1960年〜1969年
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年月日 |
氏名 |
カテゴリー・場所 |
状況 |
1969年 |
8月10日 |
松永 喬
(まつなが・たかし)
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鈴鹿12時間耐久レース |
猛暑の中開催された鈴鹿12時間耐久レースにホンダR1300で出走。
トップを争っていた終盤、燃料を補給してコースに出た直後(午後8時過ぎ)のスプーンカーブ手前で前のサニーをかわそうとして接触、コース脇のガードレールに激突して炎上した。松永喬は救出されたものの全身大火傷の重傷を負い、25日後の9月4日に死亡した。享年26歳。
詳細ページ:1969年松永喬
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8月1日 |
ゲルハルト・ミッター
Gerhard Mitter
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F1・ドイツGP |
(ドイツ)
F1第7戦ドイツGPの予選にBMWのF2で出場、ニュルブルクリンクの奥深く、アデナウの森に差し掛かる高速ストレートで突然右前輪がホイールごと外れルという事故が発生。マシンは右側駆動が一気に減少したため時速170km/hでスピンし、キャッチネットを突き破ってフェンスに激突。
車体は粉々に粉砕し、ゲルハルト・ミッターは即死した。享年33歳。
F1は1963〜1967年に5回出走、1963年ドイツGPの4位が最高位。マシンはド・ボーフォールから借りたポルシェだった。後年は主にF2の混走レースに参戦。また彼はヒルクライムを得意とし、1966〜1968年は
シリーズチャンピオンにも輝いている。 |
7月27日 |
モイセス・ソラーナ(ソラナ)
Moises Solana
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ヒルクライム |
(メキシコ)
ヴァレ・デ・ブラヴォー・ヒルクライムでCan−amマシンを操縦中に事故死。享年33歳。
F1は1963〜1968年に8回出走し、1964年メキシコGPでロータス・クライマックスを駆っての10位が最高位。
また彼は、1926年のタルガ・フローリオでマゼッティが事故死して以来忌み嫌われていたカーナンバー「13」を自身のF1デビュー戦(1963年メキシコGP)に付けて出場した事でも有名(11位完走)。
地元メキシコは彼の死を悼み、同国のメキシコシティのサーキット、その第1コーナーに彼の名を置いた。
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7月26日 |
レオン・デルニエ |
スパ・フランコルシャン24時間 |
(ベルギー)愛称エルデ。
7月26日、スパ・フランコルシャン24時間で事故死。
享年57歳。戦前からスポーツカーレースに参戦している古参のドライバーだった。 |
6月14日 |
ジョン・ウールフ |
ル・マン24時間 |
(イギリス)
6月14日、ル・マン24時間のスタート直後、クリス・エイモン&ピーター・シェッティ組のFerrari312Pとジョン・ウールフ&ハーバート・リンゲ組のポルシェ917が衝突して大火災事故が発生、ウールフの救出が遅れ死亡した。享年37歳。 |
6月8日 |
ジム・マルホール |
フォーミュラ・アトランティック |
(アメリカ)
6月8日、キャッスル・ロックでのフォーミュラ・アトランティック・レースで事故死。 |
5月26日 |
ポール・ホーキンス
Paul Hawkins
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GT ・ イギリス |
(オーストラリア)
5月26日、イギリスのオールトン・パークで開催されたGTレースでクラッシュし死亡。享年31歳。
F1は1965年に3回出走し、デビュー戦の同年開幕戦南アフリカでの9位が最高位。またホーキンスはは1965年のモナコGPでマシンごと海に飛び込むという、1955年のアルベルト。アスカリを彷彿とさせる珍事も起こしているが、この時は腕の打撲のみで無事だった。
(右の画像は、ホーキンスのダイブ事故をモデルにした映画「グランプリ」内の1シーン)
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3月30日 |
ルシアン・ビアンキ
Lucien Bianchi
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ルマン・テストデイ |
(ベルギー)本名ルチアーノ・ビアンキ。
ル・マン・テストデイでアルファロメオを駆り走行中、ミュルサンヌ・コーナー手前でスロットルが戻らなくなり、強引にスピン。それでもマシンは止まらずコーナーを直線的にコースアウトし、コース脇の電柱に激突、即死した。享年34歳。
F1は1959〜1968年に17回出走し、1968年モナコGPの3位が最高位。スポーツカーレースにも定評があり、F1よりもこちらのカテゴリーで人気があった。WSCでは1962年セブリング12時間、1964年ツール・ド・フランス、1965年ニュルブルクリンク500km、1968年ワトキンズグレン6時間、1968年ル・マン24時間など数々の優勝を記録している。
1965年ニュル500kmは兄弟マウロがチームメイトでの優勝だった。
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3月26日 |
クリス・ウィリアムズ |
F2・テスト |
(イギリス)
シルバーストーンでF2の練習走行中に事故死。享年29歳。 |
2月12日 |
福沢幸雄 |
テスト(ヤマハ・テストコース) |
(ふくざわ・さちお)
静岡県袋井市に完成したヤマハテストコースで行われたトヨタ7のテスト走行中。日本グランプリに向けてテストを行っていた、福沢幸雄のトヨタ7は、急激にコントロールを失いコースアウト。看板に激突するとマシンは爆発した。現場には救急隊や消防が待機しておらず自然鎮火後に車体から引き出された福沢幸雄はすでに死亡していた。享年25歳。
当時、トヨタとヤマハはドライブミスとする見方を示したが、事故後の現場検証が企業機密の名の下にほとんど行われず、後の福沢裁判で大いに争点となっている。現在ではブレーキなどのマシントラブルまたはマシンの設計ミスとする見方が有力となっている。
詳細ページ:1969年福沢幸雄
関連書籍:レーサーの死
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1月26日 |
畠山孝一 |
富士スピードウェイ |
(はたけやま こういち)
富士100キロロードレースで事故、翌27日に死亡。享年20歳。 |
1968年 |
1968年 |
クリス・アーウィン
Chris Irwin
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ニュルブルクリンク1000km 予選 |
(イギリス)本名:クリストファー・アーウィン。
WSC(ワールド・スポーツカー・チャンピオンシップシリーズ)第6戦ニュルブルクリンク1000kmにペドロ・ロドリゲスと組んでアラン・マン・レーシングのフォードF3L-P68で参戦。フ予選中にコースアウトし横転、マシンは天地が逆で地面に激しく激突した。クリス・アーウィンは頭部を激しく損傷しており、懸命の手術の結果一命は取り留めることが出来た。しかし脳へのダメージの後遺症が大きく、レースにカムバックすることは無かった。
F1は1966〜1967年に10回出走。ブガッティ・サーキットでのフランスGPで5位入賞を果たしたのが最高位。この事故の4週間前に開催されたの欧州F2選手権第5戦ニュルブルクリンクでの「ADACアイフェルレンネン」では優勝を記録している。
画像左上はクラッシュ後のマシン(ヒデさん提供) |
10月10日 |
渡辺 彰 |
富士チャンピオンレース |
富士チャンピオンレース第10戦で事故死。享年24歳 |
8月30日 |
アブ・ゲーテマンズ |
ニュルブルクリンク500km |
(オランダ)
8月30日、ニュルブルクリンク500kmの予選走行中に事故死。 |
7月28日 |
クリス・ランバート |
F2 |
(イギリス)
7月28日、欧州F2選手権第12戦の「グローテ・プリーズ・ヴァン・ザンドフールト」にブラバムBT23Cで出走、10周目に単独事故を起こして死亡。享年24歳。 |
7月7日 |
ジョー・シュレッサー
Jo Schlesser
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F1・フランスGP(ルーアン) |
(フランス)
雨のルーアンで開催されたF1第6戦フランスGPに新開発のホンダ空冷RA302で出走。
3周目の右コーナーで直線的にコースを外れ土手に激突、土手を沿うように滑りながら爆発炎上。激しい火災のため消火もままならず、炎の中で絶命した。享年40歳。
