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 レーサーの死(風戸裕、鈴木誠一の亡くなった、富士GCレースについての記録を収録。他、アイルトン・セナ、福澤幸雄など)
 
1970年代のモータースポーツ・レース中の事故の記録

1970年〜1979年

年月日 氏名 カテゴリー・場所 状況
1979年
2月17日 ドン・ウィリアムズ NASCAR (アメリカ)
デイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開かれたNASCARブッシュシリーズレース「スポーツマン300」にシボレーで参戦中クラッシュし爆発、炎上した。病院に運ばれたが10年間昏倒した後、1989年5月21日に死亡した。
9月16日 ロブ・スロートマーカー ツーリングカー (オランダ)
ザンドフールト・サーキットでのツーリングカー・レース「ザンドフールト・トロフィー・カマロ・スーパースター・レース」にシヴォレー・カマロで出走。
2ヒートでの第2ヒート中、前を走っていたミハエル・ストロークのエンジンが爆発、オイルをコース上に散乱させた。数秒たってスロートマーカーがその地点を通過した瞬間、オイルに乗って滑り、駆けつけていた医師団の乗る救急車に激しく激突、大破した。この事故で救急車に待機していた女性看護士が重傷、スロートマーカーは首の骨を折って即死した。享年50歳。
彼はザンドフールトのアンチスキッド・スクールの講師も務めており、滑る車体を制御する事に長けていた人物であったので、この事故はまさに皮肉だった。
1978年
9月19日 ハニート・カンポス F3 シルバーストーン (アルゼンチン)本名アルファンドロ・カンポス
シルバーストーンでF3マシン(アルゴJM1)のテスト走行中、ストウ・コーナーを旋回中にコントロールを失いースアウト、キャッチフェンスに当たった衝撃で宙を舞い、空中で数回回転しながら観客席側のフェンスの真上に転落して粉砕した。車体はマシン上方から激突したため、カンポスは首を切断して即死した。享年25歳。
地元アルゼンチンでも決して目立つ活躍をしていたわけではなかったが、ファン・マヌエル・ファンジオがコーチにつくという事実もあり、将来的に有望な若手であった。
9月10日 ロニー・ピーターソン(ペターソン)(ペテルソン)
Ronnie Peterson
F1・イタリアGP (スウェーデン)
イタリアGPスタート時、異常なタイミングでのシグナルのの点灯から、スタートがきられたが、これが原因で多重クラッシュが発生。ピーターソンは他のドライバーに救出され、り病院に搬送されるた。当初は怪我事態は大きなものでは無く、生命の危険は無いと見なされていたが、翌日未明に死亡した。享年34歳。
予後不良とも、医療事故ともいわれている。
詳細ページ:1978年ロニー・ピーターソン
1977年
10月23日

カメラマン

ガードマン

F1・日本GP 2年目の開催となる「F1選手権inジャパン」において、ジル・ヴィルヌーヴ(フェラーリ)とロニー・ピーターソン(ティレルP-34)が接触。ビルヌーブのマシンは宙をまい、立ち入り禁止区域にいた観客にマシンが激突。ビルヌーブは無事だったが、ガードマンと亀爛漫の2名が巻き込まれ死亡する事故となった。この事故は人文などでも大きく取り上げられ、翌年以降のF1開催は無くなった。
再び富士スピードウェイにF1が帰ってくるのは30年以上を経た2009年となる。
関連ページ:1977年F1日本GP
10月8日 イアン・アシュレイ(アシュリー)
Ian Ashley
F1 カナダGP予選 (イギリス)
F1第16戦カナダGP(モスポート)予選にヘスケス308E・フォードで参戦。この当時、予選通過するのがやっとの状態というヘスケスにおいて、スポット参戦のアシュレイにとっては苦しい状態が続いていた。

