アクシデント ~忘れてはいけない記憶~
1969年2月12日 福沢幸雄 TOYOTA7のテスト中の謎の事故死
1969年2月12日、静岡県袋井市に完成したヤマハテストコースではトヨタ7のテスト走行が行われていた。
数周を消化してある程度のデータを確保しており、実質的な全開走行は午後に持ち越されるはずだった。
しかし、スタッフに昼食の誘いを問われた幸雄は「もう1周」とコースに出走。山越えの長いストレートで一気にトップスピードまで上げ、ゆるい全開進入の左ターンに差し掛かった。
時は午前11時45分。
ここでブレーキをかけたか、あるいはギアをひとつ落としたのか定かではないが、進入直前の直線の末端で一瞬白い煙があがるや、コーナーとは反対の右側に凄い勢いで向きが変わり、砂地で大きく砂煙を上げながらバウンドしコース脇の看板に激突、もんどりうって爆発炎上した。
予想外の出来事、現場には救急隊や消防が待機しておらず、幸雄の車はしばらく燃え続ける。自然鎮火により彼は車体から引き出されたが、結果は見て明らかだった。享年25歳。
幸雄の事故は、残骸が回収・廃棄されたようで事故の原因はわからず、これが後々「福沢裁判」と呼ばれる事件の引き金となる。
ただ少ない情報では、トヨタ7と見られていた車が開発途上の新型J6だったという説があり、マシン側の手落ちという説がある。
さらに幸雄の実父の
証言として前日非常にナーバスになっていたという事。「出来るなら明日は走りたくない。中止になってくれれば嬉しいんだが」という言葉を漏らしていたというメンタル的な不安定説がある。
いずれにしても、幸雄の
死亡事故は、これから訪れる日本レース界の暗黒時代の序章だったのかもしれない。
コース脇で炎上する幸雄のマシン。激突で30mも宙を舞い、車体前部はほぼ原型を留めていなかったという。
この事故に対して、トヨタ7を開発していたトヨタ自動車はマシン側の原因を認めず、ドライバーの運転ミスとししたうえで企業秘密の名のもとに情報提供がなされなかったこと、また、警察の事故検証の不手際などが指摘され、のちに福沢裁判と呼ばれる訴訟に発展する。
管理人注:本件事故に関しては、レーサーの死(著者:黒井尚志 出版社:双葉社 )でも、レポートされています。
写真・文章はMOZAさんより提供いただきました)
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