カメラマン
ガードマン
(イギリス) 予備予選にてアタック中、スロットルトラブルから、コースアウト。フェンスに正面から激突する大クラッシュとなる。しかも、マシンは跳ね返らず、車体が圧縮されるような形でその場に停止。救出されたバーレイはパーレイは両足粉砕骨折、両腕の複雑骨折に全肋骨も骨折し、内臓破裂、頸部骨折、そしてすでに心臓は停止していたが、搬送された病院で奇跡的に蘇生に成功。 レーシング・ドライバーとしては戦えない身体にはなったものの、パーレイは生命を取り留める事が出来た。 関連ページ:1977年179Gの衝撃から奇跡的に生還したデビッド・パーレイ
トム・プライス Tom Pryce
ジャンセン・ヴァン・ビューレン(マーシャル)
(オーストリア) 本名アンドレアス・ニコラウス・ラウダ 1975年にチャンピオンに輝いていたニキ・ラウダ。 雨のニュルブルクリンクで大クラッシュを起こしたラウダのフェラーリは炎上。ヘルメットは二つに割れるという衝撃の中、顔面と肺に大やけどを負った。生命も危ぶまれ枕元に神父が呼ばれほどだったが、奇跡的に命を取り留め、わずか6週間で復帰した。しかもチャンピオン争いを繰り広げるという活躍。同年最終戦の日本GPでは、雨の中で決行されたレースに、危険すぎるとして自らリタイアしチャンピオンをあきらめた。しかし、翌77年と、84年にはチャンピオンを獲得し、計3度のタイトルを獲得した。 関連ページ:1976年九死に一生を得たニキ・ラウダ
マーク・ダナヒュー(ドナヒュー) Mark Donohue
マーシャル1名
(アメリカ) F1第12戦オーストリアGP(エステルライヒリンク)にマーチ751・フォードで参戦。 決勝朝のウォームアップ走行中、1コーナーであるヘラ・リヒト・シケインでタイヤのパンクのためコントロールを失いコースアウト。キャッチフェンスとガードレールに突っ込んでひっくり返りながら広告看板に激突した。この際2名のマーシャルが巻き込まれて、そのうちの一人は後日死亡する。 ダナヒューは頭部を強く打ったものの駆け寄った医師たちにはきちんと応えており、当面の心配は無いように思われた。しかし空輸搬送された病院で脳内出血を発症し、二日後の8月19日に死亡した。享年38歳。 高所を搬送した際に脳が腫れ、それにともない出血を招いたのではないかといわれている。 右の画像は、クレーンで引き上げられるダナヒューのマシン。右前輪がかろうじて残っているが、他は全部もぎとられるという衝撃のすさまじさが見てとれる。 F1は1971〜1975年に14回出走し、デビュー戦となった1971年カナダGPで3位を獲得したのが最高位。1974年からペンスキーのF1活動の本格化に伴い、ダナヒューもF1に本格的な参戦をはじめたところだった。 またインディ500にも通算5回出場、1972年の大会では優勝を果たしている。
ロルフ・シュトメレン Rolf Stommelen
風戸 裕 (かざと・ひろし)
鈴木誠一 (すずき・せいいち)
(画像右・鈴木誠一/左・風戸裕) 富士スピードウェイの30度バンクで多重事故が発生した。鈴木誠一と風戸裕の2台のマシンは、はじき飛ばされガードレールを突き破って炎上。2人のドライバーが死亡するという大事故となった。風戸裕、享年25歳。鈴木誠一、享年37年。 この事故をきっかけに富士スピードウェイの名物であった30度バンクは封印された。 詳細はこちら:1974年富士GCVol.1 1974年富士GC Vol.2 関連書籍:レーサーの死
富士ビクトリー200kmレース、30度バンクで多重事故が発生する。 生沢徹(シグマ)のスピンが引き金となり、多重事故が発生。多くのマシンが爆発・炎上する。消防さえ近寄れない炎の中、中野雅晴は死亡した。享年24歳。 詳細・写真はこちら:1973年富士GC