F1は1966〜1968年に3回出走。ただし1966・67年はF2マシンでのドイツGPスポット参戦で、実質的なF1デビュー戦での死亡事故となってしまった。
この事故を引き金にして、ホンダは第一期F1活動を休止することになった。
(左は、爆発炎上するHONDA・RA302)
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6月9日 |
ロニー・デューマン |
インディカー |
(アメリカ)
6月9日、ミルウォーキーでのインディカー・レースで事故死。享年36歳。
インディ500は通算5回出場しており、1968年の6位が最高位。
1964年、1966年と二つの60年代を代表する大事故に巻き込まれた、数少ない
一人でもあった。(画像は1967年インディ500出走時のもの) |
6月8日 |
ルドビコ・スカルフィオッティ |
ヒルクライム |
(イタリア)愛称ルル。
ドイツ・ロスフェルドでの欧州ヒルクライム選手権、レース名「インターナショナラー・アルペン・ベルグプレイス・ホーヘンリンク・シュトレーゼ」でポルシェ910/68ベルグスパイダーに乗りプラクティス走行中、コース中盤の右カーブを曲がり切れずにマシンごと横転しながら谷底へ転落、茂った林の中に飛び込んで全壊した。
車体は転落中に分解して原型を留めず、ドライバーはマシンから約50m投げ出された状態で即死した。事故現場の路面上に60mものブレーキ痕があり、ドライバーのミスか、マシンのトラブルかは今となっては謎である。
この右コーナーは4速にギアを落とすそうだが、残骸の中から発見されたギアは5速を示していたという。享年34歳。
F1は1963〜1968年に10回出走し、優勝は1966年イタリアGPの1回。フェラーリに乗るイタリア人ドライバーのイタリアGP優勝は、彼以降出現していない。 |
5月19日 |
ディッキー・ストゥープ |
GTレース |
(イギリス)
5月19日、クロフトでのGTレースで事故死。享年41歳。
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5月7日 |
マイク・スペンス
Mike Spence
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INDY500(テスト) |
(イギリス)本名マイケル・スペンス。
ワークスBRMからF1に参戦していたマイク・スペンスだったが。、同年4月に事故死したジム・クラークに代わってロータス(Lotus 56)でIndy 500を目指した。
しかしインディアナポリスでのテスト中、同僚グレッグ・ウェルドのロータス56タービンに乗りテスト走行中、第1ターンでコントロールを失い外壁に激突、その際外れた右前輪が彼の頭部を直撃した。すぐさまメソジスト病院に運ばれたものの、4時間後に
死亡が確認された。享年31歳。
F1は1963〜1968年に36回出走し、1965年メキシコの3位が最高位(ロータス)。非選手権F1では1965年の第1回レース・オブ・チャンピオンズ(ブランズハッチ)
で優勝経験があった。 |
4月7日 |
ジム・クラーク
Jim Clark
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F2・ホッケンハイム |
(イギリス)本名ジェームス・クラーク
1960・65とF1チャンピオンに輝いたジム・クラークはドイツのホッケンハイムで開催された欧州F2選手権第2戦(ヨーロピアン・トロフィー開幕戦)の「マルティニ・ゴールドカップ」に参戦。
2ヒート制で施行されたレースの1ヒート4周目、そぼ降る雨の中旧ホッケンハイムの第1シケインと呼ばれた地点(この当時はシケインが無かった)でコースアウト、土手に乗り上げて飛び上がり奥の森へと突っ込み、立ち木に当たってコース脇グリーンに跳ね返された。マシンは左側面から甚大な損傷を受けており、クラークは思慕した。享年32歳。。突然の事故の原因は不明。
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2月中旬 |
レオ・チェッラ
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テスト |
(イタリア)
2月中旬、バロッコでのスポーツカーのテスト走行中に事故死。享年31歳。 |
1967年 |
11月19日 |
アルセニオ・ラウレル |
マカオGP |
(フィリピン)
11月19日、マカオ・グランプリで事故死。1962・63年のマカオGPを連覇した危篤を持つ。 |
9月24日 |
徳永竜紀 |
富士チャンピオンレース |
(とくなが たつのり)
富士チャンピオンレース後期第3戦で事故、翌25日に死亡。享年27歳。 |
9月24日 |
ゲイリー・コングドン |
ミジェットカー |
(アメリカ)
ヴィゴ・カウンティでのミジェットカー・レースで事故死。享年30歳。
(画像は1966年インディ500出走時のもの) |
9月17日 |
ジャン・ローラン |
テスト |
(フランス)
9月17日、モンレリーでスポーツカーのテスト走行中に事故死。享年32歳。 |
8月27日 |
アクセル・ペレヌード |
ヒルクライム |
(スイス)
8月27日、スイス山岳のオーロン・ヴィラーズ・ヒルクライムにシェルビー・コブラでエントリー。予選中にコースを外れ谷底に転落して即死。 |
8月14日 |
ボブ・アンダーソン
Bob Anderson
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テスト F1 |
(イギリス)本名ロバート・ヒュー・フェアロン・アンダーソン
シルバーストーンでF1の練習走行中に事故死。享年36歳。
レース界からの引退をほのめかしていた矢先の事故だった。
元々は2輪の出身。F1は1963〜1967年に25回出走し1964年オーストリアGPの3位が最高位。マシンはプライベートのブラバムだった。 |
7月30日 |
イアン・レイビー
Ian Raby
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F2 |
(イギリス)
欧州F2選手権の第26戦「グローテ・プリーズ・ヴァン・ザンドフールト」(ザンドフールト・サーキット)にブラバムBT14・フォードで出走。序盤5周目
にタルザン・ヘアピン通過後のS字コーナーでクラッシュして重傷を負い、三ヶ月間昏睡状態を彷徨った末11月7日に死亡。享年43歳。
F1は1963〜1965年に3回出走し、1965年イギリスGPの11位が最高位。マシンはプライベートのBRM。
また、1957年のル・マン24時間にもジャック・ブラバムと組みクーパーで出場経験がある(73周遅れの15位) |
7月30日 |
ティム・キャッシュ |
F3 |
(イギリス)
欧州F3選手権第66戦目(全103戦)の「シルクイット・デ・モンテス・クラロス・グランデ・プレミオ・デ・ポルトガル」(モンサント・サーキット)にマーリンMK9/10・フォードで出走、序盤16周目に同僚のマーティン・ステファニと接触してコースを外れ横転し死亡。 |
7月30日 |
ダグ・レヴソン |
スポーツカー |
(アメリカ)
7月30日、デュルスランドリングでのスポーツカー・レースで事故死。享年26歳。 |
7月23日 |
エリック・ド・カイン |
スパ24時間 |
(ベルギー)
スパ24時間の事故で重傷を負い、5日後の7月28日に死亡。下記のルースの事故との因果関係は不明。 |
7月23日 |
ウィム・ルース |
スパ24時間 |
(オランダ)
7月23日、スパ24時間で事故死。享年21歳。 |
7月22日 |
ギュンター・クラス |
WSC |
(ドイツ)
WSC第9戦のムゲロGPでFerrari Dino206SPを駆りエントリー、予選中にクラッシュ、炎上して死亡。享年31歳。 |
6月18日 |
ジャコモ・ルッソ(ジェーキ又はゲキ(GEKI))
フェール・ビート
ジュゼッペ・ロマーノ・ペルドーニ
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イタリアF3 |
イタリアF3第9戦の「コッパ・ドーロ・パスクアーレ・アマト」(カゼルタサーキット)にマトラMS5・フォードで出走したジャコモ・ルッソ(イタリア)だったが、スタート直後の多重事故で炎上し即死。享年29歳。
イタリアF3を1961年から4連覇した実績を持つ。
F1は1964〜1966年に2回出走し、1966年イタリアGPの9位が最高位。
また、同じ多重事故に巻き込まれたブラバムBT18・フォードのフェール・ビート(スイス)、デ・サンクティス・フォードのジュゼッペ・ロマーノ・ペルドーニ(イタリア)の2人も死亡した。
(画像はジャコモ・ルッソ
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6月4日 |
ボーレイ・ピッタード
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イタリアF3 |
(イギリス)
