 秋 |
クライブ・ダンフィー |
ブルックランズ |
(イギリス)
ブルックランズでのBRDC500マイルレースで上位走行中に死亡。
他車を抜こうとした際、バンク上方の壁に激突、それを飛び越えて木に激突したという事故で、ダンフィーはマシンから投げ出されたが、激突してもなお車は暴走し、観客の車が停めてある駐車場まで達し、そこで数台の車をも壊したという。 |
1932年5月27日 |
ミルト・ジョーンズ |
インディ500 |
(アメリカ)
インディ500のプラクティス中に第1ターンで事故死。マシンはミラーだった。
インディ500には1925年にも一度出場しており、21位(33周トランスミッション)という成績だった。 |
1932年5月27日 |
H.J.フォン・モルゲン
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テスト |
(ドイツ)ハインリッヒ・ヨアヒム・フォン・モルゲン。
ニュルブルクリンクでのアイフェルレンネンでブガッティT51を練習走行中事故死。
享年30歳。 |
1932年5月26日 |
ベニー・ベネフィールド |
インディ500 |
インディ500のプラクティス中、ベニー・ベネフィールドの操るマシンが第2ターンで外壁を飛び越えて立ち木に激突。ドライバーのベニー・ベネフィールドは重傷を負い、同乗メカニックのハリー・コックスは死亡した。 |
ハリー・コックス(同乗メカニック) |
1932年5月22日 |
G.K.ロブコウィッツ皇太子 |
アヴスレンネン |
(チェコスロバキア)本名ゲオルグ・クリステン・ロブコウィッツ。
5月22日、アヴスレンネン〔レンネンはドイツでGPと同様の意味〕にブガッティT51で参戦。1周目の直線走行中、同型車のハンス・ルーイと接触して転覆、事故死した。享年25歳。 |
1932年5月22日 |
H.J.フォン・モルゲン |
ニュルブルクリンク |
(ドイツ)
ニュルブルクリンクでのアイフェルレンネンの練習走行中事故死。 |
1932年5月中旬 |
ミルト・ジョーンズ |
インディ500 |
(アメリカ)
5月中旬、インディ500のプラクティス中に事故死。 |
1932年 |
アンドレ・ボワロ |
ラ・シャルトル・ヒルクライム |
ラ・シャルトル・ヒルクライムの練習中に事故死したとのみ伝わる。享年は40歳。インディ500にも3回の出場経験有り。また、1919年のタルガ・フローリオをプジョーに乗り優勝したという記録も残る。 |
1931年9月12日 |
ジミー・グリーソン
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(アメリカ)
シラキュースで事故死。マシンはデューセンバーグだった。享年33歳。 |
1931年5月26日 |
ジョー・カッシア |
インディ500 |
(アメリカ)
インディ500にジョーンズ&マレー・デューセンバーグで参戦。プラクティス中に事故死。享年32歳。
インディ500には前年に続いての2年連続の出場で、前年は24位(43周クラッシュ)という結果だった。 |
1931年5月23日 |
ルイジ・アルカンジェリ |
イタリアGP・モンツァ |
(イタリア)
5月23日、モンツァでのイタリアGPにアルファロメオ12Cティーポ・モノポ
ストでで参戦。予選中にヴィアローネ・カーブ(アスカリ・シケイン)で木に衝突し、車から投げ出されて死亡した。享年29歳。 |
1930年12月14日 |
ケニー・モーガン |
アメリカ(カリフォルニア) |
(アメリカ)
カリフォルニアでのアスコット・レースに出場中、炎上事故を起こして転覆した車の中で死亡。享年、マシン共に不明。 |
1930年10月15日 |
リン・エルドリッジ |
アメリカ(カリフォルニア) |
(アメリカ)
10月15日、カリフォルニアでのアスコット・レースにフロンテナクで出場中事故死。享年32歳。
これから5年後に兄も事故死する。 |
1930年8月16日 |
チャールズ・バーマン |
インディカー アメリカ(イリノイ) |
(アメリカ)愛称ダッチ。
イリノイ州カンカキーでのインディカー・レース「カンカキー・レース」に出場、1周目の事故で重傷を負い、二日後の18日に死亡。享年33歳。
インディ500には1927年の大会に出場しており、90周目にピニオン・シャフトの破損でリタイアという記録が残る(成績上は20位)。 |
1930年8月10日 |
テディ・グラモン |
グランプリ・カー |
(フランス)
フランス・グルノーブルでのグランプリ・カーレース「シルク・ド・ダフィン」にブガッティ35Bで出場中事故死。享年24歳。 |
1930年7月27日 |
ボブ・ロビンソン
観衆(親子)
|
アメリカ(ニュージャージー) |
(アメリカ)
ニュージャージー州ウッドブリッジでの「ウッドブリッジ・レース」にデューセンバーグで出場中、他車がパンクのためコントロールを失い彼の車に衝突、ガードレールに押しつぶされるように激突して、それを突き破りコース外で大破した。この事故でロビンソンと、観衆の中の3歳の少年とその母親も巻き込まれて死亡している。 |
1930年4月27日 |
アメデオ・シリッティ男爵 |
イタリア |
(イタリア/画像)
ジーロ・ディ・シチリアにブガッティ2300で出場、カタニアという地点で路上に盛り上がっていた石に躓き横転、路面に頭部を強打して即死した。享年不明。同乗していた彼の妻は軽傷で済んでいる。事故は深夜走行中に発生した。
※画像は事故直前、出発点のパレルモで記念撮影をするシリッティ男爵とその妻です。 |
1930年4月13日 |
エンリコ・ベニーニ |
ミッレ・ミリア |
(イタリア)
ミッレ・ミリアにアルファロメオ6C/1750SSスパイダーで出場、シエナ地方のブオンコンベントという地点で橋の欄干に激突して死亡。享年25歳。
歴史上初のミッレ・ミリアでの事故死者。(観客は除く) |
1930年3月23日 |
ケニー・ストッダード |
アメリカ(カリフォルニア) |
(アメリカ)本名ジョージ・ケネス・ストッダード。