ホームストレートでジャック・ラフィーの抜こうとした時、マシンはコースアウト。マシンは横転、数回転がった末に草地の窪みで大きくジャンプし、コクピット部分がエンジン部分(車体後部)からもぎ取らるという大クラッシュとなった。アシュレイは意識ははっきりしていたが、事故の衝撃でフロント部が潰れており、両足を骨折。奇跡的に足を切断するという最悪の事態は免れたが、F1ドライバーを続けていくという道は絶たれてしまった。
関連ページ:1977年イアン・アシュレイ
9月10日 パトリック・タンベイ
Patrick Tambay
F1 イタリアGP予選 (フランス)
F1第14戦イタリアGP(モンツァ)予選。
このレースがデビュー5戦目となるパトリック・タンベイは、エンサインN177・フォードで出走。すでに24台中21番手のタイムを叩き出していたのだが、納得はしておらず、勇躍タイムアタックを繰り返していた。とある周回のホームストレート、前を行くエマーソン・フィッティパルディ(フィッティパルディ)のスリップに取り付き、タンベイは追い越そうと進路を変えた。ところがそこは広いホームストレートから急激にコース幅が狭まる地点でもあり、微妙に進路を取るエマーソンとステアリング操作がシンクロしてしまう。前のエマーソンがブレーキングに入った途端、タンベイのマシンはその後部に激しく追突、空中に舞い上がった。マシンはエマーソンの遥か上空を飛び越え、激しいトンボ返りを繰り返しながら先の砂地まで吹き飛び、転地逆になって停止した。火災も発生し、深刻な事態が予想されたものの、タンベイは自力で脱出、救急車の要請も断るほどだったという。
派手な事故の割りに無傷であったという、モータースポーツにおいては一番ほっとする展開だが、実はこの事故、近い未来の二つの事故と奇妙な共通点を抱えていた。追突→トンボ返りという点で富士でのビルヌーブと酷似し、事故現場
の点で翌年のピーターソンと酷似する。あくまで結果論ではあるが、後の二つの大事故の伏線だったという気がしてならない事故だった。
8月13日 ボビー・アイザック
NASCAR (アメリカ)
ヒッコリー・モータースピードウェイでのNASCARライト・モデル・スポーツマンの一戦は異常な酷暑の中、開催された。この決勝レースにシボレー・ノヴァで参戦していたボビー・アイザックが、熱射病に見舞われた。マシンから自力で降りたアイザックだったがその場で昏倒、アイザックは病院に搬送された。しかし、アイザックは意識を取り戻しており、そのまま彼は心配ないと思われた。だが、日付が変わった8月14日に熱者病が原因と見られる心臓発作で死亡した。享年43歳
1970年のNASCARグランドナショナル・シリーズチャンピオンであり、一時期、NASCARから離れていたが、数年前にカムバックを果たしたばかりだった、
7月15日 デビッド・パーレイ(パーリー)
David Purley
F1 イギリスGP

(イギリス)
予備予選にてアタック中、スロットルトラブルから、コースアウト。フェンスに正面から激突する大クラッシュとなる。しかも、マシンは跳ね返らず、車体が圧縮されるような形でその場に停止。救出されたバーレイはパーレイは両足粉砕骨折、両腕の複雑骨折に全肋骨も骨折し、内臓破裂、頸部骨折、そしてすでに心臓は停止していたが、搬送された病院で奇跡的に蘇生に成功。
レーシング・ドライバーとしては戦えない身体にはなったものの、パーレイは生命を取り留める事が出来た。
関連ページ:1977年179Gの衝撃から奇跡的に生還したデビッド・パーレイ

8月29日 ブライアン・マクガイア F1非選手権 ブランズハッチ (オーストラリア)
ブランズハッチで開催された非選手権レース「シェルスポーツ・インターナショナル・シリーズ」第11戦にウィリアムズFW04・フォードで出走。予選走行中にデレック・ベル(ペンスキー)、テリー・フィッシャー(GRD-BDA)と絡む衝突事故を起こして車体が粉々となる。マクガイアは病院に搬送されたもののその日のうちに死亡。享年31歳。
前年の同シリーズ(7月のスラクストン)では優勝を果たしている。
F1選手権には1977年のイギリスGPにウィリアムズFW04を改造した自作マシン「マクガイアBM1」で参戦。予備予選に出走したものの全36台中35位のタイムで通過ならず。
3月19日 マックス・スチュワート
F5000 (オーストラリア)
オーストラリア・カルダーでのF5000レース「ロスマンズ・インターナショナル・チャンピオンシップ」にローラT400・シボレーで参戦。他車と接触して舞い上がり、転落した際にフロント部分が壊れ、その破片がヘルメットのバイザーから頭部を貫き即死した。享年42歳。
1967〜1970年の4年間、オーストラリアのF2タイトルを4連覇した記録を持つ。
3月5日

トム・プライス
Tom Pryce

ジャンセン・ヴァン・ビューレン(マーシャル)