イタリアF3第7戦の「コッパ・デル・オートドローモ・ディ・モンツァ」にローラT64・フォードで出走したが、スタートライン上でクラッシュ、炎上し、全身の火傷で6日後の6月10日に死亡した。享年29歳。 |
5月7日 |
ロレンツォ・バンディーニ
Lorenzo Bandini
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F1・モナコGP |
(イタリア)
F1フェラーリチームで活躍した、イタリア人ドライバー。モナコGP中、ヌーベルシケインでクラッシュし炎上。3日後の5月10日に死亡した。
その後、フェラーリに乗るイタリア人ドライバーは、ミケーレ・アルボレートまで現れることは無かった。
現在も、傑出したF1ドライバーに毎年贈られる「ロレンツォ・バンディーニ賞」として、その名を残している。
関連ページ:ロレンツォ・バンディーニ |
1月20日 |
ビリー・フォスター |
ストックカー |
(カナダ)
リヴァーサイドで開催されたストックカー・レースの予選中に事故死。享年29歳。
インディ500は1965・66年の通算2回出場しているが、66年の大会ではスタート直後の11台が巻き込まれた多重衝突の原因を作ったとして非難の的となったりもした |
1966年 |
11月12日 |
ドン・ブランソン
ディック・アトキンズ
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ミジェットカー |
(共にアメリカ)
アスコットでのミジェットカー・レースでドン・ブランソンとディック・アトキンズのマシンが接触。ドン・ブランソンはコース外に弾き飛ばされて死亡。享年46歳。
また、ディック・アトキンズも接触後にフェンスに激突、コースに跳ね戻ったところに後続車に次々と追突され、ロールバーが折れる程の衝撃を受け死亡。享年28歳。
ドン・ブランソンはインディ500にも1959年から1966年まで8回連続出場していて、1960年の4位が最高位。また1961年には予選2位、63年には予選3位も獲得している。(画像は1960年インディ500出走時のドン・ブランソン)
ディック・アトキンズは、インディ500への出走経験こそないが、亡くなる2週間前のサクラメントでのインディカー・レースでは自身最初で最後の優勝を飾っていた。 |
9月4日 |
ドン・スコグモ |
スポーツカー |
(アメリカ)
9月4日、ロード・アメリカでのスポーツカー・レースで事故死。 |
8月17日 |
ケン・マイルズ |
テスト |
(イギリス)
8月17日、リヴァーサイドで練習走行中に事故死。享年47歳。 |
8月7日 |
ジョン・テイラー
John Taylor |
F1 ドイツGP |
(イギリス)
F1第6戦ドイツGPにブラバム・BRMで参戦。スタートして間もなくコースアウトしクラッシュ、炎に包まれる。その場にいた消防隊と一部の観客によって救助され病院に搬送されたが、ひどい火傷のため約一ヶ月後の9月8日に死亡した。享年33歳。
F1は1964〜1966年に5回出走し、1966年フランスGPの6位が最高位。 |
6月11日 |
ジャド・ラーソン |
スプリントカー |
(アメリカ)
6月11日、レディングでのスプリントカー・レースで事故死。享年43歳。
インディ500は通算2回出場しており、1958年8位、1959年29位(45周第3ターンでの多重事故)の記録が残る。 |
5月14日 |
チャック・ロディー |
インディ500 |
(アメリカ)本名チャールズ・J・ローディンガー
インディ500のプラクティス走行中、第1ターンでスピンし外壁に激突、裏返しになり滑走した。病院に搬送されたが、2時間後に頭部の怪我が元で死亡。享年38歳。
インディ500には、1962・65年の2回出場していて、3回目の出場をめざしていたところだった。
(画像は1965年インディ500出走時のもの) |
5月3日 |
永井賢一 |
富士スピードウェイ |
富士で開催された第3回日本GPの「特殊ツーリングカーレース部門」に出走した当時現役大学生の永井賢一(ベレットGT)は、折からの強風に煽られ30度バンクの中間で外側ガードレールに押しやられて接触、勢いでそれを突き破り、約100m下に転落、全身挫折で即死した。享年24歳。
画像は事故の瞬間をとらえたもの(johnさん提供)ガードレールを踏み台にするようにジャンプしてコースアウトしている。 |
5月1日 |
ジャック・ベルヌセー |
F3 |
(フランス)
5月1日、マニ・クールでのF3レースで事故死。 |
4月28日 |
ディック・プロセロー |
テスト |
(イギリス)
オールトン・パークでのツーリスト・トロフィーレースに向けての練習中事故死。享年44歳。 |
4月2日 |
ウォルト・ハンスゲン
Walt Hansgen
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ル・マン |
(アメリカ)本名ウォルター・ハンスゲン。
4月2日、ル・マン・テストデイでフォードに乗り疾走中クラッシュ、重傷を負い5日後の4月7日に死亡。享年46歳。
F1は1961・64年のアメリカGPに参戦し、1964年のアメリカGPで負傷したピーター・アランデルの代役としてロータス・クライマックスで3周遅れの5位入賞となったのが最高位。
インディ500にも1964〜65年に参戦している。また、WSCには、1950年代初頭から地元アメリカのレースを主体に活躍、1963年ブリッジハンプトン500km2位、1964年ブリッジハンプトン500km優勝、1966年セブリング12時間2位などの成績を残している。、
世界三大レースカテゴリー(F1・インディ・WSC)に挑戦した数少ない一人だった。 |
3月26日 |
ボブ・マクリーン |
セブリング12時間 |
(カナダ)
WSC第2戦セブリング12時間に同郷のジャン・オーレットと組みフォードGT40で参戦中、83周目(優勝周回228周)に単独事故を起こして死亡。 |
1965年 |
10月10日 |
三野 猛
(みつの・たけし) |
鈴鹿サーキット |
鈴鹿で開催されたKSCCオール関西チャンピオンレースにて事故死。 |
9月6日 |
ブレーン・シケン |
NASCAR |
(アメリカ)
ダーリントンで開かれたNASCARグランドナショナルシリーズ第45戦「ソウゼーン500」にフォードで参戦中、スピン。コース上を滑走中、後続車両がマシン横っ腹にもろに激突、大破した。すぐさま救出されたものの、シケンは致命傷を負っており1週間後の9月13日に死亡した。享年28歳。
この年NASCARにデビューを果たしたばかりだった。 |
8月20日 |
浮谷東次郎
(うきや・とうじろう |
練習走行(鈴鹿サーキット) |
鈴鹿サーキットにてホンダS600で練習走行中、コースに入り込んだ観客を避けようとして事故死。
150R(現在の130Rを走行中にコース上にいた人を避けるために急ハンドルをきり、バランスを崩したS600は片輪を浮かせた状態で水銀灯に激突。シートベルトを装着していなかった浮谷東次郎は投げ出されて、頭蓋骨、両足を骨折。それに伴う脳内出血のため翌21日に死亡した。享年23歳。
なお、当時はシートベルトの装着が義務化されておらず、非公式な練習走行と言うこともあって、シートベルトを装着していなかったものと思われる。
また、コース上に入り込んだ人物は、観客という説と、同時にテストしていたドライバーだったという説がある。 |
7月17日 |
アダム・ウィリー |
レインスター・トロフィー |
(イギリス)
7月17日、ダンボインでのレインスター・トロフィーで事故死。享年25歳。 |
5月25日 |
ブルーノ・デゼルティ |
テスト |
(イタリア)
5月25日、モンツァでスポーツカーのテスト走行中に事故死。享年23歳。 |
5月16日 |
トニー・ヘグボーン |
スパ500km |
(イギリス)
WSC第8戦スパ500kmにアルファロメオ・ジュリアTZを駆って単騎走行中の26周目にタイヤトラブルからクラッシュ、頭部に重症を負い、46日後の
7月1日に死亡した。享年33歳。 |
5月23日 |
ホノーレ・ワグナー |
ニュルブルクリンク1000km |
(ルクセンブルク)
WSC第9戦ニュルブルクリンク1000kmに同郷のニコラス・コーブと組みアルファロメオ・ジュリアTZで参戦中、19周目に前方を走っていたウィリアム・
ブラッドリー&デビッド・プロフェット組のトライアンフからホイールが脱落、それを避けようとコントロールを失いガードレールにクラッシュ、即死した。 |
4月25日 |
トミー・スピシガ |
モンツァ1000km |
ー(スイス)
WSC第5戦モンツァ1000kmに同郷のハーバート・ミューラーと組みフェラーリ365P2で参戦中、33周目にクラッシュから火災が発生、トミー・スピシガは救出はされたものの間もなく死亡した。享年不明。 |
4月10日 |
ラッキー・カスナー |
ル・マン24(テストデイ) |
(アメリカ)
4月10日、ル・マン・テストデイでシェルビー・コブラで走行中、ミュルサンヌで事故死。享年39歳。 |
3月1日 |
ロッキー・トレサイス |
タスマン・シリーズ |
(オーストラリア)
ロングフォードでのタスマン・シリーズ第7戦オーストラリア・グランプリでクーパー・クライマックスを駆っていたが1周目に他車と接触、クラッシュし死亡。 |