カリフォルニアでのアスコット・レースにフロンテナクで出場、他車との接触で横転し車外に投げ出されて死亡。享年23歳。 |
1930年3月22日 |
レオナルド・ヘッドラム |
フォーミュラ・リ
ブレ |
(イギリス)
英国ウェイブリッジでのフォーミュラ・リブレ・レース「ブルックランズ・ミーティング」にドラージュで出場中事故死。享年不明。
※画像は左の立っている人物がヘッドラム。 |
1930年3月22日 |
ガストーネ・ブリッリ・ペーリ伯爵 |
テスト |
(イタリア)
メラハでのトリポリGPに向けた練習走行中に事故死。 マシンはタルボ700だった。リビアのスーエルジウマという村の近くで発生した
事故は左カーブ旋回中に路面の凹凸で跳ね横転したもので、脇のフェンスに激突して大破、ほぼ即死だった。享年36歳。 |
1920年代 |
1929年10月27日 |
ジョニー・ローラー |
アメリカ(ニュージャージー) |
(アメリカ)
ニュージャージー州ウッドブリッジでのローカルレースに出場中事故死。マシン、享年ともに不明。 |
1929年9月21日 |
バクラブ・ホラク |
ヒルクライム |
(チェコスロバキア)
9月21日、母国ストラムベックでのヒルクライム・レース「エセホモ・ヒルクライム」にブガッティ35Bで出場中に事故死。享年不明。 |
1929年7月6日 |
フレディ・シャーリエ |
スパ24時間 |
スパ・フランコルシャン24時間で交代間際のクラッシュで死亡。マシンはブガッティ。享年39歳。記録に残るスパ24時間での初の事故死者。 |
1929年7月4日 |
エド・グリス |
インディカー インディアナポリス |
(アメリカ)本名エドワード・グリス。アフリカ系アメリカ人。
7月4日、インディアナポリスでのインディカー・レース「ゴールド&グローリー100」にフロンテナクで出場、27周目に事故死。享年36歳。 |
1929年6月15日 |
レイ・キーチ |
テスト |
1929年のインディ500をミラーで優勝。しかし。インディ500を制したわずか2週間後、アルトゥーナでの「アルトゥーナ200」で事故死。享年28歳。マシンは単座の
ミラーだった。
画像は、優勝したこの年のインディ500出走時のもの
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1929年5月30日 |
ビル・スペンス |
インディ500 |
デューセンバーグで参戦したインディ500の決勝14周目に第2ターンの内壁に激突して投げ出され、病院搬送中に死亡。このレースが初のインディ出場だった。(画像はINDY500参戦時のもの) |
1929年4月29日 |
エルンスト・ギュンター・フォン・ベンゼル |
グランプリカー・
レース |
(ドイツ)本名はエルンスト・ギュンター・フォン・ベンゼル・モソー
ドイツ・スチューデルでのグランプリカー・レース「ベルグレンネン・フォン・スチューデル」にメルセデスで出場、ゴールした(順位不明)後にクラッシュして死亡。享年不明。
1926年のリージェンバーグレンネン(ヒルクライム)で優勝経験がある。 |
1929年3月13日 |
リー・バイブル
チャールズ・トラウブ(カメラマン)
|
速度記録会 |
(アメリカ)
デイトナ・ビーチで速度試験用の6輪車トリプレックスで速度記録挑戦中、砂丘に乗り上げた車体が転覆して死亡。享年42歳。この際、記録映像用に撮影していたカメラマンのチャールズ・トラウブも事故の破片を受け死亡している。
大破したバイブルのトリプレックスの画像
余談ではあるが、この事故で救助にあたったヘンリー・セグレーブ(英国系アイルランド)はこの事故を契機に路上での挑戦を諦め、水に活路を求めた。しかし、1930年6月13日に英国ウィンダーメア湖での「ウォーター・スピード・レコード・アテンプト」、いわゆるモーターボートの速度記録挑戦会にミス・エルグランドUで出場、時速240km/hに到達した地点で転覆し死亡している。(享年33歳)
|
1928年10月12日 |
フレッド・コマー |
テスト |
(アメリカ)
サレムでの「インターナショナル・モーター・クラシック」にミラーFD・ボイル・バルブで参戦。50周目(決勝200周)に事故を起こした際後続から受けた二次災害が致命傷となり死亡した。享年32歳。
インディ500ににも4回の出場経験がある |
1928年9月9日 |
エミリオ・マテラッシ |
モンツァ イタリアGP(非選手権) |
記念すべき初のモンツァのこけら落としは、悲劇から始まった。
モンツァでの「グラン・プレミオ・ディ・イタリア・エ・ド・エウロパ」で前車(ブガッティ35Cのジュリオ・フォレスティ)を抜こうとしたタルボ700を駆るエミリオ・マテラッシ(イタリア)が接触、コース脇の土手に激突、観戦していた群集に突っ込んだ後、側溝に落下した。この際、観客27人も巻き込まれて死亡し、重軽傷者も12人という大事故となった。(事故状況には推測が含まれています。今後新しい情報があれば更新します)
マテラッシの事故現場の画像 |
1928年8月19日 |
ハルドレイヒ・ヒューザー
オットー・フェルドマン(同乗メカニック)
ヨゼフ・メルツ(同乗メカニック)
|
スポーツカー・レース スイス |
8月19日、スイスでの非選手権スポーツカー・レース「バックオワー・ドレイエック・レンネン」にハルドレイヒ・ヒューザーはブガッティT35Bで出走。ヒューザーがベンツのルドルフ・カラチオラを追走中にアイヒマンのアミルカーと接触してコースアウトし土手に激突、そこにあった巨石や立ち木に次々と衝突し大破した。この事故でアイヒマンの同乗メカニックであるヨゼフ・メルツ、そしてヒューザーの同乗メカニックのオットー・フェルドマンが即死。ヒューザーは頭蓋骨と肋骨を骨折し、翌20日に病院で死亡した。
ハルドレイヒ・ヒューザー(スイス)享年不明。 |
1928年7月15日 |
セネク・ユネク
エルンスト・フォン・ハレ
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スポーツカー ドイツGP |
