Accident
1949年以前
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2輪
 
アクシデント詳細
1927 速度記録会
1933 モンツァ
1938 ベルント・ローゼマイヤー
1955 アルベルト・アスカリ
1955 ル・マン24時間
1956 ル・マン24時間
1957 ミッレ・ミリア

1958 INDY500

1960 F1ベルギーGP
1961~68 ウイリー・メレス
1964 ドイツGP
1964 INDY500
1967 ロレンツォ・バンディーニ
1969 福沢幸雄
1969 鈴鹿12時間耐久
1970 川合稔
1970 「栄光の・ル・マン」
1971 ブエノスアイレス1000
1973 F1アメリカGP
1973 富士GC
1973 INDY500
1974富士GC Vol.1 Vol.2
1974 F1アメリカGP
1974 ピーター・レブソン
1975 F1スペインGP
1976 F1ドイツGP
1977 F1イギリスGP

1977 F1カナダGP

1977 トム・プライス
1977 F1日本GP

1978 F1イタリアGP

1980 パトリック・デパイエ
1982 ベルギーGP

1982 INDY500

1982 カナダGP
 
 
 

 

 
 
 

 

 

アクシデント ~忘れてはいけない記憶~ 

2000年代

2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009

2000年

3月7日 小倉直人 (2輪)鈴鹿サーキット
スーパーバイクの合同テスト中にヨシムラ・スズキ(GSX1300R隼)の小倉直人が鈴鹿サーキットのヘアピン過ぎの右200Rでハイサイドを起こし、アウト側のバリアに激突、
病院に運ばれたものの、頭がい底骨折のため、死亡した。享年31歳。
5月12日 アダム・ペティ Adam Petty
NASCAR

NASCARにおける名門中の名門とされるペティ一族の四代目となるドライバー。リチャード・ペティの孫に当たる。

2000年NASCARブッシュシリーズ第12戦、ロードンのニューハンプシャー・インターナショナル・スピードウェイで開かれた「ブッシュ200」の練習走行日。アダム・ペティはシボレー・モンテカルロで走行していたが、バックストレートでクラッシュ。マシン右側面がコンクリートウォールに激突し、そのウォールにはブラックマークが途中で途切れ途切れになりながらも長々と残されてた。アダム・ペティは激突の際、頭蓋骨を骨折したと見られ、それが致命傷となり死亡した。享年19歳。

(画像は1999年NASCARブッシュシリーズのルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した時のもの。祖父のリチャード・ペティから祝福を受けるアダム:提供はクロスノフさん)

6月24日 ジョン・ドーソン・ダマー John Dawson Damer
アンドリュー・カーペンター Andrew Carpenter(オフィシャル)
グッドウッドスピードフェスティバル

(イギリス)

2000年6月24日に行われた、グッドウッドスピードフェスティバルに、1969年式ロータス63で出場。
ヒルクライムコースを模擬走行していたが、ゴール手前で突如コントロールを乱し、オフィシャルポストへ激突し林の中へと転落。
ダマーはすぐさま、チチェスターのリチャード病院に搬送されたが、全身打撲などでその日のうちに死亡した。享年59歳。

また事故の際、オフィシャルのアンドリュー・カーペンター(Andrew Carpenter)イギリスも巻き込まれ死亡し、スティーブ・タラント(Steve Tarrant)が足を負傷している。カーペンター享年40歳

7月2日 ジョイ.ダンロップ (2輪) エストニア

エストニアの首都タリン近郊で行われた公道レースでコースアウト。立木に激突して全身を強く打ち死亡。享年48歳

この1ヶ月前に開催されたマン島TTレースで最多勝記録となる通算26勝をあげていて、公道の王者とも言われる存在だった。

7月7日 ケニー・アーウィン Kenny Irwin NASCAR・テスト

本名ケニー・デイル・アーウィンJr ニューハンプシャー・インターナショナル・スピードウェイでのNASCARウィンストンカップシリーズ第18戦「ザッツルックドットコム500」の練習走行にシボレー・モンテカルロで参戦。第3ターンの進入でスロットルにトラブルが発生、そのままコンクリートウォールにクラッシュとなった。救急隊により救出されたアーウィンだったが、既に致命傷を負っており、その日のうちに死亡した。享年30歳

ミジェトカーレースで活躍した後、1998年にNASCARデビュー。1998年のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得し、これから先を期待されていた矢先の事故だった。
(資料提供はクロスノフさん)

7月30日 山川 守 (2輪) 鈴鹿8時間耐久

鈴鹿8時間耐久ロードレースに山中正之とペアを組んで、カワサキZX―9Rで出場。スタートして約1時間後、32週目の130Rで転倒。病院に運ばれたが全身を強く打っており、まもなく死亡。享年47歳

この年23回の歴史を刻む鈴鹿8耐での初の死亡事故となった。
山川守選手は8耐が始まった1978年から参戦し、この年で18回目の参加(決勝は12回目)となるベテランだった。

9月20日 コース・マーシャル1名 F1・イタリアGP(モンツァ)

モンツァでのF1第14戦イタリアGPで、スタート直後の第2シケインで、バリチェッロ、トゥルーリ、フレンツェン、クルサード、ハーバート、デ・ラ・ロサという6台が関連する多重クラッシュ発生。この事故で飛び散ったタイヤがコース脇のマーシャルの頭部と胸部を直撃した。
マーシャルは、ヘリコプターで病院へ搬送されたが、レース後に死亡が発表された 。

1994年のセナの事故以来、マシンは安全に改良を重ねられているが、レースを支えるコースマーシャルにも大きな危険があることを再認識させられる事故となった。

 

2001年

2月18日
デイル・アーンハート  Dale Earnhardt NASCAR

デイル・アーンハート最終ラップの最終コーナーの立ち上がりで外側に流され、右側のコンクリート壁にほぼ正面から激突。そこに後続のマシンがきて激突した。クラッシュ時の走行スピードは、時速約290kmであったといわれている。 アーンハートは即死状態で死亡した。