2月21日 |
レックス・デビソン |
タスマン・シリーズ |
(オーストラリア)
2月21日、サンダウン・パークでのタスマン・シリーズ第6戦でブラバム・クライマックスを駆り疾走中に事故死。享年42歳。前戦リタイアの原因となったステアリングの故障が原因と思われている。 |
1月5日 |
ビリー・ウェイド |
ストックカー(テスト) |
(アメリカ)
1月5日、デイトナ・オーバルでストックカーの練習走行中に事故死。享年34歳。 |
1964年 |
11月28日 |
ボビー・マーシュマン |
テスト・フェニックス |
(アメリカ)
フェニックスでのインディカー練習中に事故で重傷を負い、6日後の12月4日に死亡。享年28歳。
インディ500は1961〜64年に4回連続出場していて、決勝では1962年の5位が最高。しかし、1964年には予選2位を獲得していた。
(画像は1962年インディ500出走時のもの ) |
10月11日 |
ペーター・リンドナー
ジャンフランコ・パトリア
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パリ1000km |
モンレリーで開催されたWSC第20戦(最終戦)パリ1000kmで中盤83周目、接触事故が発生。ペーター・リンドナー(ドイツ)のジャガーと、ジャンフランコ・パトリア(イタリア)のアバルト・シムカの接触事故となり、2人のドライバーは共に死亡した。パトリア享年23歳、リンドナー享年不明。 |
9月20日 |
ジャン・ブランシュ |
ツール・ド・フランス |
(フランス)
9月20日、WSC第17戦ツール・ド・フランスで同郷のミッシェル・フォージュレイと組み、アルファロメオで走行中の2周目に事故死。 |
9月 |
ジム・パーデュー |
テスト |
(アメリカ)
9月、シャーロットでストックカーの練習走行中に事故死。享年不明。 |
8月1日 |
カレル・ゴダン・ド・ボーフォール伯爵
Carel Godin de Beaufort
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F1 ドイツGP |
(オランダ)本名はヨンクヘイヤー・カレル・ピエター・アントニエ・ハン・ヒューベルト・ゴダン・ド・ボーフォール
ニュルブルクリンクでのF1第6戦ドイツGPのポルシェで参戦。予選走行中にコースを外れ、コース脇の法面を転落、防護ネットを突き破り樹木に激突して逆立ちとなった状態で停止した。車体にそれ程のダメージはなかったが、ボーフォール伯爵はマシンから投げ出され病院に運ばれたものの、二日後の8月3日に死亡した。享年30歳。
1964年ドイツGP予選で死亡したド・ボーフォール
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7月25日 |
ピエロ・フラスコバルディ |
スパ24時間 |
(イタリア)
7月25日、スパ24時間で事故死。享年28歳。 |
6月初頭 |
グレン・ロバーツ |
ストックカー |
(アメリカ)愛称ファイヤーボール。
6月、シャーロットでのストックカーレースの事故で頭部に重傷を負い、一ヶ月あまり後の7月初旬に死亡。享年33歳。 |
5月30日 |
ジークフリード・ギュンター
ブライアン・ヘトリード
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ニュルブルクリンク1000km |
ジークフリード・ギュンター(ドイツ)
WSC第7戦ニュルブルクリンク1000kmに同郷のウィルヘルム・モーザーと組みポルシェ904でエントリーしたが、予選走行中にエンジン部から火災が発生、脱出が遅れて死亡した
ブライアン・ヘトリード(イギリス)
ギュンターの事故の少し後、アストン・マーティンDP214を駆って予選走行中ブライアン・ヘトリードが最終コーナーでコースアウト、ガードレールに激突しヘトリードは即死した。
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5月30日 |
エディー・ザックス
デイヴ・マクドナルド
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INDY500 |
1周目の第4ターン立ち上がりでコントロールを失ったデイヴ・マクドナルド(トンプソン・フォード/ No.83)がスキッドしながら内側ウォールに激突炎上。コースをふさぐ形になったところへエディー・ザックス(ハリブランド・フォード/No.25)、ノーム・ホール、ボビー・アンサー、ロニー・デューマンの4台が次々と突っ込んだ。
破れたタンクからはじけた燃料は空中に四散してたちまち誘爆、火炎と黒煙は客席にまで達する未曾有の大火災となった。
ザックスとマクドナルドは激突の衝撃および熱傷により死亡した。ザックス享年35歳、マクドナルド享年26歳。
左の画像はエディー・ザックス(クロスノフさん提供)
関連ページ: 1964年 INDY500での大炎上事故
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2月28日 |
ティミー(ティム)・メイヤー
Timmy Mayer
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タスマン・レース |
(アメリカ)本名ティモシー・メイヤー。
かつてのF1マクラーレンチームのチームマネージャー、テディ・メイヤーの弟。
ロングフォードでのタスマン・レース予選中の事故で重傷を負い、翌29日に死亡。享年26歳。
F1は1962年のアメリカGPにクーパーで1戦のみの参戦。前半32周目にギヤボックスのトラブルでリタイアしている。
しかし、この年から再びクーパーからF1に参戦する運びとなっていたが、その矢先の不幸だった。 |
1月19日 |
ジョー・ウェーザリー |
ストックカー・レース |
(アメリカ)
1月19日、リヴァーサイドでのストックカー・レースで事故死。享年41歳。
ジョー・ウェーザリーの父クレイ・ウェーザリーも1935年のインディ500で事故の為、命を落としている。 |
1963年 |
6月15日 |
ビーノ・ハインツ |
ル・マン24時間 |
(ブラジル)本名クリスチアン・ビーノ・ハインツ。
ル・マン24時間にジョゼ・ロシンスキ(フランス)と組みアルピーヌ・ルノーで走行中の50周目、前でクラッシュしていたボネット・エアロジェット(ジャン・ローランド&ジャン・ピエール・マンゾン組)を避けようとしてガードレールに激突、即死した。 |
6月2日 |
アレン・クロウ |
スプリントカー |
(アメリカ)
6月2日、ニュー・ブレーメンでのスプリントカー・レースで事故死。享年34歳。
インディ500は通算2回出場しており、1962年…31位(17周メインストレートでクラッシュ)1963年…27位(47周第1ターンでクラッシュ)
死亡事故は、インディ500から僅か3日後の惨事だった。
(画像は1963年インディ500出走時のもの) |
5月4日 |
浅野正雄 |
日本GP/鈴鹿サーキット |
記念すべき日本の大レースイベントが鈴鹿サーキットにて
開催された。第一回日本グランプリと冠ぜられたこの大会の国内スポーツカー部門(2000cc以上)に参加した浅野正雄選手(ヒーレー3000)は、150R(現在の130R)と呼ばれる高速コーナー手前でコースアウト、ガードレールを破壊して立体交差下のコース上に転落した。
浅野正雄は車外に投げ出され、頭部に重症を負って三ヶ月後の8月下旬に死亡した。年27歳。 |
2月下旬 |
ファン・ガルベス |
ロードレース |
(アルゼンチン)
2月下旬、地元アルゼンチン国内のロードレースで事故死。享年49歳。 |
1962年 |
11月1日 |
リカルド・ロドリゲス
Ricardo Rodriguez
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F1・メキシコGP(非選手権) |
(メキシコ)
神童と言うべきキャリアを持ち、1961年に19歳でフェラーリからデビュー。1962年にはレギュラーシートを確保し、その才能に大きな期待が寄せられていたリカルド・ロドリゲス。
地元メキシコで開催されたF1メキシコGP(非選手権)にロブ・ウォーカーチームのロータスで参戦、予選走行中、最終コーナーを最後まで曲がりきれずにコースアウト、ガードレールに激突して車体から放り出され死亡した。享年20歳。
このレースは彼が所属していたFerrariがエントリーしなかったため、代わりに乗ったロータスで起きた悲劇だった。
F1は1961〜1962年に5回出走したにとどまり、1962年ベルギーGP
の4位が最高位。デビュー戦の1961年イタリアGPでは予選2位となっている。
また、スポーツカーレースにも多く参戦し、兄ペドロと組みオスカでル・マン24時間に参戦したのはわずか17歳の時だった。(この最年少記録はいまも破られていない)
時は流れ、リカルドの兄ペドロ・ロドリゲスも1971年にサーキットで死亡することになる。
関連サイト:サーキット徒然草・129周目:ロドリゲス兄弟を聴け