セネク・ユネク(チェコスロバキア)がニュルブルクリンクでのドイツGPで多重事故に巻き込まれ死亡。頭部を木にぶつけたのが致命傷となった。
またユネクと共に多重事故に巻き込まれたエルンスト・フォン・ハレ(ドイツ)も重傷を負い、数日後に
死亡した。享年23歳。マシンはアミルカーだった。 |
1928年4月25日 |
フランク・ロックハート |
速度記録会・ディトナ・ビーチ |
(アメリカ)
デイトナ・ビーチで速度記録挑戦中に事故死。享年25歳。マシンは専用のスタッズ・ブラックホークだった。
1926年のインディ500レースで優勝を記録している。 |
1928年4月15日 |
ピエトロ・ボルディーノ
ジョバンニ・ラザーニア(同乗メカニック)
|
テスト |
ピエトロ・ボルディーノ(イタリア)
アレッサンドリアでブガッティ35Bを試走中に事故死。享年40歳。
事故は飛び出した犬を跳ねて操縦不能となり、クラッシュしたもの
で、病院搬送中に死亡した。また、同乗メカニックのジョバンニ・ラザーニアも同様の運命を辿っている。
事故現場はサン・ミッシェルの村付近で、ボルディーノが次走参戦予定だったレースが「シルクイット・デ・アレッサンドリア・ピエトロ・ボルディーノ」と彼を追悼するレース名に変更されたという。 |
1927年7月2日 |
ジェラール・ド・コルスレ |
グランプリ・カー フランス |
(フランス)
フランス・モンレリーでのグランプリ・カーレース「コルス・ド・フォーミュラ・リブレ」にギョー・シュミットで出走中事故死。享年不明。
1925年のル・マン24時間ではアンドレ・ロシニョールと組み優勝している。(画像は1925年ル・マン24時間出走時のもの) |
1927年6月29日 |
ニック・ググリエルミ
ジャック・プチコード
J.D.コンウェル(警備員)
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アメリカ(カリフォルニア) |
カリフォルニアでのアスコット・レース中、ニック・ググリエルミのマシンに、他車が追突し、2台ともコースアウト。観衆の中に飛び込んだ。この事故でニック・ググリエルミともう一方のドライバー、ジャック・プチコード、そして警備員のJ.D.コンウェルの三人が死亡、観衆三人が重軽傷を負う。
ニック・ググリエルミ(アメリカ)享年21歳。本名ニコラス・ググリーエルモ。 |
1927年5月15日 |
マリオ・サエッティ |
スポーツカー・レース イタリア |
(イタリア)
5月15日、イタリア・サヴィオでのスポーツカー・レース「シルクイット・デル・サヴィオ」に出走中事故死。 |
1927年5月8日 |
ルネ・デ・ブック |
スポーツカー・レース |
(ベルギー)
シメイでのスポーツカー・レース「グランプリ・ド・フロンティエール」にインペリアで出走中事故死。 |
1927年4月17日 |
ダド・ルドウィック |
アメリカ(カリフォルニア) |
(アメリカ)
カリフォルニアでのアスコット・レースにフロンテナクで出走中事故死。享年20歳。 |
1927年3月3日 |
J.G.パリー・トーマス |
速度記録会 |
(イギリス)ジョン・ゴッドフリー・パリー・トーマス。
ペンダイン・サンズでの速度記録に記録挑戦用のベイブ・スペシャルで参加。記録抽選中にタイヤの脱落と波打ち際に蛇行したため足をとられての転覆し死亡。享年41歳。
後にベイブ・スペシャルは1984年に復元された。
関連ページ:1927年J.G.パリー・トーマス&ベイブ・スペシャル |
1927年1月8日 |
フィル・ガーリック |
フォーミュラ・リブレ |
(オーストラリア)
シドニーでのフォーミュラ・リブレ部門「マロウブラ・レース」にアルビスで出走中事故死。享年不明。
(画像は一番左がガーリック) |
1926年10月22日 |
マリウス・ブレトン |
速度記録会 |
(フランス)
フランス・モンレリーの速度記録挑戦会にパナール・レーム・ド・ラジョールで走行中事故死。享年31歳。 |
1926年9月6日 |
ルー・シェイベル |
アメリカ(アイオワ) |
(アメリカ)
アイオワ州ウエストバーミンガムでの「シダーラピズIMCA」にシェイベル・ヒスパーノ・スイザで出走、コースアウトし公衆電話の支柱に激突して大破、病院に搬送された後死亡。享年37歳。 |
1926年5月15日 |
A・V・ターナー |
ヒルクライム オーストラリア |
(オーストラリア)本名アルバート・バレンタイン・ターナー。
シドニー・ハルボードでのヒルクライムレースにブガッティ30で出走中、コースアウトしキャッチネットの杭に頭部を強打、翌16日に死亡した。享年39歳。 |
1926年5月15日 |
ハーバート・ジョーンズ |
インディ500・予選 |
インディ500の予選走行中に第4ターンで事故死。前年に初めてインディ500マイルレースに出場し、19位(69周クラッシュ)という不本意な成績で、再起を賭けた矢先の事故だった。 |
1926年4月25日 |
ジュリオ・マゼッティ伯爵 |
タルガ・フローリオ |
(イタリア)
タルガ・フローリオにドラージュ2LCVで参戦。スタートしてまもなくブレーキの故障から横転、車体の下敷きになり死亡した。同レースでの初の事故死者。 |
1925年11月29日 |
レイ・カリエン |
インディカー |
(アメリカ)
ロサンゼルスでのインディカー・レース「ロサンゼルス250」にミラーで出場、他車との接触により外壁に激突し死亡。享年25歳。 |
1925年10月30日 |
ビック・スプーナー |
インディカー |
(アメリカ)
米国ニューハンプシャー州セーラムでのインディカー・レース「セーラム250」にミラーで出場し、その練習走行中に事故死。享年不明。 |
1925年9月19日 |
ポール・トルシー |
サン・セバスチャンGP |
(フランス)
9月19日、サン・セバスチャンGP「グラン・プレミオ・デ・サン・セバスチャン」でドラージュ2LCVで参戦。前を行くジュリオ・マゼッティ(翌年事故死・上記参照)を抜こうとしての接触から立ち木に激突し、事故死した。 |
1925年8月9日 |