アーンハートの代名詞でもあった、カーナンバー「3」は、以後もNASCARでは使用されることがない。

関連サイト  デイル・アーンハートの事故を振り返る

3月4日
コース・マーシャル1名 F1・オーストラリアGP
2001年F1開幕戦オーストラリアGP。
決勝レースの4週目、ジャック・ビルヌーブ(BARホンダ)とラルフ・シューマッハ(ウィリアムズBMW)が高速で接触、ビルヌーブの車は宙を飛んで壁にぶつかり大破した。両ドライバーは無事だったが、外れたホイールがマーシャルを直撃、マーシャルは死亡した。
ほかにも、観客7人がけがをした。
4月25日
ミケーレ・アルボレート 
Michele Alboreto
ドイツ・ラウジッツリンク

アルボレート(イタリア)

ル・マン24時間に向けベルリン郊外のラウジッツリンクでアウディR8のテスト中に突然スピン。フェンスに激突したマシンは100mもの距離をとびマシンは大破した。
原因はタイヤのパンクとされている。アルボレートは病院に搬送されたが、翌26日に死亡した。享年44歳。

1981年にティレルからF1にデビュー。初優勝の後、フェラーリ移籍。1985年はランキング2位につけた。フェラーリ離脱後は様々なチームを渡り歩いたが1994年でF1を引退。優勝5回、PP2回、FL5回の記録を残している。
F1引退後はスポーツカーレースに参戦。1997年にはル・マン24時間レースでもTWR・WSC95で総合優勝を記録している。
関連サイト:http://espn.go.com/rpm/f1/2001/0426/1186961.html(英語・アルボレートの事故のレポート)

9月15日
アレックス・ザナルディ  Alex Zanardi CART(ドイツ・ラウッジリンク

ザナルディ第10戦ラウッジリンク(ドイツ)142周目に大クラッシュ。ピットアウトの際にスピンしたザナルディのマシンはコース上へ。そこにタグリアーニのマシンが時速320kmで突っ込むという大事故でザナルディのマシンはまっぷたつになり、ザナルディは一命を取り留めたものの、両足を失うこととなる。

それでも、生きていることに感謝の言葉を述べたザナルディは、レースへの情熱を捨てることはなかった。
事故から20ヶ月後の2003年5月11日、義足をつけたザナルディは事故のあったラウジッツリンクで特別仕様のマシンに乗り込み事故のあったレースの残りの周回を走りきる。ザナルディはサーキットに帰ってきたのだった。
2003年からはレース界に本格復帰。2005年からFIA世界ツーリングカー選手権(WTCC)にBMWから参戦し、第7ラウンド RACE2(第14戦)において復帰後初優勝を遂げている。

なお、F1をはじめとするヨーロッパでのレースではアレッサンドロ(Alessandro )、アメリカのレースでは覚えられやすいように「アレックス」と呼ばれている。

10月4日

ブレイズ・アレキサンダー(アレクサンダー) Blaze Alexander

ストックカー

(アメリカ)本名ブレイズ・アレキサンダーJr(アレクサンダー表記もある)

シャーロットで開かれたARCAレース「イージーケア・べーシル・セルビス・コンタクツ100」にポンテアックで参戦。ホームストレートで他車に横から擦り付けられるように接触、コントロールを失ったアレキサンダーのマシンは最高速のままコンクリートウォールに激突、衝撃でフロント部分が大きく大破した。アレキサンダーは激突時のあまりにも激しい衝撃をうけ、即死した。享年25歳。

アレキサンダーはNASCARブッシュシリーズにも参戦しており、これからの活躍を期待されていた矢先の悲劇だった。この年のデイトナ500ではデイル・アーンハートも同様の事故で死亡しており、改めてストックカーの安全性向上を再認識させられた。

     
10月19日
リスト・マニセンマキ Rist Mannisenmaki(コ・ドライバー) WRC ツール・ド・コルス

(フィンランド)

WRC第12戦ツール・ド・コルス(コルシカ・ラリー)。三菱のトミ・マキネンはSS5の左コーナーで横転事故を起こす。この際マキネンは無傷であったが、コ・ドライバーのリスト・マニセンマキが頚椎を骨折してしまう。長期にわたるリハビリを経て、2003年のラリー・グレート・ブリテンでユッソ・ピカリストのコ・ドライバーとして復帰を果たすが、同ラリーをもって引退。現在は母国出身のユッホ・ハンニネンの後見人となっている。

なお、マニセンマキは1998/1999年とマキネンとのコンビで、2度の世界タイトルを獲得している。

 

2002年

4月6日 道上 龍(みちがみ・りょう) フォーミュラ・ニッポン

富士スピードウェイで開催されたフォーミュラ・ニッポン第2戦の公式予選1回目。
アタック中だった5ZIGENの道上龍が100Rでクラッシュ。腰骨を圧迫骨折し、顔面も骨折で全治4か月という重傷を負った。原因ははっきりしていないが、アクセルワイヤが引っかかりスロットルが戻らなかったのではないかといわれている。

事故後は必死のリハビリの結果、驚異的な速さで回復。フォーミュラ・ニッポンでは第5戦から復帰、またGTにはシーズン後半から復帰し優勝も記録している。

6月8日 コディ・ハースト (2輪)アメリカ
ダンビルでの「ダンビル・ナショナリー・レース」に出場、転倒後跳ね上がったマシンが自分の上に落ち、内臓破裂で死亡した。 享年17歳。
10月9日 エリック・マーティン  Eric Martin ストックカー
エリック・マーティンシャーロットで行われたイージーケア150のプラクティス中、エリック・マーティンが単独事故後、他車に激突され即死した。享年33歳。
10月27日 池 溶哲 (2輪)筑波サーキット
筑波サーキットで開催された関東チャレンジカップロードレース選手権シリーズ第7戦のレース中、最終コーナーの立ち上がりで転倒。池選手はコース外に避難しようとしたが、後続車に撥ねられて死亡した。享年30歳。
10月13日 長屋宏和(ながや・ひろかず) フォーミュラドリーム・