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10月19日 |
ポール・アルマニャク |
パリ1000km |
(フランス)
WSC第14戦パリ1000km(モンレリー)の予選走行中に事故死。享年38歳。 |
10月14日 |
パット・ピゴット |
スポーツカー |
(アメリカ)
リヴァーサイドでのスポーツカー・レースで
事故死。享年37歳。 |
9月16日 |
マルチェロ・デ・ルーカ
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FJ |
(イタリア)
モンツァで開催された欧州FJ選手権の通算60戦目(イタリアFJ選手権第10戦目)「コッパ・ジュニオ」で、スタート直後にマルチェロ・デ・ルーカのダグラーダ・ランチアとガストーネ・ザナロッティのスタンジェリーニ・フィアットが衝突し、デ・ルーカが致命傷を負い死亡。
スポーツカーレースだった。
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8月24日 |
ショーティー・テンプルマン |
ミジェットカー |
(アメリカ)
本名クラーク・テンプルマン。背が低いところからショーティー(Shorty)が愛称だった。
8月24日、マリオンでのミジェットカー・レースで事故死。享年43歳。
インディ500は通算5回出場しており1961年の4位が最高。
(画像は1961年インディ500出走時) |
8月19日 |
ジャン・ルシアンボネ(ルシェンボネット)
Jean Lucienbonnet
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FJ |
(フランス)
本名Jean Bonnet
。「Lucien」は兄弟の名前で、本名にそれを付け足した名を登録名とした。欧州FJ選手権の通算49戦目(うちイタリアFJ選手権第9戦目)「グラン・プレミオ・ディ・ペルグーサ」でロータス22・フォードで走行していたジャン・ルシアンボネが事故死。
享年39歳。
F1にも1959年のモナコGPに1戦だけプライベート・クーパーでエントリーしたが、予選落ちに終わっている。
注;レースはルシアンボネの単独事故として扱われています。しかし、事故周回の記述が無いものの、彼のすぐ下のリザルトにあるノルベルト・バナラスタ(ロータス20)のリタイア原因がホイールの脱落とある事から、二次災害の可能性もあります。
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8月10日 |
エメット・ハワード・ヘレ |
アメリカ |
(アメリカ)
ノースカロライナ州ローリーでのローカルレースに参戦中、低速でコースアウトしガードレールに側面をこするようにクラッシュ。傍目にはドライバーにタメージのないものと思われたが、脱出してこないためマーシャルが駆け寄ると、すでに死亡していた。
後に判明した死因は心不全。彼は慢性の心臓疾患を抱えていた事も判明した。享年42歳。 |
8月5日 |
ドン・デービス |
スプリントカー |
(アメリカ)
8月5日、ニュー・ブレーメンでのスプリントカー・レースの事故で重傷を負い、三日後の8月8日死亡。享年28歳。
インディ500は1961・62年に通算2回出場し1962年は4位に入賞していた。 |
7月29日 |
ダグラス・レックス・ロイヤル |
ドラッグカー アメリカ |
(アメリカ)
カリフォルニア州フレモントでのドラッグカー・レースに参戦。制動装置が働かず巡航速度のままコース脇のガードレールを突き破り即死。享年28歳。 |
7月14日 |
シャーリー・ローズ |
ストックカー アメリカ |
(アメリカ/女性)
7月14日、ニューヨーク州ランカスターでのダート・ストックカー・レース「パウダー・パフ・ダービー」に参戦。レース中他車と接触してガードレールに激突、もんどりうって横転した際、車外に投げ出されて死亡した。享年20歳。 |
7月7日 |
ブルース・ウッドコック |
ドラッグカー アメリカ |
(アメリカ)
カリフォルニア州エル・モンテでのドラッグカー・レースに愛称「レイカース」で参戦。スタートが切られる前に発進してしまい、制動作業もままならずコース脇ガードレールに激突して爆発、コクピット部分も分解しウッドコックは車外に投げ出された。すぐさま病院に搬送されたが、間もなく死亡。享年22歳。
(画像は彼の乗っていた「レイカース」) |
7月1日 |
ピーター・ライアン
Peter Ryan
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FJ ランス
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(カナダ)
欧州FJ選手権の通算37戦目「クプ・インテルナショナーレ・ド・ヴィテッセ・デ・ジュニア」。レースは10周に8300mをプラスした距離を2回走る2ヒートとして行われ、残った上位30台で最後10周走るという変則的ルール。(これは、出走台数が64台と多かったための措置だった。)
事故は1ヒートの4周目に発生し、ライアン(ロータス)がビル・モス(ジェミニ)を抜こうとして接触し、さらに後続のソレン・ノア(ロータス)が突っ込むという状況で発生、ライアンのマシンは横転する事故となった。ライアンは翌7月2日に死亡した。享年22歳。
F1は1961年のアメリカGPにプライベート・ロータスで1戦のみのスポット参戦、5周遅れの9位完走という結果が残る。1962年のデイトナ3時間では名手スターリング・モスと競り勝った事もある有望株だった。
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7月1日 |
ヒュー・ランドール |
インディカー |
(アメリカ)
ペンシルベニア州ラングホーンでインディカーを使用したオーバルダート・レース「ラングホーン100マイル」にKK4000・オッフィーで参戦中、他車と
接触して大破し死亡。享年28歳。 |
6月17日 |
スタン・ボーマン |
スプリントカー アメリカ |
(アメリカ)
インディアナ州テレホートにてスプリントカーの練習走行中、ガードレールに激突、マシンはガードレールを飛び越えてコース外で転覆、大破した。ドライバーは頭部に重傷を負い、5日後の22日に死亡。享年32歳。
折からの猛暑で、体調不良による運転ミスも要因のひとつとされた。 |
6月3日 |
アンジュ・バルドーニ(マーシャル) |
F1モナコGP |
(モナコ)
F1第2戦モナコGPのスタート直後、当時の第1コーナーにあたるラスカス・コーナーにマシンが殺到した際、モーリス・トランティニアン(ロータス)、リッチー・ギンサー(BRM)、ダン・ガーニー(ポルシェ)が激しく接触してコースアウト、コース外側のワラ束に突っ込んだ。その際、BRMの右後輪が弾け飛びバルドーニに直撃した。彼は意識不明のまま病院に搬送されたが、9日後の6月12日に死亡した。享年52歳。 |
6月2日 |
デニス・テイラー
Dennis Taylor
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FJ・モナコ |
(イギリス)
欧州FJ選手権第24戦(全72戦)「グラン・プリ・ド・モナコ・ジュニア」で多重事故が発生。
レースは24周を2ヒートで争われ、事故は第1ヒートの開始早々に発生。テイラー(ローラ)、トニー・シェリー(ローラ)、エリック・ハリス(アレクシス)の3台による多重事故で、デニス・テイラーが死亡した。享年42歳。
F1は1959年のイギリスGPにプライベートのロータスF2でエントリーしたのみで、予選は走らず。 |
5月27日 |
ハインツ・シュタルク |
FJ |
(旧西ドイツ)
欧州フォーミュラ・ジュニアシリーズ(全73戦)第20戦目の非選手権レース「グランデ・トロフィーデ・エンテ・サンブレ・エト・ミューズ」(ベルギーで開催)にロータス18・フォードで参戦。スタート後間もなく同郷のフィリップ・ミューブ(クーパー)と衝突し共にコースアウトして大クラッシュ、ミューブはかすり
傷程度で済んだが、シュタルクは車外に投げ出されて死亡した。享年不明。
1960年の同シリーズで2位入賞した経験がある。 |
5月20日 |
フェルナンド・アントニオ・マフラ・モレイラ
(リオ・ネグロ) |
スポーツカー ブラジル |
(ブラジル)
インテルラゴスでのスポーツカー・レースにFerrari・テスタロッサで参戦。ウォームアップ走行中、コースアウトして立ち木に衝突し死亡。享年不明。
黒人である彼は、「リオ・ネグロ」と自ら名乗り、このニックネームで数々のレースに参戦。現在では芳しくない表現も、当時は人種差別へ対するアピールだった
のかもしれない。 |
1962年春 |
スターリング・モス
Stirling Moss
|
非選手権F1(グッドウッド) |
(イギリス)
スターリング・モスにとって1960年ベルギーGPに次ぐ2度目の大クラッシュ。無冠の帝王として活躍したモスだったが、この事故を契機に引退した。 |
3月24日 |
ジム・ベリー |
テスト |
(イギリス)
