アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
1974年 富士GC・富士グラン300km (Vol.2)
国内レース史上未曾有の大惨事でありながら、30度バンクの封印、コースの改装とともに風化されつつある「あの日」の出来事 1974年6月2日(富士スピードウェイ)
事故の概要は Vol.1 をご覧ください
■ 予選
決勝前日の6月1日。予選に臨んだのは16台。
他に2台いたが、マシンの不調により後位スタートを選び、予選に参加する事はなかった。予選は黒沢元治(マーチ745/BMW)が速く、高原敬武(マーチ745/BMW)へのスリップ・ストリームの効果も手伝い、1分43秒82を記録。12/100秒、高橋国光(マーチ735/BMW)を凌いでポールポジションを獲得。
トップの黒沢から、計測できた15位の龍正宗(ローラT290/BDG)までの差はちょうど12秒。
風戸裕(シェブロンB26/BMW)は7位、鈴木誠一(ローラT292/BDA)は13位の結果だった。
余談だが、このレースで風戸は使い慣れた88番のカーナンバーを10番に変更。これはJ-GC(ジュニア・グランチャン。GCの登竜門ともいわれるが、タイトル保持者やそれに次ぐ者でなければほぼ誰でもエントリー可能だった)からGC出場を果たした龍正宗が88番で活躍していたため、風戸に上位番号を付けたというのが理由である。しかし、龍のGC参戦は後にも先にもこの一戦のみ。運命のレースでカーナンバーが変更された事は、後々話題の種にもなった。
火種の契機となるタイヤ問題もこの予選で勃発していた。
長谷見、国光、誠一のブリヂストン勢がダンロップに切り替えたのだ。
理由はサービスの待遇差別と言われたが、生沢徹(GRD-VAL-S74F/BMW)が左輪に使用前、右輪に使用後を履かせられるなど、資源危機とはいわれるもののその扱いは酷かった。
結局第1ヒートに進む事が出来た18台のうち、ブリヂストンユーザーは黒沢、高原、風戸、生沢、川口の5名のみとなっていた。
これがレースにどれ程の影響を与えたかは別としても、人間感情を少なからず左右する部分はあったように思われる。
■ 決勝 第一ヒート
翌6月2日は朝から晴天が続き、日光がそれぞれの車に反射して輝いていた。気温は25度を越え、梅雨入り
直前の静岡の気候としては蒸し暑ささえ感じた。
午前11時25分、第1ヒートの幕は切って落とされた。
▲第1ヒートのローリング走行
ペースカーが進路を離れるや轟音とともにストレートを通過する18台のマシン群。
ポールの黒沢はスタートで国光にかわされ、さらに5台に抜かれ瞬間的だが7位まで落ちた。らしくない光景だったが、これには理由があった。
黒沢はオープニングラップのヘアピン手前までには、2位のポジションまで戻っていた。国光のトップは変わらないが、2位黒沢は国光との3秒差をなかなか縮められずに、逆に北野元(マーチ735/BMW)に追い上げられる格好となる。
朱色の車体に白いヘルメットの黒沢、白い車体にジェットヘル&ゴーグルの北野の攻防は
非常に見応えがあり、第1ヒートの観客の視線は国光の独走よりもこの2台に注がれていた。
▲第1ヒート、黒沢(前)北野(後)の攻防
しかし、好事魔多し。北野は低速ギアの不調と左後輪のブローに見舞われ、抜ける場所で抜けないという歯痒い展開を強いられる。
黒沢もバンク走行中の異常振動のためにバンクで速度を落とさざるを得ず、国光が第1ヒートのチェッカーを受けて6秒後、2位でフィニッシュ。
北野は不運に見舞われたが、コンマ5秒の差は保ち続け、結果3位。4位高原がフィニッシュしたのはそれから11秒後で、まさに3台のための第1ヒートといってもいいような展開だった。
事態が急変したのは黒沢がピットでヘルメットを脱いだ直後の事だった。
「なんだあれは!あんなデタラメなスタートはないよ! こっちがスタートを揃えようと抑えているのに、
みんなどんどん抜いていっちゃうんだから。スタート までに6~7台に抜かれたよ」