長屋宏和鈴鹿サーキットでのF1日本GPのサポートレースとして開催されたフォーミュラ・ドリーム第9戦。
全日本F3選手権参戦中でゲストとしてレースに参加していた長屋宏和がレース2周目、スプーンコーナーの進入で前を走る細川慎弥と接触、長屋のマシンはノーズから路面にたたきつけられ縦に回転しながら宙を舞い、タイヤバリアを超えフェンスの最上段にぶつかり着地した。この事故が発生したためレースは中止。長屋は第六頚椎骨折の重傷を負った。
事故後、車椅子の生活となったが、レースを愛する強い気持ちでリハビリに専念、2004年9月18日にはレーシングカートで念願のサーキット復帰を果たした。さらに12月には無限プレイングカートフェスティバルにてレース復活を果たしている。

長屋宏和選手のホームページには「私、長屋宏和はレースを愛し今年も、そして来年も、永遠に挑戦し続けます。レースと言う栄光に満ちたフィールドがこの世からなくならぬ限り・・・。 」と、変わらぬレースへの情熱がつづられている。
また、障害者でも健常者と同じようにファッションを楽しみたいとの思いから“Piro Racing”を設立し、精力的な活動を続けている。
関連サイト:長屋宏和 http://www.piroracing.com/ 
チェアウォーカーファッション Piro Racing 
関連書籍;それでも僕はあきらめない(著:長屋和宏)

画像2枚は長屋宏和選手のご了解を得て、掲載させていただきました。
(画像左上は2002年F3参戦時のもの、右下は事故後初の復帰レースで、多くの支援者の方達と共に喜ぶ長屋選手です)

 

2003年

4月6日 加藤大治郎 (かとう だいじろう) (2輪)日本GP

モトGP開幕戦、鈴鹿サーキットでの日本GP決勝の3周目に大クラッシュ。頭、首、胸などを強打した加藤大治郎は意識不明の重体となる。
多くのファンがその回復を祈ったが、願いはかなわず事故発生から15日目の4月20日午前零時42分、脳幹梗塞のため入院先の三重・四日市市内の病院で亡くなった。享年26歳

関連サイト
加藤大治郎公式サイト Daijiro.net
大ちゃんすばらしい感動をありがとう(HONDA Motorsports) 
加藤大治郎選手事故調査委員会の報告を受けて  
加藤大治郎選手の事故はウィーブモードが原因(OCNスポーツ)

4月18日 ポッサム・ボーン Possum Bourne ヒルクライム(ニュージーランド)
(本名:ピーター・レイモンド・ジョージ・ボーン)
NZのヒルクライムイベント「レース・トゥ・ザ・スカイ」のレッキ中、前から走行してきたRV車と正面衝突。懸命な治療もむなしく、4月30日に病院で死亡。享年47歳。
7月12日

マーク・ラベル Mark Lovell
ロジャー・フリーマン Roger Freeman (コ・ドライバー) 

ラリー(アメリカ)

SCCA・プロラリー・チャンピオンシップの第5戦オレゴン・トレイル・ラリーに出場したSRT USA(Subaru Rally Team USA)のマーク・ラベル(イギリス・画像右)とコ・ドライバー、ロジャー・フリーマン(イギリス・画像左)が乗るインプレッサがSS1でコースオフ、高速で木に衝突した。この衝突で二人は致命傷を負っており、駆けつけた救急医療隊が現場の診察で死亡の判断をした。
マーク・ラベル享年43歳、ロジャー・フリーマン享年51歳。

共に20年以上のキャリアを持つ二人は86年のイギリスラリー選手権で初コンビを組んだ旧知の仲で2003年に再びコンビとなりシリーズを連戦していたなかでの事故だった。
また、フーリマンはかつて新井敏弘とコンビを組んだ経験もあり、新井敏弘が師と仰ぐ存在であった。
新井敏弘が2005年PCWRCワールドチャンピオンに輝いた際、FIAの表彰に先立ち、墓前に報告に行ったという。
(資料提供はピケオさん)

9月28日 大竹厚明(コ・ドライバー) 全日本ラリー

群馬県で開催された全日本ラリー選手権第7戦「モントレー2003」において、2輪駆動部門Bクラスに参戦していた栗原謙一/大竹厚明組のESSO C-ONE CELICAがレグ2、SS13(5.0km)の1.8km地点でコースアウト。マシンは立木にクラッシュし、コ・ドライバーの大竹厚明選手が負傷。オフィシャルの迅速な対応により病院に搬送されるも、懸命な治療の甲斐なく9月30日に死亡した。享年36歳。

国内ラリーとしては、20年ぶりの死亡事故となってしまった。

10月12日 ケニー・ブラック IRL

テキサス・モーター・スピードウェイ(1.5マイルオーバル)で開催された、IRLインディカーシリーズの最終戦(第16戦)決勝で、3位を走行していたトーマス・シェクターにケニー・ブラックがオーバーテイクを試みたが、両者は接触、ブラックのマシンは宙を舞い、激しくクラッシュした。ブラックは重傷を負ったが、幸い命には別状が無かった。

この事故により、ブラックは翌シーズンの欠場を余儀なくされ、そのシートにはバディ・ライスが獲得、翌2004年のINDY500を制するなど活躍を見せる。しかし、そのライスは2005年のINDY500のテスト中にクラッシュ、欠場となり、そのライスのシートをケニー・ブラックが獲得してレースに復帰するという運命の皮肉が見られた。

10月22日 トニー・レナ Tony Renna IRL

トニー・レナインディアポリス・モータースピードウェイで行われていたファイアストンタイヤのテストに参加していたトニー・レナ(チップ・ガナッシ)が、テスト開始直後の4周目にターン3に227mph(約365km/h)で進入し、コーナリング中に90°スピン。インフィールドの芝の上を滑るうちにマシンは宙を舞い、フェンスにボトムから激突した。この際、不運にもフェンスの支柱にぶつかってしまう。マシンは大破、コックピットが二つに裂けるほどの衝撃で、セーフティ・クルーが到着した時にはすでにレナの心拍は停止しており、病院へ搬送されたものの到着と同時に医師が死亡の診断をした。享年26歳