英国オールトン・パークでJBW・マセラティをテスト中に事故死。 |
2月3日 |
ジョニー・マンセル |
フォーミュラ・リブレ |
(ニュージーランド)
2月3日、デュネディンでのフォーミュラ・リブレ・レースの事故で重傷を負い、9日後の2月12日に死亡。享年33歳。 |
1962年1月 |
ジャック・マイヤーズ |
ヒルクライム オーストラリア |
(オーストラリア)
カトゥーンバでのヒルクライム・レース「カタリナ・パーク・ミーティング」にラルト・トライアンフで参戦。トップスピードで走行中にコース脇の柵に接触し横転大破、重傷を負い後日死亡した。
事故の日付、死亡日、享年共に詳細不明。 |
1961年 |
11月19日 |
アル・ケラー
Al Keller
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インディカー |
(アメリカ)
11月19日、フェニックスでのインディカー・レースで事故死。享年41歳。
インディ500は1955〜1959、1961年と6回出場しており1961年の5位が最高位だった。
(画像は1961年インディ500出走時) |
9月10日 |
ウォルフガング・フォン・トリップス
Wolfgang von Trips
観客14名
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F1・イタリアGP |
(ドイツ)ドイツの伯爵貴族。本名ウォルフガング・グラーフ・ベルヘ・フォン・トリップス。
フェラーリのフォン・トリップスとフィル・ヒルがチャンピオンを争うシリーズ展開で迎えたF1第7戦イタリアGP(全8戦)
PPを獲得しながらもスタートで出遅れたフォン・トリップスはチャンピオンをめざして追い上げを計っていた。しかし、2周目のパラボリカコーナー手前でフォン・トリップスのフェラーリとジム・クラークのロータスが接触、もつれあいながらコース外側の土手を駆け上がり金網を引き裂きながら宙を舞って再びコース上に跳ね返された。フォン・トリップスはマシンから放り出されて即死となった。享年33歳。
また観客14名もこの事故に巻き込まれ死亡する惨事となった。
フィル・ヒルは、このレースで優勝しチャンピオンを獲得したが、フォン・トリップスの死を知り号泣した。
F1では1956〜1961年に27回出走し、この年(1961年)2回の優勝を果たしていた。(オランダGP、イギリスGP)
また、数々のスポーツカーレースにも出場し、1961年タルガ・フローリオの優勝をはじめ、多くのレースで好成績を残している。 |
6月15日 |
ジュリオ・カビアンカ
Giulio Cabianca
ジーノ・アルボレージ
エウジェニオ・ステファーニ
イヴォ・メソーリ
(以上3名は一般市民)
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テスト(モデナ) |
(イタリア)
テスト走行中のマシンが、トラブルからコース外に暴走、一般市民を巻き込んでしまったという事故が発生した。
モデナでフェラーリのテスト走行中、スロットルが戻らなくなるトラブルが発生、看板を薙ぎ倒してコース外に飛び出した。その後テストを見学していた18歳の少年エンリコ・モロを跳ね、さらにコース外の小型トラックに側面衝突し運転手のジーノ・アルボレージが死亡、これに後部から追突したオートバイのエウジェニオ・ステファーニも死亡、そして衝突の衝撃でトラックから金属のブロックが落下し、事故に巻き込まれ転倒していた自転車のイヴォ・メソーリが押し潰され死亡した。ドライバーのカビアンカはアゴスティノの病院に収容されたが、夜半になって死亡した。享年38歳。
結果、カビアンカの他に一般市民が3人も死亡する、57年のカステロッティ、フラスケッティに続くモデナの惨事となった。最初に跳ねられたモロは重傷を負ったものの、命に別状はなかった。
カビアンカはF1にも1958〜1960年に3回出走し、1960年イタリアGPの4位が最高位として記録が残っている
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6月11日 |
リチャード・エドワーズ |
ストックカー |
(アメリカ)
ペンシルベニア州ハリスバーグ、サスケハナスピードウェイでのストックカー・レース(ダート)に参戦中、接触事故から横転、ロールケージが折れたためにドライバーは首を防護される事なく死亡。享年26歳。 |
6月1日 |
シェーン・サマーズ
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練習走行(F1) |
(イギリス)
ブランズハッチでF1マシンの練習走行中に事故死。
この年のイギリスGPでデビューが予定されており、期待されていた矢先の事故だった。
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5月下旬 |
エリッヒ・ボーデ |
FJ テスト |
(東ドイツ→現統合ドイツ)
ニュルブルクリングでFJマシン(ミッターDKW)のテスト走行中に事故死。享年31歳。 |
5月30日 |
ジョン・マサリウ(消防士)
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インディ500 |
インディ500決勝52周目にメインストレートで5台が絡む多重事故が発生。巻き込まれたのは
45/ジャック・ターナー(バルダール・KK500J・オッフィー)
73/A.J.シェファード(トラベロントレイラー・ワトソン・オッフィー)
22/ロジャー・マクラスキー(レーシングアソシエイツ・ムーア・オッフィー)
14/ビル・チーズバーグ(ディーンヴァンラインズ・クヅマ・オッフィー)
83/ドン・デービス(ダートカート・トレビス・オッフィー)
この事故で火災が発生したため現場に急行する途中、後方から速度を上げてきた消防車に跳ねられて死亡。 |
5月22日 |
ロイ・ブロクサム |
スポーツカー |
(イギリス)
グッドウッドでの非選手権スポーツカー・レース「ウィットサン・ハンディキャップ」にリスタージャガーBHLで参戦中、車体の出火からクラッシュし死亡。享年34歳。 |
5月12日 |
トニー・ベッテンハウゼン
Tony Bettenhausen
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インディ500 |
(アメリカ)
本名メルビン・ベッテンハウゼン・シニア。愛称トニー。
ベッテンハウゼンJr、ゲイリー・ベッテンハウゼンの父にあたる。
同僚ポール・ルッソのマシンを借りてプラクティス走行中、メインストレートで前輪のボルトが脱落してコントロールを失い、第1ターン外側の壁に激突、マシンは跳ね上がってフェンスを切り裂きながらコース外に飛び出し、裏返しになって炎を吹いた。火はすぐに消防隊に消されたものの、ベッテンハウゼンは死亡した。享年44歳。
インディ500に通算14回出場しているベテランで、1955年には2位に入っている。 |
5月12日 |
ニコライ・ショロチンスキー |
ロシア スポーツカーテスト |
(ソ連→現ロシア)
レニングラード(現セントピーターズバーグ)でスポーツカー(KVS2500S・ヴォルガ)のテスト走行中に事故死。享年不明。 |
5月7日 |
グリセリオ・バルボリーニ |
GT |
(イタリア)
FIA−GTシリーズ第4戦、モンツァでの「コッパ・アスカリ・モンツァ」にマウリツィオ・ザネッティと組みランチア・アピアザガートで参戦。バンク使用1周10kmを100周余で争うこのレース、58周目にトラブル発生のためマシンを押してピットへ戻っていたバルボリーニに後続のフィアット・アバルト700(マルティノ・シェンク&フラビオ・サピア組、運転はシェンク)がスピン気味に激突した。バルボリーニは直撃は避けたものの車体とともに数十メートル跳ね飛ばされ、すぐさまモンツァの病院に搬送されたが全身打撲により死亡した。享年36歳。 |
3月18日 |
ルディ・ド・ワルドカーク |
フォーミュラ・ジュニア |
(スイス)本名ルドルフ・ワルドカーク。
英国オールトン・パークでのフォーミュラ・ジュニア英愛国シリーズ第2戦(全81戦)「B.A.R.Cメンバーズミーティング・1965」にロータス18・フォード
で参戦中事故死。 |
3月12日 |
デビッド・ケイド |
ミジェットカー |
(アメリカ)
カリフォルニア州エル・セントロでミジェットカー・レースに参戦中、他車に追突し横転、首の骨を折り病院搬送後に死亡。享年21歳。 |
2月21日 |
ハロルド・ヘイバーリング |
テスト |
(アメリカ)
デイトナ・ビーチでデイトナ500のサポートレースに出場するべくシヴォレーで練習中に事故死。享年33歳。 |
1960年 |
12月31日 |
ブライアン・マーベイ |
シングルシーター |
(ニュージーランド)
ネルソン郊外でのシングルシーター・レース「タフナヌイ・ビーチ・レース」にBCM・フォックスホールで参戦中事故死。 |
1980年下旬 |
ペンティ・ケイナネン |
F3 |
(フィンランド)
同国ヴァーサでのF3レースにクーパー・ノートンで参戦中事故死。 |
10月9日 |
ジュゼッペ・ファランダ |