黒沢の言い分は、国光がスタートラインの前にポールの自分を抜いた事への抗議だった。黒沢はオープニングラップでホームストレートを通過する際、ピットに向け右手を大きく振って意思を示し、チームマネージャーがコントロールタワーへ駆け込む事態に発展していた。
しかし協議長判定はオフィシャルの判定に対する抗議は不問とし、黒沢の抗議を一蹴した。
抗議一色となったドライバーズ・ミーティングは、北野の黒沢を擁護する一言で締められている。
「黒沢くんはちょっと駆け引きをやってたけど、ヒート 1を走り出したらそんな事はなかったよ。ボクが抜く 時も脇をあけてくれたんだ。レースはフェアにやれば いいんだよ」
一方の風戸裕(右の画像)は、開幕戦であったような接戦は見られず(最終コーナーで高原と接触し大幅に順位ダウン、結果4周遅れの10位)、前の高原とは15秒以上、後方の都平健二(シェブロンB23/BDA)に13秒の間隔で、まさに孤高の走りといった展開で、それでも予選より順位を上げ5位でフィニッシュした。
マシンから降りた後のスマートな表情は変わらず、「マシンはまあまあ。第2ヒートでは頑張りますよ」と言い残しピットの奥に消えた。
また鈴木誠一は、エンジンに難があったが、9位でフィニッシュ。
こちらは生沢、米山二郎(シェブロンB23/BDA)とのバトルがあったが、この中で威勢が良かったのは米山であり、開幕戦を彷彿させるような大胆なオーバーテイクで二人をかわし7位でフィニッシュした。
それに5秒遅れて生沢、わずかコンマ5秒差で鈴木がゴールする結果となった。
「前回はギヤがダメだったけど、今回はエンジンが吹けないんですよね。だましだまし走ってたけど、厳しい ね。上位は無理かもしれないが、なんとか頑張ってみますよ」
▲ヘアピンでの鈴木・米山・生沢
■ 決勝 第二ヒート
ランチタイムを終え、第2ヒートの始まる午後2時にならんとしていた。
本番前のタイヤ問題、そして黒沢の抗議で始まった一連のスタート問題は、ドライバー間の不協和音を煽り立てる要素と化していた。
安友競技長は念を押すように「ローリングは正しい姿勢で、前車との間隔を保ち、横にはみださないようにして頂きたい。もし隊列が整わない場合は、整うまでローリングを続けるので、その辺をわきまえて」と説明があった。
黒沢は「あのスタートは公平ではなかった。もしまた、ああいう事があったら走らない」と言い、長谷見が「黒沢君の第1ヒートの走りは悪い。ロー・ギヤでアクセルを開けたり閉じたりしたのでは…」と言って一触即発の場面となるシーンもあった。
黒沢に対しての批判派、擁護派が混在する形となったのは、スタート前のタイミングとしては一番悪かった。
観客側からは感じ取れなかったものの、ドライバー側は第2ヒートに異常なまでの精神状態で臨まざるを得ない結果となったのである。
午後2時。
一周ローリングしてホームストレートに戻ってきた各車だが、隊列が整わない(離れすぎた)との理由でもう一周回る事となった。2時4分55秒、今度はペースカーが横にそれ、加速したマシン群はひしめき合うようにグランドスタンド前を駆け抜けていった。
先頭の国光がトップを譲らず、そのすぐ後方向かって左側に黒沢が位置し、その右側(アウト側)に北野が
併走状態で並んでいる。
その後ろに高原がつけ、高原の陰に隠れて見えないが風戸が位置している。
そして中位、後方集団。
都平がつけ、その陰に隠れるように米山、その脇の白いマシンは生沢、その陰に漆原、鈴木は生沢の後方イン側を走行していた。
事態はこの直後、まさに一瞬のうちに展開された。
2番手争いを演じていた黒沢と北野はラインが一本というバンクへの道標を獲得しようと二度三度側面衝突
し、三度目の衝突で北野車の右サイドカウルが破損、草地での制動と破損カウルへの空気抵抗から車体の挙動を乱し、スピンが始まった。
画像はその決定的瞬間を捉えたものだが、最初に北野
車と接触したのは高原だった。
高原車は左後輪部を
損傷し、コース右側へと滑走し始めている。
画像の先頭は国光、白い車が生沢、アウト側に黒沢、