オネシモ・マルチシオ |
ツーリングカー イタリア |
(イタリア)
8月9日、イタリア・ピエモンテでのツーリングカー・レース「サリタ・キュネオラ・マダレータ」にディアトで出場中事故死。享年不明。 |
1925年7月26日 |
アントニオ・アスカリ |
フランスGP(モンレリー) |
(イタリア)
モンレリーでのフランスGPで雨の中、首位走行中の23周目にコースを外れ、木製フェンスを50mにわたってなぎ倒しフェンスの鉄条網がホイールを噛んで激しく横転。救急車で搬送中に死亡。享年36歳。
後のF1チャンピオンとなったアルベルト・アスカリの父親であった。
(画像は1921年のもの) |
1925年6月20日 |
マリウス・メスティヴィエ |
ル・マン24時間 |
本名マリウス・ジョージ・メスティヴィエ。
ルマン24時間耐久レースにアミルカーで参戦。ミュルサンヌでの横転事故により死亡した。ルマン24時間の歴史の中で初の事故死者となる。 |
1925年6月14日 |
ヘンリー・ビール |
アメリカ(カリフォルニア) |
(アメリカ)
6月14日、カリフォルニア州サンホセでのレースで
事故死。享年不明。 |
1925年4月26日 |
エデュアルド・ルロ |
アルゼンチン |
(アルゼンチン)
4月26日、母国コルドバでの「プレミオ・アウダクス」にスタッズで出場中事故死。享年25歳。 |
1924年10月25日 |
アーニー・アンスターバーグ |
テスト |
シャーロットで「シャーロット250」に出走する前の練習走行中に事故死。マシンは単座のデューセンバーグ。享年33歳。 |
1924年10月19日 |
ルイス・ツボロウスキー伯爵 |
イタリアGP・モンツァ |
(イギリス)
モンツァでのイタリアGPで木に衝突する事故で死亡。享年29歳。
画像は彼が当時の仲間と写した一枚で、左側よりマココ・アルザガ、ツボロウスキー伯爵、ロドリゲス・ラッレータ、クライブ・ギャロップ
|
1924年9月15日 |
ジミー・マーフィー |
アメリカ |
(アメリカ)
シラキュースでAAA主催のレースにエントリー、単座のミラーで走行中スリップにより内側木製フェンスに側面から激突、それを突き破った際フェンスの破片が身体に刺さる形となり、胸部を損傷した事が致命傷となり死亡。享年30歳。
1922年のインディ500優勝者だった。 |
1924年9月3日 |
ダリオ・レスタ |
速度記録 |
ダリオ・レスタ(イタリア)
ブルックランズで速度記録会にサンビームで挑戦。タイヤの破裂によりフェンスに激突する事故が発生し、ドライバーのダリオ・レスタが死亡し、同乗メカニックのビル・パーキンズも重傷を負った。ダリオ・レスタは享年44歳。1916年のインディ500で優勝している。
(写真はダリオ・レスタ)
|
ビル・パーキンズ(同乗メカニック) |
1924年9月1日 |
ジョー・ボイヤー |
テスト |
アルトゥーナでの「アルトゥーナ250」にデューセンバーグで参戦。木の柵に突っ込むクラッシュで車体とともに両足が潰れ、救出の際に両足を切断する事となり、その最中に出血多量で死亡した。享年34歳。
ボイヤーはこの年、INDY500でをロラ・コーラムからマシンを引き継いで優勝をしたばかりだった。 |
1924年8月23日 |
アージュ・ボルク・クラウゼン(警備) |
速度記録会 デンマーク |
(デンマーク)
デンマークのファーネ島で行われた速度記録会で、マルコム・キャンベルの乗るサンビーム・ブルーバードの車輪が脱落。ドライバーのキャンベルに大きな怪我はなかったものの、警備に参加していた15歳のボーイスカウトであるアージュ・ボルク・クラウゼンがホイールの直撃を受け死亡した。
ドライバーのキャンベルはその後1928年に時速338km/hを記録して当時世界最速の称号を得るが、そのスタートは不幸な出来事から始まった事になる。 |
1924年6月9日 |
ジャック・トープ |
グランプリカー イギリス |
(イギリス)本名ジェームス・アルジェノン・トープ。大尉の軍位を
持つ。
英国ウェイブリッジでのグランプリカー・レース「BOACロングハンデキャップ」にプジョーEX5で参戦。バンクのついたコーナーの外に飛び出す事故で死亡。享年41歳。 |
1924年2月3日 |
ノリス・シェアーズ
ジミー・クラフト(同乗メカ
ニック)
|
アメリカ(カリフォルニア) |
(アメリカ)
カリフォルニア州でのアスコット・レースにフロンテナクで出場中、転覆事故を起こし重傷を負い、3月2日に死亡。享年不明。なお、同乗メカニックのジミー・クラフトはこの事故で即死している。享年26歳。 |
1923年9月8日 |
ウーゴ・シボッチ |
イタリアGP |
(イタリア)
モンツァでのイタリアGPにアルファロメオのP1で参戦。プラクティス走行中にヴィアローネ・カーブ(現アスカリ・シケイン)での転覆事故で事故死した。享年38歳。
アスカリ、カンパーリと共に「アルファの三傑」といわれた
|
1923年9月4日 |
ハワード"ハウディ"・ウイルコックス |
テスト |
(アメリカ)
アルトゥーナで開催された「アルトゥーナ200」にデューセンバーグ・ミラーで参戦、事故死。34歳。
インディ500の初開催から11回の出場経験を持つベテランで、1919年には優勝している。 |
1923年8月27日 |
エンリコ・ジャコーネ(同乗メカニック) |
モンツァ |
(イタリア)
モンツァでピエトロ・ボルディーノの同乗メカニックとして参加した練習走行中に横転事故による全身打撲で死亡。享年33歳。
マシンはフィアットだった。 |
1923年7月4日 |
フランク・ロリンズ |
インディカー |
(アメリカ)
カリフォルニア州サンルイス・オビスポでのインディカー・レース「サンルイス・オビスポ・レース」にデューセンバーグで参戦中事故死。享年不明。 |
1923年6月14日 |
エバシオ・ランピアーノ |
ヒルクライム フランス |
(イタリア)
フランス・ジュラでのヒルクライム・レース「コルス・ド・コート・デュ・ル・ファシル」にフィアットで参戦、その練習走行中にコースを外れ堤防に激突、転覆して死亡。享年35歳。1921年までは