FJ |
(イタリア)
モデナでのイタリアFJ選手権第9戦「コッパ・ジュニオ」でジュゼッペ・ファランダ(デ・サンクティス・フィアット)が事故死。
スポーツカーのレースで、フィアットとオスカの混走。レースは25周を2ヒートで争われ、2ヒート目に事故が発生した。
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10月2日 |
レグ・スミス |
スポーツカー |
(オーストラリア)
バサーストでの非選手権スポーツカー・レース「バサースト・レースミーティング」にポルシェ356で参戦中事故死。享年57歳。 |
10月1日 |
ジム・パッカード |
ミジェットカー |
(アメリカ)本名ジェームス・パッカード。
イリノイ州フェアフィールドでのミジェットカー・レースの予選中、ステアリング及びサスペンションの破損からフェンスを飛び越えてコース外に飛び出し立ち木に激突して死亡した。享年28歳。
メカニックからドライバーに出世した叩き上げでもあった。
(画像 TheVintageRacer.com) |
9月24日 |
ジョニー・トムソン
Johnny Thomson
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スプリントカー |
(アメリカ)
9月24日、アレンタウンでのスプリントカー・レースで事故死。享年38歳。
インディ500には1953年〜1960年に8回連続出場していて、1959年にはPPを獲得、決勝でも3位に入っている。
(画像は1959年インディ500出走時のもの) |
9月17日 |
クアルト・ダラ・カサ
ロベルト・ステファニ(コ・ドライバー)
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イタリア |
(共にイタリア)
9月17日、イタリア国内の「トロフェオ・スーパーコルテマッジォーレ」(ヒルクライムとスポーツカーレースを混ぜたようなレース。前半スポーツカーで公道レースを行い、後半は山岳地でのヒルクライム)にフィアット600で参戦。
1364台がエントリーしたこの大会は生憎にも大雨の中開催、クアルトの駆るフィアット600はビシェンツァの村近くで遅いマシンを抜こうとした際にコースを外れ激しく横転大破、その場で死亡した。コ・ドライバーのステファニも運命を共にした。クアルト享年25歳、ステファニ享年23歳。 |
9月14日 |
アルベルト・ログロ |
ラリー |
(アルゼンチン)
同国でのカレテラ・ツーリスモ・シリーズ(ラリーに該当する)「ミル・ミラス・デル・オートモビルクラブ・デ・アヴェラネーダ」に参戦。ピラーの街、ファチマと呼ばれるコーナーで盛り土に足をとられ転覆、即死した。享年不明。なお、コ・ドライバーのリナレスは重傷を負ったものの、一命は取りとめた。 |
9月11日 |
ジョン・フォーブズ・クラーク |
ヒルクライム |
(イギリス)
英国プレスコットでの山岳競走「ブガッティオーナーズクラブ・ヒルクライム・アット・プレスコット」にクーパー43・コヴェントリー・クライマックス(F2)で参戦中、コーナー進入直前にスロットルが戻らなくなり転覆、その場で死亡した。 |
9月11日 |
ジョージ・ロートン |
コペンハーゲンGP |
(ニュージーランド)
9月11日、ロスキルデリングでのコペンハーゲンGPで事故死。享年21歳。 |
8月25日 |
レイモンド・エドワード・アルート |
スポーツカー |
(イギリス)
英国ジャージーのセントオーウェンで開催された非選手権スポーツカーレース(ダート)にアラードで参戦中事故死。享年24歳。 |
8月2日 |
フロイド・イェーガー |
スプリントカー |
(アメリカ)
ミズーリ州メンフィスでのIMCAスプリントカー・レースに参戦中事故死。享年38歳。 |
8月1日 |
エイソル・グレアム |
速度記録・ボンネヴィル |
(アメリカ)
8月1日、ユタ州のボンネヴィル湖で速度記録挑戦中に事故死。享年36歳。
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7月下旬 |
レス・ムーア |
フォーミュラ・リブレ |
(ニュージーランド)
ニュージーランド・サウスカンタバリーでのフォーミュラ・リブレ・レース「チマル・レースミーティング」にRA4・バンガードで参戦中事故死。享年57歳。 |
7月24日 |
ジャン・ブラン
ジョバンニ・パルザ
ネーゼ(観客)
アルフォンソ・セッサ(観客)
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FJ イタリア |
ジャン・ブラン(フランス)
イタリアFJ選手権第7戦「シルクィット・シッタ・ディ・サレルノ」(公道レース)でクーパーT52・BMCに乗るジャン・ブランがクラッシュ。観客を巻き込む惨事となった。
ブランがルンゴメアのコーナーを旋回中に歩行路縁石に触れた事により、車が跳ね上がり脇のストロー・フェンスに激突、その際出火を伴い、火の車となりながら
今度はコース反対側へと跳ね返され、そこで観戦していた19人の観衆の中に飛び込んだ。この事故でドライバーのブラン(享年30)と、観客のジョバンニ・パルザ
ネーゼ(60歳)が死亡、アルフォンソ・セッサ(9歳)とロスト・デル・カーリノ(年齢不詳)が重傷を負った。
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7月3日 |
ジョン・マーシス |
ドラッグカー |
(アメリカ)
テネシー州ホールでのドラッグカー・レースでスタート直後に90度旋転、バリアを突き破り大破炎上した。死因は焼死といわれたが、車体の損壊状況と遺体の状態から、ガードレールが凶器となり致命傷を負ったものと思われる。享年35歳。 |
7月2日 |
ノーマン・グランヴィル・パーカー |
テスト |
(イギリス)
7月2日、英国ブランズハッチでオースティン・ヒーレーの練習走行中に事故死。享年36歳。 |
6月19日 |
アラン・ステイシー
Alan Stacey
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F1ベルギーGP・スパフランコルシャン) |
クリス・ブリストウが死亡した事故からわずか5周後にまたも不幸な事故が発生する。
マスタ・ストレートを時速220kmでロータス・クライマックスで単独走行していたアラン・ステイシーの顔面を鳥が
直撃するという不幸な事故。即死したステイシーを乗せたままロータスは暴走し、コース脇に飛び出して横転、炎上している。享年26歳。
このレースは予選中にも大事故が相次ぎ、ベテランのスターリング・モス、新人マイク・テイラーが多発骨折の重症を追っており、まさに暗黒の週末となった。
ステイシーはF1は1958〜1960年に7回出走し、1959年イギリスGPの8位が最高位。また、彼は事故で右足の膝から下が義足だった
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6月19日 |
クリス・ブリストウ(ブライストウ)
Chris Bristow
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F1ベルギーGP・スパフランコルシャン) |
(イギリス)本名クリストファー・ブリストウ
「暗黒の週末」として記憶される、1960年のベルギーGP。
F1第4戦ベルギーGPにヨーマン・クレジット・クーパーで出走していたクリス・ブリストウは、雨のスパウエザーでのレース中盤過ぎ20周目、フェラーリのウィリー・メレスとの激しい3位争いを展開していたが、バーネンヴィルでコースを外れ、ほぼ直角にアームコ・バリアに激突。さらにそれを突き破って土手に衝突し大破した。バリアが鋭利な凶器と化し、ブリストウは下顎から上を切断されて即死した。享年22歳。
F1は1959〜1960年に4回出走し、1959年イギリスGPの10位が最高位。この順位は、混走したF2マシンの中でも一番上の順位だった。
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6月19日 |
マイク・テイラー
Mike Taylor
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F1ベルギーGP・スパフランコルシャン) |
モスのクラッシュと前後して、プライベート・ロータスのマイク・テイラー(画像)がステアリング系統の故障からスタヴェローで挙動を乱しクラッシュ、車体は前部を大破させ、さらに車体から放り出されたテイラーは上半身を強く打ち、肋骨・鎖骨の骨折という重傷を負った。
F1には前年59年イギリスGP以来の2戦目の参戦であり、最後のF1参戦となってしまった。 |
6月19日 |
スターリング・モス
Stirling Moss
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F1ベルギーGP・スパフランコルシャン) |
(イギリス)
暗黒の一日として知られる、1960年F1ベルギーGP。
その幕開けとなってしまったのが無冠の帝王として知られるスターリング・モスのクラッシュだった。