(フランス)本名アルバー・ファンソワ・セベール 73年いっぱいで引退するジャッキー・スチュワートの後をついでティレルのNo.1となることが決まっていたセベール。 F1第15戦(最終戦)アメリカGPの予選中に大クラッシュに見舞われる。宙を舞ったマシンは裏返ったままガードレールの真上に落下、セベールはマシンごと体を真っ二つに引き裂かれると言う、凄惨な死を遂げた。セベールの予選タイムは4位を記録していた。享年29歳。 そしてこの事故からちょうど1年後、同じ場所で同じサーキットを舞台に、同様の悲惨な事故がまたも起きることとなる。 関連ページ:1973年非業の死を遂げたフランソワ・セベール
(イギリス) F1第10戦オランダGPにマーチ731フォードで出走。8周目、コース中盤のS字コーナーをクリア後フロント部分の破損によりコースアウト、ガードレールに激突した。 それだけならまだしも、そのガードレールは破損が著しく、空に向けて湾曲し傾いている信じられない状態になっており、マーチはそれに「乗る」とカタパルトのように上空に弾き飛ばされた。空高く舞ったマーチはコース脇の土手に一度着地した後、コースに転落して裏返しとなり、炎を上げながら再びガードレールに沿うように停止した。 燃え盛る車体を見て後続のデビッド・パーレイ(LECマーチ)がレースを放棄し救助に当たったが、救急・消防の不手際もあり、鎮火には相当の時間を要した。 結局レースは中断すらされず、ウィリアムソンは炎の中で焼死した。享年25歳。
1972年の英国F3チャンピオンであり、F1はこの1973年にデビュー。前戦イギリスGPでデビューしたが、デビュー戦も多重事故に巻き込まれている。そして2戦目のこの事故で、一度も完走を果たす事なく世を去った。 関連サイト:Zandvoort 1973 (事故時の画像があります)
マッシーモ・ラリーニ
ハンス・ペーター・ヨイシュテン
ロジャー・デュボ
ハンス・ペーター・ヨイシュテン(ドイツ) ロジャー・デュボ (フランス) ETCC第5戦スパ・フランコルシャン24時間にハンス・ペーター・ヨイシュテンはブライアン・ミュールと組みアルピナBMW3.0CSLで参戦。 夜も更けた23時頃、マルメディのコーナーで前を走るロジャー・デュボ&ジャック・ベルガー組のアルファロメオ2000GTVとクラウデュ・バロー・レナ&ジャン・クロード・ラニエス組の同型車(前名が運転者)が接触、デュボのマシンはガードレールに激突して跳ね返り、コース中央に横向きに停止した。そこへ夜間ハイスピード走行中のヨイシュテンが到達、全く減速されずにデュボの運転席側に衝突した。停止したレナと後続で現場に到着したヒューブ・ベルミューレン(オペル)が救急隊とともに二人の救出にあたり、レナはさらに後続に停止するよう駆け回った。 残骸から引き出されたヨイシュテンとデュボの二人はしかし、致命傷を負っており、現場でまもなく死亡した。 ハンス・ペーター・ヨイシュテン 享年31歳。 ロジャー・デュボ、享年26歳
画像上は、ヨイシュテンのアルピナBMW、下はデュボのアルファロメオ
スウィード・サベージ
アマンダ・テラン(メカニック)
(アメリカ)本名デビッド・アール・サベージ ソルト・ウォルターが巻き込まれた多重事故後、アル・アンサー(ヴァイスロイ・パーネリ・オッフィー)と首位争いのバトルを展開していたデビッド・アール "スウィード" サヴェージ(STPイーグル・オッフィー/ No40)がコントロールを失い内側の壁に激突。マシンがバラバラになり、全身打撲と全身の火傷により約一ヶ月後の7月2日に死亡した。享年26歳。サベージはインディ500には1972年に続いて通算2回目の出場だった。
また。この事故で現場に駆けつけようとしたメカニックのアマンダ・テランが消防車に跳ね飛ばされ、即死するという二重の悲劇も起こっている。