同乗メカニックの仕事についていた。 |
1923年5月30日 |
バート・ショープ(観客)
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インディ500 |
5月30日、インディ500決勝12周目のバックストレッチでトム・アレーがクラッシュ、観客席に飛び込む事故が発生。事故当事者のアレーは無事だったが、観客のバート・ショープが死亡した。
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1923年5月4日 |
アーネスト・グルア |
フランス |
(フランス)
フランス・マルセイユでのレース「コルス・ド・コート・デュ・チャンプ」にロレイン・ディードリッヒ・ヒスパーノで参戦中事故死。享年不明。 |
1922年9月17日 |
ロスコー・サールズ |
アメリカ(カンザス・シティ) |
カンザス・シティでのローカルレース「カンザスシティ300」にデュラント・ミラーで参戦したがて事故死。享年28歳。
前年の1921年にはINDY500で2位に入賞していた。(写真は1919年のインディ500に出走した時のもの) |
1922年7月15日 |
ビアジオ・ナッツァーロ |
フランスGP |
(イタリア)
7月15日、ストラスブールで開催されたフランスGPの最終周回で事故死。享年32歳。このレースは周回距離が127kmと記録として残っている。なお、レースは皮肉にも彼の叔父であるフェリーチェ・ナッツァーロが優勝。 |
1922年5月8日 |
オットー・ヒエロニムス |
オーストリア |
(ドイツ)
オーストリアでの「ベルグレンネン・フォン・リーズ」にステイルで参戦。その予選走行中に事故死。享年42歳。20世紀初頭からレース活動をしており、1911年トリエステ・ヒルクライムで優勝したという記録が残る。 |
1921年10月1日 |
アルトン・ソールズ
ハリー・バーナー(同乗メカニック)
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インディカー |
(アメリカ)
カリフォルニア州フレズノでのインディカー・レース「フレズノ150」にフロンテナクで出場。フェンスに激突して投げ出され、同日夜に死亡した。享年28歳。
同乗メカニックのハリー・バーナーも運命を共にしている。 |
1921年8月7日 |
デビッド・ギブソン |
フォーミュラ・リブレ イギリス |
(イギリス)
英国ウェイブリッジでのフォーミュラ・リブレレース「BARCロングハンデキャップ」にバウホール1914で参戦中事故死。享年不明。 |
1921年8月 |
ウォーレス・コールマン |
ヒルクライム アメリカ |
(アメリカ)
米国コロラド州パイクスピークでのヒルクライムレースにシヴォレーで参戦、その練習走行中に事故死。享年不明。 |
1921年5月21日 |
ハーツホーン・クーパー |
イギリス |
(イギリス)
英国ウェイブリッジでの「ブルックランズ・ミーティング」にクーパー・スペシャルで参戦。その練習走行中に事故死。享年26歳。 |
1921年1月14日 |
ロベルト・バラルディ |
速度記録会 |
(イタリア)
フィレンツェでのスポーツカーによる速度記録会に参戦中事故死。 |
1921年1月12日 |
オマー・トフト |
アメリカ(フェニックス) |
(アメリカ)
アリゾナ州フェニックスでのローカル・レースに出走中事故死。享年は不明。インディ500には1919年に出場し、44周目に追突されロッドの破損でリタイアしている(成績上は28位)。 |
1920年11月25日 |
エディー・オドネル
ガストン・シヴォレー
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ビバリー・ヒルズ |
ビバリー・ヒルズでのレースで多重事故が発生。エディー・オドネル(アメリカ)も巻き込まれて死亡。享年50歳。ガストン・シヴォレー(フランス)も巻き込まれ、翌日死亡した。享年28歳。
ガストン・シヴォレーはこの年のインディ500優勝者であった。
(写真右ははエディー・オドネル)(写真左はガストン・シヴォレーで1920年のインディ500出走時のもの) |
1910年代 |
1919年5月30日 |
アーサー・サーマン
ニコラス・モリナード(同乗メカニック)
ルイス・ルコック
ロバート・バンディーニ(同乗メカニック)
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インディ500 |
インディ500初の死亡事故
アーサー・サーマン(サーマン・デューセンバーグ/No.18)
予選18番手、ルイス・ルコック(ロアマー・デューセンバーグ/ No.15)予選25番手からスタートを切ったが、まず44周目にサーマンがルイ・ワグナー(アーネスト・バロー/No.34)とオマー・トフト(ダルコ・ミラー/ No43)に追突して外壁を飛び越えマシンは炎上、死亡した。アーサー・サーマン享年40歳。
さらに96周目にはルコックが単独で第4ターンを曲がり切れず
外壁に激突転覆、投げ出されて即死した。ルイス・ルコック享年27歳。
また、サーマンの同乗メカニックのモリナード、ルコックの同乗メカニックバンディーニも同時に死亡している。ロバート・バンディーニ享年21歳。
(画像は1919年インディ500に出走した時のサーマンとメカニックのニコラス・モリナードのコンビ)
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1919年5月15日 |
ウォルター・メルチャー |
インディ
カー |
(アメリカ)
カリフォルニア州サンタモニカでのインディカー・レース「サンタモニカ250」に単座のハドソンで参戦。最初の周回で事故を起こし死亡。享年25歳。 |
1919年2月23日 |
ジョセフ・クリスチャン |
インディカー・サンビーム |
(ベルギー)