その内側に都平、その後ろには従野孝司(シェブロン
B23/RE)がいて、長谷見はその隣のイン側を走って
いる。
その後方が修羅場と化していた。
黒沢の背後にいた高原 はリア部からスモークを上げながらイン側へと滑走し 始めており、その後方、風戸と鈴木の間にキリキリ舞い となってスピンしながらコースを横切らんとする北野 の姿が見てとれる。 またイン側では、混乱を避けようと右へハンドルを切っ た米山のノーズカウルを踏みつけるように、川口吉正 (ローラT292-BMW)が後方から突っ込む形となった。
スピンしながらコースを横切った北野車は漆原徳光(マーチ745/BMW)の進路を塞ぐ形となり、漆原はフル
ブレーキングしたものの北野車の後部に追突、ノーズ部分が大きく跳ね上がり、北野車の上に覆い被さる状態となった。
そのまま2台は滑走し、ショートカット入り口(後の第1コーナー)コース上で停止した。
北野は脱出しようとしたが、漆原車の重さに如何ともできない。そのうち車体に火がつき、北野は運命と覚悟したというが、脱出した漆原の助けもあり、何とか被さる車体を動かす事に成功。その直後、満載のガソリンが引火して大きな爆発音とともに火柱が上がった。
この事故にもかかわらず、北野と漆原の命に別状が無かった事は、奇跡と言わざるを得ない。しかし、観客席側本コース付近ではもっと酷い事故が発生していた。
▲焼失した北野・漆原両車
当時、富士スピードウェイのガードレールは、ピットを終えた地点で一旦無くなり、7番ポストから8番ポスト(バンクに進入する手前の下り勾配の直線)の中間付近から再び始まっていた。
風戸車は北野車に接触された後、反時計回りにスピンを始め、再び始まったガードレールの末端と2番目の支柱にフロント部から激突した。
衝撃で末端の支柱は掘り起こされ、2番目の支柱をくわえこんだままガードレールを突き破った。車体に支柱が食い込んでいたため、ガードレールは風戸車の移動と同調して空に向けてめくりあげられた。さらに風戸車は信号灯もなぎ倒し、さらに約50m近く宙を飛び、バンク側に車体後部を向ける形でフェンス際の草地に墜落、炎上した。
▲焼失した風戸車。ノーズ部に食い込んだガードレール支柱が見てとれる
一方の鈴木も、また悲惨な巻き込まれ方をしてしまう。
わずかに先にクラッシュした風戸がその舞台を作ってしまったかのように、鈴木車はほぼ後ろ向きとなってコースアウト、草地で再び前に向き直ったところで3番目のガードレール支柱にフロント部やや運転席よりから突っ込んだ。
風戸車のように遠くまで飛ぶといった事故ではなく、支柱に押えつけられられたかのように激突後は微塵も動かず停止、フロント部は大きく裂け、間もなく風戸車同様大爆発に発展した。
空にめくり上げられていたガードレールが、鈴木車が吹き上げる炎によって焼かれ、アメのようにしなってゆく様はこの世のものとは思えない不気味な光景でもあった。
コース両脇でドス黒い炎を吹き上げる事故現場。
消防隊が出動し、安友競技長は赤旗を提示した。
▲焼失した鈴木車。焼けたガードレールがアメのように鈴木車に絡み付いていた
結果、事故に巻き込まれたのは被害の大小不問とすると計7台に上った。
致命傷を負う結果となった鈴木誠一と風戸裕、そして北野、漆原、高原、米山、川口が結果レースを停止せざるを得なかった。
高原は北野との接触の末滑走し、惰性速度のままバンクに進入、バンク下の草地にマシンを停止。川口車と接触した米山は北野と漆原の事故現場からさらに30mほど先の、後の1コーナーアウト側のグリーン上に停止。米山車と接触した川口は車体損傷により白煙を吹き上げながら蛇行し、バンク入り口、イン側の傾斜が始まる直前あたりにコースとグリーンをまたぐような形で停止した。
彼らは現場で次々に救急車へと収容されたが、大きな怪我もなく済んでいる。
上位走行車の接触により酷い多重事故と化したコース上。
強引な幅寄せをされたと怒り心頭の北野は、事故の衝撃醒めやらぬまま、両側から立ち上る黒煙を背にしてコース上に仁王立ちとなり、両手を広げて上位集団、ことに黒沢車を停止させようと立ちはだかった。