関連ページ:1973年INDY500の悲劇
(アメリカ) アート・ポラード(スコーピオン・オッフィー/No.64)が第3ターンから第4ターンにさしかかる地点で外向きにスピン。250km/hという「巡航速度のままクラッシュしたマシンは破片を四散させながら路面上に逆さまに転落、金属音を響かせながら滑走し、コースとインの草地の間で一回転して、天地元通りとなり停止した。 ポラードはあまりにも激しい激突の衝撃で即死していた。享年46歳。 インディ500は通算5回出走しており、1967年の8位(5周遅れ)が最高位となっている。(画像は1970年インディ500出走時のもの) 関連ページ:1973年INDY500の悲劇
(メキシコ) 1962年に事故死したリカルド・ロドリゲスの兄。 インターセリエ第4戦、ノリスリングでの「ニュルンベルク200マイル」にハーバート・ミューラーのエントラントでFerrari512Mを駆り参戦。11周目(決勝52周)の右カーブ手前、ブレーキングポイントの地点で突然右前輪が破裂するとそのまま直線的に外側ガードレールに激突、すさまじい勢いで跳ね返されて猛烈な炎に包まれた。 後続のハーバート・ミューラー、レオ・キヌーネンらが自主的にレースを放棄して彼の救出に当たり、病院に搬送されたが、頭蓋骨骨折と全身の火傷の為、約2時間後に死亡した。享年31歳。 左は事故現場の見取り図(クリックで拡大します)
1963年にロータスからF1デビュー。F1の他にもスポーツカーでフェラーリ等を駆り、1968年にはル・マン優勝、1970・1971年とデイトナ24時間を2連覇している。兄弟そろっての事故死という運命が呪わしい。
関連サイト:Fotos 1971 - zum Vergrosern bitte darauf klicken! (ページ中段参照) Pedro Rodriguez - Norisring '71(YouTube)
(オーストリア)本名カール・ヨッヘン・リント。 シーズン5勝をあげ、チャンピオン獲得に向かって快走していたヨッヘン・リント。 ここで勝てばチャンピオンをほぼ確実にするというイタリアGPで悲劇は起きた。 予選初日走行開始直後の5周目、、ロータス72がパラボリカ手前に差し掛かったとき、ブレーキシャフトが折れ、コントロールを失い突然外側にコースアウト、ガードレールにノーズからクラッシュする。ガードレールに食い込んだ部分は勢いでそのまま引きちぎられ、一度バウンドしてその先の砂地に落ち、数回スピンして砂煙を上げながらようやく停止した。 救急隊が駆けつけたが、リントはコクピットの中に埋まるようにして動かず、直ちに病院へ担ぎ込まれたが胸郭破裂が致命傷となり、搬送中に息を引き取った。 享年28歳。
死亡時点ではヨッヘン・リントはランキング1位であり、リントの死後イタリアを含めた残り4戦で充分逆転のチャンスもあったが、イタリアで伏兵のレガッツォーニ が優勝、カナダでイクス、アメリカで新人フィッティパルディと全て違うドライバーが勝ったため、誰もリントの得点に追いつけず、史上初、リントが死して後チャンピオンに輝いた。
Can-Nam挑戦を視野に入れたトヨタ7をテスト中に事故死。 鈴鹿サーキットのヘアピン手前の110Rコーナーで右80m、左65mのブラックマークを残してコースアウト。コースサイドの溝に激突し、マシンは大破。川合稔はマシンから放り出されており、すぐさま救急車で病院に搬送されたが、30分後に死亡が確認された。享年27歳。 詳細はこちら 関連書籍:レーサーの死
(このページの写真・画像はMOZAさんおよびjohnさんからご提供いただきました。 表記の無いものはMOZAさんからの提供です)
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