ロータスで参戦していたスターリング・モスは、バーネンヴィルに差し掛かる直前左後輪を脱落させ、ガードレールに直角に激突、それを突き破って土手に乗り上げさらに跳ね返されてコース上に転覆。モスは両足骨折その他の重傷を負ったが、幸いにも大事には至らなかった。
これが死亡事故に至らなかったのは、ガードレールが二重構造(いわゆるアームコ・バリア)であったため衝撃が吸収された事、さらに衝突の反動で
車体が宙に舞い速度が半減された等言われているが、奇跡的といって良い生還だった。
この事故の後、2戦を欠場したものの復帰を果たしたモスだったが、1962年の春に非選手権F1レースで再び大クラッシュを演じ、これを契機に引退した。 |
6月19日 |
ジミー・ブライアン
Jimmy Bryan |
インディカー |
(アメリカ) 本名ジェームス・ブライアン
ラングホーンでのインディカー・レースで事故死。享年33歳。
インディ500には通算9回出場しており、1958年のインディ500では優勝。また54・56・57年にはUSACインディチャンピオンにも輝いている。
(画像は1958年インディ500出走時のもの) |
6月18日 |
アル・ハーマン
Al Herman
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ミジェットカー |
(アメリカ)
6月18日、ウエスト・ヘイブンでのミジェットカー・レースで事故死。享年32歳。
インディ500にも1966年以降通算5回出場しており、1955年の7位が最高位。
(画像は1955年インディ500出走時のもの) |
6月6日 |
ヤン・アルダース(観客) |
F1オランダGP |
(オランダ)
ザンドフールトでのF1第3戦オランダGP決勝11周目(75周中)、F16戦目の新人ダン・ガーニーのBRMがブレーキの故障からタルザン・コーナーをアプローチできずコースアウト、時速210km/hのスピードで立入禁止区域にいた観客を巻き込んで大破した。この事故でガーニーは軽傷を負ったものの自力で脱出でき無事だったが、観客は命を落とす結果となった。
観客のアルダースは18歳の少年だった。なお、ある文献でこの事故での死者は二人ともいわれているが、それについての詳細は不明。次戦ベルギーGPの惨事に隠れているものの、この件も悲惨な事故だった。
※画像はコースアウトする直前のガーニー&BRM
(画像 f1-facts.comおよびСША) |
6月5日 |
ボビー・キャメロン |
ストックカー |
(アメリカ)
ニューヨーク州ランカスターのダート・オーバルコースでストックカーの練習走行中クラッシュ、車体の炎上に巻き込まれ死亡。享年36歳。
スーパー・モディファイド・レースに出場する矢先の事故だった。また彼はかつて1950年代にボビー・マックという名でレース活動をしていた経緯がある。 |
6月4日 |
サム・ウェイス |
練習走行 ラグナセカ |
(アメリカ)本名サミュエル・ウェイス。
カリフォルニア州ラグナ・セカでの練習走行にクーパー・モナコ(スポーツカー)で出場。4周目に他車と併走状態となり接触、転覆した車体の中で頭部に致命傷を負っており、現場で死亡が確認された。享年36歳。
3月には親友のジェームス・アムネット・
ヒューズを事故で失っていた。また彼は戦闘機のパイロットという肩書きも持っていた。 |
5月30日 |
ケン・マクローリン |
スプリントカー アメリカ |
(アメリカ)
カリフォルニア州ヴァカヴィルでのスプリントカー・レース(100マイル競走)に参戦。レース中盤に他車と接触して弾かれ横転、首の骨を折って死亡。
享年32歳。 |
5月29日 |
ハンク・ヴィンセント |
ドラッグカー アメリカ |
(アメリカ)
カリフォルニア州フレモントでのドラッグカー・レースに「トップ・バナナ」で参戦中事故死。享年30歳。 |
5月 |
フレッド・リンダー(観客)
ウィリアム・クレイグ(観客)
他40人以上の観客が重軽傷
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インディ500・客席倒壊 |
1960年のインディ500ではコース上ではなく、観客席で大きな事故が起きてしまいました。
1960年のインディ500は例年にない盛り上がりを見せ、主催側は溢れた観客のために内側フェンスのインフィールドに仮設の観客席を設けた。
しかしパレードラップの最中、興奮した一部の観客が足場を揺らす行為をはじめたため、観客席は次第にグラインドし、危険と感じた上方の観客も立ち上がる仕草をみせたために現場は騒然となる。、グリーンフラッグが振られてホームストレートをマシン群が走る脇で、多くの観客をのせた観客席が大音響を響かせながら倒壊するという事態に発展します。
レースは異例のフルコース・コーションが敷かれ、救急車が数台出動する大混乱。この事故で観客2名が圧死、40人以上が重軽傷を負う大惨事となりました。
なお、このレースではジム・ラスクマンが優勝しています。
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5月22日 |
クリス・スレルフォール
観客
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FJレース |
(イギリス)
5月22日、欧州FJ選手権の第20戦(全75戦)「シルキット・ド・アイクス・レ・バン」で、クリス・スレルフォール(エルヴァ100・BMC)が1周回らないうちにクラッシュして観客に飛び込無という事故が発生。スレルフォールをはじめ、多くの死傷者を出す事態となり、レースは中止された。 |
5月13日 |
ハリー・シェル
Harry Schell
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F1(非選手権)シルバーストーン |
(アメリカ)本名ヘンリー・オライリー・シェル。
シルバーストーンでの、「B.R.D.C.デイリー・エクスプレス・
インターナショナル・トロフィー」(非選手権)。クーパー・
T51クライマックスのF2仕様で決勝日のウォームアップ走行中に同型車のクリス・ブリストウと接触、クラッシュして死亡。享年38歳。
F1は1950〜1960年に55回出走し、1958年オランダGPの2位が最高位。またスポーツカーレースでも活躍し、1956年ニュルブルクリンク1000kmで優勝を記録している。 |
4月15日 |
フランク・エリオット |
テスト |
(アメリカ)
英国ソーナビー・オン・ティー空軍飛行場の滑走路を利用したリスター・ジャガーのテスト走行で、交差路を横切るところを間違って直進、ミスに気づいたものの滑る草地に飛び出し制動が効かず、飛行場末端の溝に転落し全壊、即死した。 |
4月3日 |
ペドロ・フォン・ドリー |
スポーツカー |
(アルゼンチン)
カリフォルニア州リヴァーサイドでのUSACスポーツカーシリーズ選手権、(長名失礼)「インターナショナル・グランプリ・スポーツカーロードレース・スポンサード・バイ・ロサンゼルス・イグザミネーター・ヘラルド・エクスプレス」にポルシェRS60で参戦。終盤、トップのキャロル・シェルビー(マセラティ)と接戦中コースを飛び出し沢(溝)に激突、車体は粉砕し、ドライバーは投げ出されて死亡した。享年41歳。
事故状況は1970年の川合稔選手の事故に似る。 |
4月3日 |
デイヴ・モーゼス |
ミジェットカー |
(アメリカ)
カリフォルニア州ウエストサクラメントでのBCRA(ベイ・シティ・レーシング・アソシエーション)主催のミジェットカー・レースに参戦。
第4ターンでのドリフトの失敗から外壁に激突、数回横転したのち車外に投げ出され、さらに車体の下敷きとなり死亡。享年28歳。彼は前年のこのシリーズの勝者でもあった。 |
3月26日 |
ジェームス・アムネット・ヒューズ
ジョージ・トムソン(カメラマン)
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WSCセブリング12時間 |
(アメリカ)
WSC開幕戦のセブリング12時間にサム・ウェイスと組みロータス・エリートで参戦。6周目のコーナーでブレーキトラブルからスピン、あろう事かランオフエリアで撮影を行なっていたカメラマンがいたために急な方向転換を迫られたがそれも叶わず横転、同人を巻き込んだ事故となった。この事故でヒューズとカメラマンのジョージ・トムソンが死亡。ヒューズ享年29歳。 |
1月31日 |
ハリー・ブランチャード
Harry Blanchard
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ブエノスアイレス1000km |
(アメリカ)
WSC開幕戦のブエノスアイレス1000kmにヴォルフガング・ザイデルと組みポルシェ718RSKで参戦。スタートして間もなく、同チームのアイニ・ヴァルター&ファン・マヌエル・ボーデュー組のマシンと衝突、コースを外れてガードレールに激しくクラッシュし、死亡した。享年28歳。
F1は1959年セブリングでのアメリカGPにポルシェF2でスポット参戦し、4周遅れの7位完走という記録が残る。 |