一周回ってきたトップの国光は異変を感じながらも、ここで車群が停止すれば更に混乱に拍車をかけると考えさらに一周通過したうえでピットインするべく、その北野の脇を通過した。
▲事故直後、一周回ってきたマシン群が再び事故現場へと向かっている
少し遅れて黒沢が現場に到着。減速したものの、北野の「止まれ、止まれこの野郎!」の制止を知ってか知らずか、そのすぐ脇を通過していった。
マシンの通過による風圧と、炎上する現場の酷暑に疲労困憊の北野は転倒したが、上半身裸になるとピットまで走って行き、ようやくマシンを降りた黒沢の胸ぐらを掴むや「テメー、俺を殺す気か!」と言うが早く殴りかかる場面も。もはやレースの雰囲気は微塵もなく、そこは修羅場の様相を呈していた。
燃え盛るマシンは、到着した消防車により消火が行われたが、前年同様スタート直後の事、火の勢いは凄まじく折からの風で消火活動は困難を極めた。
火に巻かれた4台はフレームを残してほとんど全焼し、鈴木誠一は事故から5分後の午後2時10分、鎮火した車内に鎮座したままの状態で死亡が確認された。
一方の風戸裕は、あれだけの派手な事故にもかかわらず自らマシンを降り、ヘルメットを脱いだものの昏倒、消化剤で真っ白となった状態で救急車に収容され、御殿場市内の病院に搬送されたものの、事故から30分
後の午後2時35分、死亡確認となった。
両名とも既に炭化が進んでおり、風戸がマシンを自力で脱出する行為は可能であったのか。しかし、現場には風戸のヘルメットが残され、当時撮影された16ミリフィルムには全身から炎を吹き上げ車体から抜け出す人物も映っており、この行動は風戸の最後の姿として、後々まで語り継がれる結果となった。
鈴木誠一37歳、風戸裕25歳。カメラマン一人が重傷を負い、観客4人が火傷を負った事も、悲しみを倍加させる事となった。
■ 30度バンク廃止へ
この事故の顛末は、競技者同士の討ち合いととられてコース管理における非は問われなかった。ガードレールの設置について疑問点もあったが、警察が介入する事が話を更に混乱させ、当事者の黒沢が業務上過失致死に問われる事態にまで発展する。
さらに「日本一のサーキット」といわれた所以である30度バンクは2年連続の惨事の要因を作った事で「長期間使用休止」→「廃止」となった。
この事故は多くの人物の運命をも翻弄した。北野はこの事故から精彩を欠き、以前の速さは見られなくなった。
黒沢も然りで、容疑は事実上の不起訴とされたもののレース関係者との溝は深まる結果となった。
高原も、漆原も。生き残ったドライバー達にとっても、このレースは重く人生にのしかかるものとなっている。
そして命を落とした鈴木、風戸も。
職人気質だが人付き合いも良く、ドライバー皆に慕われた「誠さん」の走りは二度と見られなくなった。そして、当時一番F1に近づいていた風戸も、その勇姿を幻のものとして人々の前から消えていった。前年風戸が提案した「ストレートにシケイン」があったら、運命は変わっていたのだろうか。
昨年(2006年)三十三回忌を迎え、ご遺族としてもひとつの区切りとなった。
また富士スピードウェイは新装され、再びF1を招致できる「日本一のサーキット」を目前に控えている。素晴らしいレースを期待するのは言うまでもないが、33年前に確かに起きた現実、それを忘れてはならない。ありふれた言い方だが…新装が過去を風化させるためだとしたら、それは間違いである。
コース関係者、競技者においては、一層の安全を期して臨んでもらいたい。あの日、確かにここに黒煙が上がったのだから。
(本ページの文章および画像は、2007年にMOZAさんによって提供いただきました。)
風戸裕・鈴木誠一、両名のプロフィールは 1974年富士GC Vol.1 に掲載しています
この事故の模様はレーサーの死(黒井尚志・著 双葉社)でも詳しくレポートされています。
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