2002年の終盤にアル・アンサーJrの代役としてIRLにデビュー。2003年にはインディ500に参戦4位という結果を残し、2004年からはチップガナッシレーシングから参戦することが決定していた矢先の事故となってしまった。
(画像提供はピケオさん)

 

2004年

8月19日 トム・バルドウィン NASCAR

(アメリカ)本名、トム・バルドウィンSr。1997年に事故の影響で亡くなったリック・バルドウィンの兄。 トム・バルドウィン

トンプソン・インターナショナル・スピードウェイでのNASCARフェザーライトモデファイドレース「バッド・レーシング150」にシボレー・モンテカルロで参戦。
にわか雨の為スタートが2時間延期され後に決勝スタート。バックストレートで多重事故が発生した。直後を走行していたバルドウィンはグリーンへ逃げたが、濡れた芝生に足元をすくわれスピンしてしまう。
バルドウィンのシボレーはほとんど減速することなく、第3ターン内側のバリアに激突、死亡した。享年57歳。

古くからこのシリーズで活躍していたため、ファンにはお馴染の存在だった
(資料提供はクロスノフさん)

 

2005年

1月11日 ファブリッツィオ・メオーニ (2輪) ダカールラリー

テレフォニカ・ダカール2005の第11ステージで10時15分175kmポイントにおいて転倒、20分後に医者を乗せたヘリコプターが到着し救急措置がとられたが、その甲斐なく11時11分死亡が確認された。享年47歳。

この事故が ダカールラリーの歴史の中で11番目のライダーの死亡事故となった。

1994年のパリダカで4位入賞をはじめ、2001・2002年はダカールラリーを連覇しており、「砂漠の帝王」とも呼ばれた偉大なチャンピオンライダーだった。

5月30日 ブルーノ・ジュンケイラ Bruno Junqueira INDY500
インディ500マイルレースの、決勝レース78周目のターン3で6番手を走行していたブルーノ・ジュンケイラ(パノス・ホンダ)がラップ遅れのAJフォイト4世(ダラーラ・トヨタ)と接触しマシンをウォールに激しく打ち付けるアクシデントが発生。
マーシャルにより救出されジュンケイラは病院へ搬送されたが、脊椎を骨折する重傷を負った。
6月12日 佐藤圭介 (2輪) 鈴鹿サーキット

鈴鹿200km耐久ロードレースの予選。
鈴鹿サーキットの2コーナー付近で、前を走っていて転倒した2台を避けようとしてコースから外れ、コンクリート壁の切れ目にに衝突し間もなく死亡した。享年24歳。

この年5月の鈴鹿選手権シリーズ第2戦で雨の中優勝を記録。事故当日も予選2グループ目の2番手のタイムを記録していた矢先の事故だった。

9月18日 マイケル・パーク Michael Park (コ・ドライバー) WRC ラリーGB

(本名:Michael Steven Park)

ラリー・グレートブリテンンの最終日午前中最後のSS15(マーガムパーク・27km)で、マルコ・マルティンのドライブするプジョー307が左カーブをコースオフし、そのままスピードを落とさずにコース脇の樫の古木に右側面(助手席側)が激突した。マルティンはすぐに救助を求めたが、マシンはその衝撃により307の車体は助手席側が3分の2近くにわたり潰れており、コ・ドライバーのマイケル・パークはほぼ即死の状態だった。 この事故を受け、ラリーは中止された。

マルコ・マーティンとマイケル・パークは2000年からコンビを組み、プライベーターとしてラリーに出場していた頃からのコンビだった。
2005WRC ラリー・分レートブリテン (DVD)

10月29日 岡河 司郎 (2輪)もてぎ

ツインリンクもてぎでの全日本ロードレース選手権最終戦。

ST600予選1回目の90度コーナーで転倒、セカンドアンダーブリッジのコンクリート壁に激突。搬送先の病院で死亡。享年32歳

 

2006年

1月9日 アンディ・カルデコット (2輪) ダカールラリー

パリダカ2輪部門で走行中、ヌアクショットからキッファのSS250キロ地点で午前11時31分にクラッシュ。 即死だった。享年41歳。

パリダカの歴史の中、23人目の事故死となっっている。

1月13・14日 観客 ダカールラリー

ダカールラリーで1月13日・14日と2日続けて観客の死亡事故が発生。

この為、15日の最終第15ステージはキャンセルされた。

3月24日 ヨルグ・バスタック JWRC
JWRC(ジュニア世界ラリー選手権)カタルーニャ・ラリーにおいて、初参戦のアーロン・ブアカートとヨルグ・バスタックのマシンがコースを外れ、バンクで停止。
コースサイドでバスタックがタイヤ交換を行っていたところ、同じ場所でもう1台のマシンがでコースオフしてバスタックに激突。バスタックは病院に運ばれたが、怪我のために息を引き取った。享年36歳。
3月26日 ポール・ダナ Paul Dana IRL マイアミ

2006年IRL開幕戦「トヨタ・インディ300」において、決勝前のファイナルプラクティス中に、レイホール-レターマン・レーシングから参戦していたポール・ダナ(パノス・ホンダ)が死亡した。

ターン2でエド・カーペンター(ダラーラ・ホンダ)がスピンし外側のウォールにマシンを激突、反動でカーペンターのマシンはコースイン側に向かって降りてきたところにダナがさけきれず衝突したもの。
ダナのマシンは一瞬宙を舞い、ひっくり返ったまま数十メートル滑降した。2人のドライバーははすぐに病院に搬送されたものの、ポール・ダナは死亡した。享年30歳。

4月2日 加藤直樹 (2輪) もてぎ

ツインリンクもてぎでのMFJ全日本ロードレース選手権開幕戦、ST600クラスの出場した加藤直樹がスタート直後の5コーナー立ち上がりでハイサイドを起こし転倒、後ろからきたオートバイに跳ねられ死亡した。