英国ウォルバーハンプトンでインディカー・サンビームのテスト走行中に事故死。享年不明。
インディ500は通算2回出場しており、1914年…6位、1916年…4位。 |
1916年12月2日 |
フランク・ガルビン
ヒューイ・ヒューズ
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インディカー |
アイオワ州ユニオンタウンでのインディカーレース「ユニヴァーサル112」にフランク・ガルビン(アメリカ)はプレミア、ヒューイ・ヒューズ(アメリカ)はホスキンスで参戦。75周目の接触事故で観客席の柵に2台とも突っ込み炎上し死亡した。観客に重軽傷者は出たものの犠牲者は出なかった。また、一人乗りのレースのため同乗メカニックいなかった。ガルビン享年不明、ヒューズ享年30歳。
ヒューズは2回のインディ500経験があり、1911年…12位、1912年…3位という結果を残している。 |
1916年11月18日 |
ルイス・ジャクソン
観客・カメラマン他
|
インディカー |
(アメリカ)
下記のホースマンと同様のレースにマーモンで参戦。コースアウトした車が近くのレモネード売り場の屋台に衝突し、ルイス・ジャクソンと、見物人のハロルド・エジントン、カメラマンのレナ・ジェンキンスとその妻が巻き込まれ死亡した。ジャクソン享年24歳。同乗メカニックの
マッコール・ハニンガンは無事だった。 |
1916年11月 |
H−J・ホースマン |
インディカー |
(アメリカ)
11月、カリフォルニア州サンタモニカでのインディカーレース「アメリカンGP」にマーサーで出走、その予選走行中に事故死。享年不明。 |
1916年8月8日 |
ボブ・バーマン
エリック・シュレーダー(同乗メカニック)
W-H・スピアー(警備員)
|
コロナ |
8月8日、コロナで練習中に事故死。享年32歳。
コースは、競馬場を使用したロードコースで、マシンはプジョーだった。
この事故でバーマンをはじめ、同乗メカニックのエリック・シュレーダー、コース警備員のW-H・スピアーが死亡。観衆に飛び込んだため15人の見物人が重軽傷を負う事態となった。
画像はボブ・バーマン(1915年のレース時のもの) |
1916年5月3日 |
カール・リンバーグ
ロキシー・パロッティ(同乗メカニック)
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スポーツカー |
(アメリカ)
ニューヨーク州ブルックリンベイでのスポーツカー・レース「メトロポリタン150」にドラージュで参戦し事故死。同乗メカのロキシー・パロッティも死亡。享年不明。 |
1914年8月22日 |
スペンサー・ウィシャート
ジャック・ジェンター(同乗メカニック)
|
エルジン・ナショナル・トロフィーレース |
(アメリカ)
エルジン・ナショナル・トロフィーレースで、ウィシャートのマシン(マーサー)が車輪の脱落から観衆の中に飛び込むという事故が発生。ウィシャートは死亡した。享年24歳。
観衆にマシンが飛び込むという事故であったにもかかわらず、幸いにも観衆に死者は出ず、身体の上を通過された一人の観客も骨折はしたものの命はとりとめた。
なおウィシャートと同乗メカニックのジャック・ジェンターはそれより先に車外に投げ出されており、その際死亡したものとみられる。
ウィシャートはインディ500にも4回の出場経験があり、1913年には2位に入っている。 |
1913年10月28日 |
パーシー・ランバート |
速度記録会 |
(イギリス)
ブルックランズで速度記録挑戦中に風圧で車体が分解し死亡。享年32歳。マシンはタルボ25HPの4.5リットル車だった。
英国の軍人でもあり、大尉の称号がある。 |
1913年9月5日 |
ハリー・エンディコット |
インディカー |
(アメリカ)
9月5日、ミシガン州ジャクソンでのインディカー・レース「ジャクソン・レース」予選中に事故死。享年不明。
インディ500は通算2回出場し、1911年…16位、1913年…21位(23周トランスミッション) |
1913年8月 |
ロジャー・スターンズ |
ストックカー |
(アメリカ)
8月、カリフォルニアでのストックカー・レース「ロスアンジェルス&サンディエゴ・リライアビリティラン」に出走中事故死。享年不明。 |
1913年7月4日 |
ハリー・ナイト
ミルトン・マッカリス(同乗メカニック)
|
インディカー |
(アメリカ)
7月4日、オハイオ州コロンバスでのインディカー・レース「コロンバス200」にキンネアを駆り参戦中にタイヤの脱落から横転、後続車に轢かれて死亡した。
また同乗メカニックのミルトン・マッカリスも運命を共にしている。ナイト享年23歳。マッカリス19歳。
インディ500には通算2回出場し、1911年…30位(90周クラッシュ)1912年…23位(6周エンジン) |
1913年6月26日 |
ハリー・マーティン |
インディアナポリス |
(アメリカ)
インディアナポリス・インターナショナル・レースウェイでテスト中に事故死。 |
1913年6月19日 |
ポール・ツカレッリ |
フランスGP |
(スペイン)
アミアンでのフランスGPの練習走行中に事故死。
1910年のクーペ・ド・オースタンド、同年のクーペ・デル・オート(いずれもヴォアチュレット・レース)に優勝した記録がある。 |
1913年5月22日 |
グイード・ビージオ
クレッセンティーノ・アドリッツォーネ(同乗メカニック)
|
フランスGP・アミアン |
(イタリア)
アミアンでのフランスGPの練習走行中に事故死。享年31歳。
また、同乗メカニックのクレッセンティーノ・アドリッツォーネも運命を共にしている。 |
1912年10月1日 |
デビッド・ブルースブラウン |
アメリカ・グランド・
プライズ |
ミルウォーキーでのアメリカ・グランドプライズ・シリーズのヴァンダービルト・カップに出場するための練習走行中、後輪のタイヤがバーストしてマシンが転倒する事故で死亡。享年25歳。 |
1912年7月22日 |
アレクサンドル・ニコライビッチ・コンシーン |
モスクワ |
(ロシア)