関連サイト:加藤直樹プロフィール

5月29日 前田 淳 (2輪)マン島TTレース

マン島TTレースでの練習走行中、スタート地点から3マイルほどの地点(ユニオン・ミルズ先)で、何らかの理由でスロー走行していた前田淳選手とアイルランド人ライダーと衝突。

前田選手は骨盤、肋骨など数ヶ所の骨折を負い、すぐさまマン島内の病院に搬送されたものの後に英国マンチェスターの病院へと移送。緊急措置が行われ、入院していたが容態が急変。6月6日に同病院で死亡した。享年38歳。通称:マエジュン。

関連サイト:前田淳マン島奮戦記

5月16日 ステファン・グスタフソン (2輪) スウェーデン
スウェーデン・リンコピングでの「リンコピングTT」にホンダ600で練習走行中に転倒して死亡。
享年22歳。
6月5日 アンリ・マーニュ (コ・ドライバー) クロスカントリーラリー

アンリ・マーニュ(フランス)

北アフリカ、モロッコ中東部で開催されていた2006年FIAクロスカントリーラリー・ワールドカップ(CCR)第4戦モロッコラリーで、ホアン・ナニ・ロマ(スペイン)とコ・ドライバー、アンリ・マーニュ(フランス)の乗るパジェロエボリューション(チーム・レプソル三菱ラリーアート)が、この日の最終競技区間の第1/第2チェックポイントの間にあるアシスタンスポイントの手前、60.30km地点でコンクリートの壁に左前方から衝突した。
直後に現場を通りかかった増岡浩とメモン救助にあたったが、アンリ・マーニュの死亡が確認された。享年53歳。

ダカールラリーでは三菱の篠塚建次郎のコ・ドライバーとなり、1988年には総合2位に入賞。1997年には篠塚の日本人によるパリダカ初優勝に大きく貢献した。2000年にはジャン・ルイ・シュレッサー(フランス)とコンビを組み、シュレッサー・バギーで2度目のパリダカ優勝を獲得している。

8月3日 クリスチアーノ・ダ・マッタ Cristiano da Matta CART・テスト

(ブラジル)

ロードアメリカでの合同テスト中、コース上に突然現れた鹿と、ダ・マッタのマシンが激突する事故が発生。
ターン6付近の上り坂を時速約130マイル(約208キロ)で走行していたダ・マッタは、突然鹿がコースに現れたためフルブレーキングで90マイル(約144キロ)までスキッドマークを残しながら速度を下げたものの鹿と激突、ヘルメットを直撃して頭部に損傷を受けた。
直ちに病院に運ばれたダ・マッタだったが、硬膜下血腫で集中治療室で治療を受け回復。
約1年10ヶ月のリハビリ及び休養ののち、2008年5月にラグナ・セカで行われたグランダム・シリーズにて復帰を果たした。
ダ・マッタは2002年のCARTシリーズチャンピオンを獲得、2003~04年はトヨタからF1にも参戦していた。

9月8日 ピーター・ブロック Peter Brock ラリー
ミック・ホーン

オーストラリアでのタルガ・ウエスト・ターマック・ラリーの競技中に立ち木にクラッシュしてドライバーのピーター・ブロックが死亡した。享年61歳。

コ・ドライバーのミック・ホーンは病院に運ばれ、重傷ではあるが状態は安定しているという。(2006年9月10日現在)

ピーター・ブロックはオーストラリア最大の耐久レース、バサースト1000で9回の優勝を記録し、3度にわたってオーストラリア・ツーリングカー・チャンピオンに輝いたオーストラリアの国民的ヒーローだった。

10月6日 マーク・ポーター Mark Porter V8スーパーカー   オーストラリア
デビッド・クラーク
V8 Supercarsの下位イベントであるFujitsu(富士通) V8 Supercar Series。マーク・ポーターがクラッシュしてコース上で止まってる所に、後続のデビッド・クラークが避けきれずにポーターのマシンの運転席側に激突した。ポーターは病院へ搬送されたが、2日後に死亡した。また、激突したクラークも重傷を負ったが、命は取り留めた。(右の画像はピケオさん提供)
ポーターの事故後のマシン画像(MOZAさん提供)

 

2007年

1月9日 エルマー・シモンズ  Elmer Symons (2輪) ダカールラリー

(南アフリカ)

1月6日スタートしたダカールラリーにKTMのバイクで参加。
モロッコのエルラシディアからワルザザートまでの第4ステージ(競走区間405キロメートル/総距離679キロメートル)の砂地で第3ステージを終え総合18位につけていたシモンズが衝突事故で死亡した。享年29歳。
シモンズは過去2大会に支援チームのメンバーとして参加しており、選手としては今大会が初出場だった。

1月28日 ガストン・マッツァカーネ Gaston Mazzacane デイトナ24時

2007年Grand-Am第1戦 第45回デイトナ24時間レース。雨の降る中の難しいナイトセッションとなったが、VICI Racing からPorsche Fabcar(No,18)で参戦のガストン・マッツァカーネがクラッシュ。
マッツァカーネは意識を失って病院へ運ばれたが、幸いにも大事には至らなかった、

3月19日 エリック・メドレン Eric Medlen ドラッグレース テスト

Gainesville Racewayでのテスト走行中、ガードレールに激突する事故が発生。

メドレンは頭部に損傷を負い意識を失っており、4日後の23日に家族の希望により生命維持装置が外されて死亡した。

3月24日 ロベルト・ロカテッリ  Roberto Locatelli (2輪) スペイン ロードレース世界選手権

(イタリア)

ロードレース世界選手権250ccクラスに参戦中、スペイン・へレスでのスペインGPのフリー走行中に、時速160キロで転倒し、防護壁に激突。頭部と顔面を強打し、肩と左足首を複雑骨折した状態で、地元の病院に搬送され、緊急手術を受けた。頭部を強打しており、自発的な呼吸はしているものの予断は許さない状況とされていたが、幸いにも28日に意識が回復した。(4月1日時点)
2000年の125ccクラスチャンピオンを獲得、2006年は250ccクラスでランキング5位となっている。

4月1日 トーマス・エンゲ Tomas Enge ALMS・セントピーターズパーク

(チェコ)

ALMS(アメリカン・ルマン・シリーズ)の第2戦セントピータースバーグ決勝レースで、フェラーリF430GTを駆ったエンゲは88周目コントロールを失って激しくコンクリートウォールに激突。マシンは大破した上に火災も発生したが、ドライバーは直ちに救出されて病院へと搬送された。診断の結果、肋骨や足首を骨折した上に肺にも損傷がみられた。

2001年にはチェコ初のF1ドライバーとして、イタリアGPから負傷欠場のルチアーノ・ブルティの代役としてプロストGPからF1デビュー。3戦に出場した経験がある。

6月10日 ロバート・クビカ(クビサ)  Robert Kubica F1 カナダGP

(ポーランド)

F1第6戦としてジル・ビルヌーブ・サーキットで開催されたカナダGP。多くのマシンがウォールの餌食となり、計4度もセーフティカーが出動する荒れたレースとなった。
1度目のセーフティカーが解除された直後の27周目、ヘアピン手前のゆるい左カーブで、前を行くトゥルーリ(トヨタTF107)にアウトからクビサ(BMWザウバーF1.07)が仕掛けたが、軽く接触、クビサのマシンはコース左側の縁石を越え直進するようにコースアウトした。縁石を乗り越えた際に前輪が跳ね上がったクビサのマシンは、そのまま前輪を宙に浮かせた状態でタイヤバリアをかすめるように直進、コンクリートウォールに激突すると、マシンは跳ね返されてコースを斜めに横切るようにタイヤやウイングなど無数の部品をまき散らしながらコース上を回転しながら横切った。コース左側の壁に到達した際のマシンは、クビサを乗せたコクピットに、かろうじて左後輪のみがぶら下がっている状態で横倒しになってストップ。
もはや残骸と言って良いようなコクピットの中のクビサの姿は、最悪の事態を予感させるものであった。しかし病院に搬送されたクビサは、軽い脳震とうと捻挫という軽傷で翌日には退院することができた。
非常に激しいクラッシュであったにもかかわらず、ほぼ無傷で生還しできたことは、FIAが毎年進めてきた安全対策のたまものといえるかも知れない。
そして1年後のカナダGP、2008年6月6日クビカは自身の初優勝を同じジル・ビルヌーブ・サーキットで遂げることになる。

8月25日

メディア3名 全日本ラリー

全日本ラリー選手権第7戦「クスコカップFMSC久留米―吉野ケ里マウンテンラリー」のSSにおいて、参加していたラリーカーが左カーブでスリップし、ガードレールに衝突。

ガードレール外側で取材中だったカメラマン他3人が倒れたガードレールにはじき飛ばされる形で、高さ8mのがけを転落、林田正紀さんが胸などを強く打って意識不明の重体、松葉浩人さん伊藤忍さんの2人が重傷を負った。
この事故により、ラリーは中止された。

8月26日 奥野正雄 (おくの まさお) (2輪) 全日本ロードレース選手権

全日本ロードレース選手権シリーズ第5戦」「ST600クラス」の決勝6周目(全18周)の第1コーナー直前で奥野選手のマシンが電気系のトラブルでスローダウンし、そこに後続マシンが激突し、6台を巻き込んだ事故が発生した。。この事故で奥野正雄が頭を強打し意識不明の重体となり、ほかのレーサー5人が軽傷を負った。
奥野選手は東北大学病院の高度救命救急センターで懸命な治療を受けていたが、9月26日午後12時49分重症脳外傷、脳ヘルニアにて死亡した。享年32歳。

関連サイト:奥野正雄オフィシャルWEBサイト

9月4日 沼田憲保 (ぬまた のりやす) (2輪)岡山国際サーキット

午前10時50分ごろ、岡山国際サーキットで練習走行を行っていた沼田憲保が、ヘアピンカーブを曲がりきれずコース脇のタイヤバリヤに激突、胸などを強く打って死亡した。 享年41歳。

95、96年の全日本選手権GP250のチャンピオンであり、97、98年には世界選手権GP250に参戦するなど、日本を代表するレーサーとして知られた。
関連サイト・:不死鳥伝説

12月9日 ラファエル・スペラフィコ ストックカー ブラジル
レンタオ・ルッソ
ブラジル・インテルラゴスでのストックカー選手権のレース中、ピットレーン入り口付近の高速コーナーにおいて、ラファエル・スペラフィコのマシンがレンタオ・ルッソのマシンに真横から衝突、スペラフィコはタイヤウオールに激突し頭部にひどい外傷を負い、心肺停止で死亡した。衝突されたルッソも頭部に外傷を負った。

2008年

2月23日 アシュリー・クーパー Ashley Cooper V8スーパーカー(オーストラリア)

オーストラリア、アデレードでのV8スーパーカーシリーズClipsal 500で下位カテゴリーのFujitsu V8 Supercarシリーズにおいて、アシュリー・クーパーのマシンが右カーブを曲がりきれずアウト側のコンクリートフェンスに激突、数メートルフェンスに沿ってすべり、イン側のフェンス脇に止まった。
クーパーは2日後の25日に死亡した。享年27歳。

なお、クーパーの遺体は臓器提供のドナーとして、6歳の子供を含む7人に臓器移植が行われた。

4月27日 ヘイキ・コバライネン Heikki Kovalainen F1 スペインGP

(フィンランド)

カタルニアサーキットでのF1第4戦スペインGP。21周目走行中のH.コバライネン(マクラーレン・メルセデス)の左フロントホイールが突如破損、コバライネンは第9コーナーを約250kmのスピードでコースアウトしてタイヤバリアに突っ込んだ。
マシンのフロント部分は完全に大破していて、コバライネンの様子が心配されたが、病院での検査で異常なしと診断され翌日には無事退院した。