モスクワのチャシニコボで開催された「100km de'l AC de Russie」にオペルで参戦中に事故死。享年不明。 |
1912年7月 |
ジョージ・ブーヴィエール・ブランク |
カタルニア |
(スペイン)
7月、カタルニアのマタロで練習走行中に事故死。享年不明。 |
1911年8月25日 |
デイブ・バック
サム・ヤコブス(同乗メカニック)
|
|
(アメリカ)
8月25日、イリノイ州エルジンでの「モントマラソン・トロフィー」ヴォアチュレットクラスに参戦、車が横転する事故で投げ出されて死亡。享年不明。また、同乗メカニックのサム・ヤコブスも死亡している。 |
1911年11月20日 |
ジェイ・マクネイ |
ヴァンダービルトカップ |
(アメリカ)
11月20日、ジョージア州サバンナでのヴァンダービルト
カップに出走、予備予選中にS字コーナーで前のリタイア車を避けようとコース脇の木に衝突して死亡した。享年不明。 |
1911年8月 |
ラルフ・アイルランド |
ストックカー |
(アメリカ)
8月、イリノイ州エルジンでの「モントマラソン・トロフィー」ストックカー部門に参戦。練習走行中コースアウトにより後部駆動部分が砕け転覆し死亡。 |
1911年7月23日 |
モーリス・フォルニエ
ルヴェール
|
フランスGP ・ ルマン |
本名モーリス・ルネ・アルフォンス・マリー・フォルニエ。
ルマンでのフランスGPで事故死。マシンはリコーヌで、原因は他車との接触事故。享年は30歳。
また同乗者のルヴェールという人物も共に死亡 |
1911年7月21日 |
ウォルター・ドネリー |
|
(アメリカ)
ウィスコンシン州ミルウォーキーでの「ミルウォーキーAAAレース」でシーノを駆って競走中に事故死。享年不明。 |
1911年7月20日 |
ルイス・ストラング |
公道レース |
(アメリカ)
7月20日、ウィスコンシン州ブルーリバーでの公道レース「リライアビリティー・ラン」で事故死。享年不明。
1911年のインディ500に出場しており、109周目にステアリングの故障でリタイアという記録が残る。順位上では29位。 |
1911年5月30日 |
サム・ディクソン(同乗メカニック) |
インディ500 |
アーサー・グレイナーの同乗
メカニックとしてIndy500に出場。
5月30日の決勝でバックストレッチで横転した際に投げ出されて死亡。ドライバーは軽傷。 |
1910年10月14日 |
ウィリアム・シャープ |
アメリカンGP |
(アメリカ)
米国ジョージア州サバンナでのアメリカンGPにシャープ・アローで参戦、練習走行中に事故死。享年不明。 |
1910年10月1日 |
アル・リビングストン |
アトランタ |
(アメリカ)
アトランタでのレースで事故死。享年不明。 |
1910年9月4日 |
ジオスエ・ジュッポーネ |
ブローニュGP |
(イタリア)
9月4日、ブローニュGPのプラクティス走行中に事故死。享年31歳。
1910年のタルガフローリオで2位という記録が残っている。 |
1910年7月6日 |
トニー・キンケイド |
テスト・ストックカー |
ストックカーのテストを行なっている最中に事故死。 |
1910年 |
ラルー・バーデンバーグ |
ストックカー |
(アメリカ)
米国イリノイ州スプリングフィールドでのストックカーレースで事故死。享年不明。 |
1900年代 |
1909年8月21日 |
クラウド・ケルム(同乗メカニック)
ハワード・ジョリフ(観客)
ジェームズ・ウエスト(観客)
|
アメリカ・300マイルレース |
「ホイーラー・シェブラー・トロフィー
レース」と名付けられた300マイルレース、ホームストレートでドライバー、チャーリー・メルツの乗る車の前輪が脱落、観客席に飛び込んだ。
メカニックのケルムはバランスを失って車外に転落し、重症を負って一時間後に死亡。享年35歳。ホイールの直撃を受けた観客2名も亡くなる惨事となった。
ドライバーのメルツは腕を打撲したものの無事だった。 |
1909年8月19日 |
ウイリアム・ブリュケ
ハリー・ホルコム(同乗メカニック)
|
アメリカ・250マイルレース |
「プレスト・オーライト・トロフィーレース」と名づけられた250マイルレースの58周目、ホーストレート上でブリュケが後方を確認するため「わき見」をした事でスピンが発生、コース脇の溝に転落して裏返しとなった。
ホルコムは車体から投げ出されてその場で死亡、ブリュケは車体の下敷きになり、救出され病院に搬送されたもののその日のうちに息を引き取った。
ブリュケ享年26歳、ホルコム同22歳。 |
1908年11月 |
エミール・ストライカー |
バーミンガム24時間 |
(スイス)
米国アラバマ州バーミンガムでの「バーミンガム24時間耐久」にルノーで出場し事故死。享年不明。 |
1908年7月7日 |
アンリ・シサク |
フランスGP・ディエップ |
7月7日、ディエップでのフランスGPで死亡。享年31歳。マシンはパナール&ルヴァッソールだった。
このコースでは例年のように大事故が相次ぎ、1913年の大会を以ってストラスブールを経てモンレリーに移される。 |
1908年7月4日 |
アーネスト・ワット |
フランスGP |
(イギリス)
1908年7月4日、ルノーを駆りディエップでのフランスGPの練習走行中事故死。享年不明。 |
1908年5月29日 |
エマヌエーレ・チェドリーノ |
|
(イタリア)
5月29日、パルミコで事故死。享年29歳。
一説には初の火災による死亡事故ともいわれる。 |
1907年9月1日 |
グイード・デ・マルティーノ |
プレシア |
(イタリア)
9月1日、コッパ・フローリオ(現在のツーリングカーレースのようなクラス)において、プレシアでマシン調整中に事故死。事故原因はステアリングの破損で、コース脇の石に激突して即死した。享年27歳。
この年以降ブレシアはオートバイ専用のコースへと代わった。 |
1907年5月下旬 |
マリウス・パン |
フランスGP・ディエップ |
ディエップでのフランスGPで死亡。マシンはダラークだった。