 

6月11日 オベ・アンダーソン Ove Andersson クラシックカー・ラリー(南アフリカ)

(スウェーデン)

南アフリカで開催されたヒストリックカー・ラリー「ミリガンヴィンテージトライアル(Milligan Vintage Trial)」において、1957年製ボルボで出場していたオベ・アンダーソンがブラインド・コーナーで対向のトラックと正面衝突、マシンは対はしてアンダーソンは死亡した。享年70歳。

往年の名ラリードライバーであり、セリカでの活躍が縁となり、70年代はじめにTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)を設立、トヨタのWRC活動を担い、WRCにおいてドライバーズタイトル4回、マニュファクチャラータイトル3回を獲得するという輝かしい成績を残した。
チームはさらにル・マン挑戦を経て、2001年からトヨタ・モータースポーツGmBH(TMG)としてF1に参戦を開始し、トヨタF1活動の初期も始動したが2003年に第一線からは退いていた。

6月21日 SCOTT KALITTA ドラッグレース(アメリカ)

アメリカ Old Bridge Township Raceway Parkで行われたドラッグレースNHRAにおいて、トップカテゴリーの一つのFUNNY CARで出場したSCOTT KALITTA選手が予選中の事故で死亡した。
ゴールする前後あたりで車体から出火、ゴール後に減速用のパラシュートが出たものの十分な減速を得られないままコースを直進、炎上したままコース先の壁に激突した。

KALITTA選手はドラッグレース界ではベテランに位置付けられる選手で、同じNHRAのトップカテゴリーのTOP FUELで1994年と95年にチャンピオンを獲得。一旦は引退したが、2003年から復帰し、最近はFUNNY CARに出走していた。事故当日も予選に出場し、その予選4ラウンド目(予選のベストタイム上位16人によって行われる明日の決勝トーナメントに出場するための、ベスト16に入るための最終ラウンド)での事故だった。享年46歳。

7月11日 伊藤大輔 (いとう だいすけ) DVD収録中

群馬県の群馬サイクルスポーツセンターで行なわれていたビデオマガジン『ホットバージョン』の収録中に事故が発生。
チューニングカーの乗り比べを行っていた中で、コースアウトしてクラッシュした。この時、一般公道を走っている雰囲気を出すという撮影主旨の為に、ヘルメットをかぶっていなかったことが頭部への負傷を大きくさせた。
伊藤大輔はただちに病院に搬送され、診断の結果頭蓋骨骨折、脳挫傷で全治2ヶ月と診断された。
伊藤は、以後のスーパーGT欠場を余儀なくされたが、富士スピードウェイでの最終戦で復帰を果たしている。

伊藤大輔オフィシャルブログ・ http://ameblo.jp/d-ito/page-3.html

7月13日 須藤郡宏 (2輪) モトクロス
モトスポーツランドしどきで開催された「2008CLUB MAN MOTOCROSS」第7戦。レース3週目(1週1.5キロ)に入った上り坂で、須藤郡宏のマシン(450cc)がバランスを崩し転倒、後続のマシン3-4台にはねられ全身を強く打ち死亡した。
須藤郡宏は神奈川県平塚市職員で、前年の同大会でアマチュアのクラスで年間優勝した選手だった。
8月3日 クレイグ・ジョーンズ (2輪) WSS イギリス

(イギリス)

イギリス・ブランズハッチで行われたスーパースポーツ世界選手権にParkalgar Hondaより参戦したクレイグ・ジョーンズが、2位を走行中、クラークカーブでジョナサン・レイ、アンドリュー・ピットに挟まれた形でクラッシュ。この時CBR600RRのタイヤが頭部を直撃し、重い頭部外傷を負い、翌4日午前0時32分搬送先のロイヤルロンドン病院にてに死亡した。享年23歳。

8月10日 平手晃平 (ひらて こうへい) フォーミュラニッポン
フォーミュラ・ニッポン第6戦(ツインリンクもてぎ)で開催された第1レースの15周目、8番手の伊沢拓也(ARTA)に対し、平手晃平(TP Checker IMPUL)が15周目の5コーナーでインを差そうとしたところ、伊沢がポジションを守ろうとわずかにラインを変更。その後ろで行き場をなくした平手は、止まり切れずに伊沢の右リアタイヤに乗り上げた。平手のマシンはそのまま垂直に飛び上がり、2度ほど横にバウンドした後、最後はタイヤバリアにフロントノーズが突き刺さるような形でストップした。平手は病院に運ばれ、胸椎の圧迫骨折および肺挫傷と診断され、翌第7戦富士を欠場したが、第8戦から復帰した。
TDPドライバーとしてユーロF3、GP2を戦っていたが、この年日本のフォーミュラニッポンに参戦を介したばかりで、この年のフォーミュラニッポン・ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
8月15日 ジジ・ガリ  Gigi Galli WRC・ドイツ・ラリー

本名:ジャンルイジ・・ガリ Gianluigi Galli
(イタリア)

WRC第10戦ADAC ラリー・ドイツのデイ1でストバートVK・Mスポーツ・フォード・ラリー・チームからフォーカスRS WRCで参戦していたジジ・ガリがクラッシュ、病院に搬送されたが、左大腿骨骨折の負傷を負った。
ガリはSS5のステージ12km地点の右5速コーナーでクラッシュ。ドライバー側が木の切り株に激しく当たり、マシンは停止した。ガリは左大腿骨を骨折しており、ヘリコプターでトリーアの病院へ搬送され、その夜の内に手術を受けたが、シーズン中は欠場となった。
ガリのコ・ドライバー、ジョヴァンニ・ベルナッキーニも念のため病院に搬送されて検査を受けたが、何も問題がないことが確認された。

8月24日 ピエトロ・ティンピーニ(メカニック) F1ヨーロッパGP

スペイン・バレンシア市街地で初開催されたF1第12戦ヨーロッパGP。

キミ・ライコネン(フェラーリ)が43周目にピットインを行った際、作業完了前に誤って発進させてしまう。このため、給油担当のピエトロ・ティンピーニが右後輪に巻き込まれ左足骨折の重傷を負った。

9月7日 山中隆司 (2輪) サイドカー

富士スピードウェイで開催された「08クラブマンロードレース」のサイドカー部門にパッセンジャーとして参戦していた山中隆司が、マシンが他のマシンと接触した弾みに投げ出され、頭を強く打って死亡した。

11台が参戦し、8周で争うレースの5周目、時速約160キロで右カーブのコース内側寄りを走行中、外側を走っていた他の車両と接触したもの。

 

2009年

5月10日 マイク・コンウェイ  Mike Conway INDY500

マイク・コンウェイ(イギリス)

インディアナポリス500マイルレースで、10日(セカンドディ)のプラクティス。
この年からインディシリーズ(IRL)に参戦を始めたマイク・コンウェイのマシンがターン1でスピンし、外側のバリアに激しく激突した。コンウェイは脳震盪を起こし、メソジスト・ホスピタルに運ばれたが、13日には無事退院した。

2006年のイギリスF3チャンピオンを獲得し、07,08年はGP2シリーズに参戦。2009年よりインディカーへの参戦を開始したばかりだった。

5月24日 ビトール・メイラ Vitor Meira INDY500

2009indy(ブラジル)

第93回目を迎えた伝統のインディ500決勝レース。
終盤の174周目、ラファエル・マトス(ルクソー・ドラゴン)とビトール・メイラ(AJフォイト・レーシング)がターン1で大クラッシュ。
メイラは腰椎2本を骨折する全治4カ月の重傷を負った。この負傷のため、2009年はレース復帰は絶望視されている。

6月14日 カルロス・パルド Carlos Pardo NASCAR メキシコ
6月14日、メキシコ・プエブラ州で行われたNASCARコロナシリーズ第4戦で、他車との接触からコントロールを失ったバルドのマシンが、ガードレールに激突。
この事故によりドライバーのカルロス・パルドが死亡した。
7月19日 ヘンリー・サーティース Henry Surtees F2 ブランズハッチ

(イギリス)

2009年より開催されるようになった、F2シリーズ第8戦はブランズ・ハッチを舞台に開催された。

ウェストフィールド・ベンドの出口でジャック・クラークが大クラッシュしてウォールに激突。その際、クラッシュしたマシンからホイール(およびタイヤ)が離脱し、後続のサーティースを直撃してしまった。サーティーはアクシデントの衝撃で意識を失ったと思われるが、次のシーン・コーナーでコースアウトしてバリアに衝突した。直後に彼は病院へ搬送されたが、死亡が確認された。享年18歳。
サーティースのヘルメットの右側には、タイヤが直撃した跡が残っていた。

ヘンリー・サーティースは、2輪と四輪(F1)でチャンピオンに輝いたジョン・サーティースの息子。
2008年フォーミュラ・ルノーUKチャンピオンシップとウィンター・シリーズに参戦し、英国F3の最終ラウンドでデビューして、カーリンチームからナショナルクラスに出走して優勝1回表彰台1回をもたらすなど活躍。2009年より新設されたF2シリーズに参戦していて、前日の18日は3位に輝いたばかりだった。

また、F2マシンは2005年のF1の安全基準を満たしたものであり、F1と同様、ホイール・テザーによりホイールはマシンと結ばれていた。

(画像提供はF3000さん)

7月25日 フェリペ・マッサ Felipe Massa F1 ハンガリーGP

マッサ フェラーリF1ハンガリーGPで予選Q2セッション終盤で、フェラーリのフェリペ・マッサが第4コーナーを直進し、タイヤバリアに激突した。
ステアリングを切る様子も見せない異様な状況での事故であったが、マッサは走行中に意識を失っていたことが明らかになる。
予選アタック中のルーベンス・バリチェロ(ブラウンGP)のマシンから、リアサスペンションのパーツ(サードダンパーのスプリング・約800g)が脱落し、4秒後にその場所に通りかかった、マッサの頭部を直撃したのだった。
(画像:左手の上部に写っている影が、マッサを直撃したパーツ)

マッサは、約260kmで走行中であったが、激突の衝撃で脳震盪を起こし意識を消失。それでも反射的にブレーキを踏んでいたらしく。、バリアへの激突時には、スピードはある程度落ちていたのが幸いした。

マッサは、病院に運ばれ左目の負傷や、頭蓋骨骨折が確認され、即座に手術を受け、その後は快方に向かっている。

その後の調査により、脱落したスプリングは、まずフェラーリF60のコックピット前部に当たり、その後コックピットの側面保護構造に当たり、最終的にマッサのヘルメット左側に当たったことが明らかになっている。また、ヘルメットは破損し、マッサは左目上部を負傷していたが、ヘルメットが最新基準の安全性を保っていたことが、一命を取り留める一因とも考えらる。

1週間前に起きた、ヘンリー・サーティースの死亡事故と、マッサの事故という、フォーミュラカーのドライバー頭部を襲った事故は、レースの安全性確保に一石を投じるものかもしれない。

関連情報:マッサ、ハンガリーGP予選中に破片直撃: 連続写真(F1通信)

10月3日

ティモ・グロック Timo Glock F1 日本GP

(ドイツ)

3年ぶりの開催となる、鈴鹿サーキットでのF1第16戦日本GP。
トヨタF1チームのティモ・グロックが予選Q2で走行中、最終コーナーの立ち上がりでアウト側にはらんで行き、コース左側に外れてタイヤウォールに大クラッシュ。セッションは赤旗中断となり、オフィシャルの手によりグロックはマシンから救出、近隣の病院へとヘリコプターで搬送された。
グロックは左足を負傷していて、翌日の決勝レースを欠場した。

また、その後脊髄に損傷を負っていることが判明し、翌ブラジルGPも欠場となり、サードドライバーの小林可夢偉の出場が発表された。

 

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