下記のアルベール・クレマンの事故との因果関係はなし。 |
1907年5月17日 |
アルベール・クレマン |
フランスGP・ディエップ |
ディエップでのフランスGPで死亡。享年24歳。
「グランプリ」と冠ぜられたレースで亡くなった最初の人物となった。 |
1906年 |
ロドルフォ・チオ |
|
(イタリア)
スターを駆りテスト中事故死。事故の場所、享年等不明。 |
1904年1月21日 |
フランク・クローカー |
デイトナ・ビーチ |
(アメリカ)
1月末、デイトナ・ビーチで開催された2輪4輪混走のウインター・スピード・カーニバルの練習走行において、2輪が前方を横切ったのを回避しようとしての事故が発生。この事故でクローカーは車から投げ出され、翌日死亡した。享年26歳。 |
1904年 |
ジャン・フィリップ・ベコナイス |
|
(フランス)
バイヨンヌで練習中に死亡 |
1904年 |
デアデヴィル・ハウスマン |
速度記録 |
(アメリカ)
フォード999を駆り速度記録挑戦中に事故死。事故の場所、享年等不明。
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1903年11月9日 |
ジャン・デンジャン |
|
(フランス)
リチャード・ブレイザーを駆りギャイヨンのコースを練習中事故死。享年37歳。
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1903年9月11日 |
フランク・デイ |
|
(アメリカ)
ミルウォーキーでのレースでフォード・アローを運転中に事故死。享年不明。
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1903年5月24日 |
マルセル・ルノー |
パリ〜マドリードレース |
(フランス)
マルセル・ルノー(画像)は現在のルノー(自動車)社を創設したルノー三兄弟の次男。
1900年代初頭のヨーロッパにおける黎明期の公道レースでは、ルノー兄弟が自ら運転する大排気量の競技用車で多くの勝利を勝ち取っており、その技術力とブランドイメージの向上に大きく貢献した。
5月24日、パリ〜マドリード〜パリ都市間レースにおいて、アングレームという地点で前車の埃に視界を奪われマルセル・ルノーの乗るルノー16HPがコースアウトし立木に激突、運転助手を務めていたマルセル・ルノーが死亡した。(享年31歳)
先に事故を起こしたメルセデスとウォルセリーの2台が巻き上げる砂塵が要因となったらしい。
この事故でわかっている限り、マルセル、メルセデスの運転者F・テリー、ロレインという名のドライバー、2名の同乗メカニック、整理にあたっていた警官の計6名がこの事故で死亡しています。
事故現場の画像 |
1903年4月1日 |
エリオット・ツボロウスキー伯爵 |
ヒルクライム |
(ポーランド)本名はウィリアム・エリオット・モーリス・ツボロウスキー
4月1日、ラ・トゥルビー・ヒルクライムで死亡。享年45歳。
事故当時の車はメルセデスだった。彼は1924年に事故死したルイス・ツボロウスキー伯爵の父にあたる。
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1902年5月31日 |
アンドリュー・フェザートン |
速度記録 |
(アメリカ)
ニューヨーク州リッチモンドで、1マイルの距離で争われた「ワンマイル・スピード・レコード・コンペティション」にベーカーの電気自動車で参戦。車輪が外れた事による転覆で死亡。享年58歳。
このレースが、現在のドラッグカー・レースの原型となっている。 |
1900年9月10日 |
アッティリオ・カッファラッティ |
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(イタリア)
9月10日、プレシアで開催されたレースで死亡。オートバイでの事故であることが判明しましたので、2輪ページに転載しました。 |
1900年3月30日 |
ヴィルヘルム・バウアー |
ヒルクライム・練習走行 |
(ドイツ)
3月30日、ラ・トゥルビー・ヒルクライムの練習中による横転事故で死亡。享年34歳。マシンはダイムラーの24馬力車だった。 |
1890年代 |
1898年5月1日 |
アンドレ・ドゥ・モンテニャック(モンタイニャク)侯爵 |
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本名:レヌー・ド・モンタイニャク・ド・シューヴァンス
フランスのペリグーで行われたローカルレース「「ペリグー1898ヴォアチュレ2&4プレイス」で接触からマシンが転倒。モンテニャック侯爵は自身のミスを認め、息を引き取った。マシンはランドリー・ベイルーだった。
一般に自動車レース(モータースポーツ)での最初の事故死者とされている。(「モータースポーツの楽しみ(高斎正:著)」より)
事故の概要は以下のとおり。
レースというよりもタイムトライアル的なもので、前で遅い車を抜いたモンタリオール伯爵がいて、彼はその直後。助手席の伯爵夫人がその遅い車に対して「抜かせてくれた事に感謝の気持ちで」自らの帽子を
振った事がモンタイニャク侯爵にとっては「追い越してもいいですよ」と間違った解釈。並んだ車はカーブで接触し共に横転、モンタリオール側は車外に投げ出されモンタイニャク側はコースアウトして木に激突、横転した。この事故でモンタイニャクと同乗の修理工が死亡、モンタリオール側は夫婦共に頭部に重傷を負う惨事となりました。モンタイニャクの享年は47歳。
(洋書「L'Automobile en Perigord」より引用) |
1896年 |
エミール・ルヴァッソール |
パリ〜マルセイユ〜パリ |
1896年のパリ〜マルセイユ〜パリ間レースの事故で重傷を負い、約一年後に死亡した。マシンはパナール&ルヴァッソール社の後輪駆動複座車で、死亡時の享年は53歳だった。
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