F1・南アフリカGP (イギリス)本名トーマス・マードウィン・プライス
1977年第3戦南アフリカGP(キャラミ)で決勝レース中、リタイアした他車の処理のためコースを横断したマーシャルをトム・プライスの乗るシャドゥ・フォード跳ねる事故が発生。マーシャルは死亡したが、この時マーシャルの持っていた消火器がプライスの頭部を直撃しプライスも即死した。
関連ページ:1977年トム・プライス
1976年
9月12日 ジョン・ウイングフィールド F5000 (イギリス)
スラクストンでのF5000シリーズ第10戦にラルトRT1・フォードで出走。オープニングラップでテリー・パーキンス(サナRD9・フォード)がスピンしてエンジンストールした所に、後続のデレック・コーク(シェブロンB27・フォード)とレイ・マロック(マーチ75B・フォード)が衝突してコースを塞いだ。1周回ってきた上位陣は残骸を回避できたが、離れた8番手を走行中のウイングフィールドはコーナーが死角であった事もあり残骸に接触、宙を舞いガード
レールの上に転落して大破、首を骨折して死亡した。享年33歳。
8月1日 ニキ・ラウダ
Niki Lauda
F1・ドイツGP(ニュルブルクリンク・旧コース)

(オーストリア) 本名アンドレアス・ニコラウス・ラウダ
1975年にチャンピオンに輝いていたニキ・ラウダ。
雨のニュルブルクリンクで大クラッシュを起こしたラウダのフェラーリは炎上。ヘルメットは二つに割れるという衝撃の中、顔面と肺に大やけどを負った。生命も危ぶまれ枕元に神父が呼ばれほどだったが、奇跡的に命を取り留め、わずか6週間で復帰した。しかもチャンピオン争いを繰り広げるという活躍。同年最終戦の日本GPでは、雨の中で決行されたレースに、危険すぎるとして自らリタイアしチャンピオンをあきらめた。しかし、翌77年と、84年にはチャンピオンを獲得し、計3度のタイトルを獲得した。
関連ページ:1976年九死に一生を得たニキ・ラウダ

6月12日 アンドレ・アラー
ル・マン24時間 (フランス)
ル・マン24時間にクロード・ブシュー、ジャン・ルク・ファヴレーゼと組みダットサン240ZでGTクラスに出走。39周目(決勝350周)のミュルサンヌでガードレールに激突、即死した。享年32歳。
5月8日 リチャード・ロバーツ Richard Robarts F2 F2シリーズ5戦目イタリアバレルンガでの「第28回グラン・プレミオ・デ・ロー
マ」の予選中にクラッシュ。マシンは大破する大きな事故であったが、幸いにもロバーツは生還。その後も、イギリス国内では1978年までF2で活躍していた。
事故直後のロバーツの模様
1975年
8月17日

マーク・ダナヒュー(ドナヒュー)
Mark Donohue

マーシャル1名

F1・オーストリアGP

(アメリカ)
F1第12戦オーストリアGP(エステルライヒリンク)にマーチ751・フォードで参戦。
決勝朝のウォームアップ走行中、1コーナーであるヘラ・リヒト・シケインでタイヤのパンクのためコントロールを失いコースアウト。キャッチフェンスとガードレールに突っ込んでひっくり返りながら広告看板に激突した。この際2名のマーシャルが巻き込まれて、そのうちの一人は後日死亡する。
ダナヒューは頭部を強く打ったものの駆け寄った医師たちにはきちんと応えており、当面の心配は無いように思われた。しかし空輸搬送された病院で脳内出血を発症し、二日後の8月19日に死亡した。享年38歳。
高所を搬送した際に脳が腫れ、それにともない出血を招いたのではないかといわれている。
右の画像は、クレーンで引き上げられるダナヒューのマシン。右前輪がかろうじて残っているが、他は全部もぎとられるという衝撃のすさまじさが見てとれる。

F1は1971〜1975年に14回出走し、デビュー戦となった1971年カナダGPで3位を獲得したのが最高位。1974年からペンスキーのF1活動の本格化に伴い、ダナヒューもF1に本格的な参戦をはじめたところだった。
またインディ500にも通算5回出場、1972年の大会では優勝を果たしている。

8月17日 タイニー・ランド(ルンド) モデルスポーツマン・シリーズ アメリカ (アメリカ)本名デウェイン・ルイ・ランド(ルンド表記もある)
モデルスポーツマン・シリーズ(現在のブッシュ・シリーズ)の一戦、タラデガ500に出走。大雨で延期、またスターターにファン・マヌエル・ファンジオがいるなど見所のあるレースだったが、7周目のバックストレッチ中間でランドがJ-D・マクダフィーと衝突してスピン、バンクを滑り落ちてきた所に新鋭テリー・リンクの車がまともに衝突して出火。ランドのポンティアックも炎上し、レスキューが助けようとするもリンクのフロント部が運転席側のドアに食い込んでいるため容易にはできず、とりあえず消火活動に専念。消火後引き出された時には、彼は既に致命傷を負っていた。享年45歳。
大柄な体格ながらも、タイニー「小人」というあだ名があった。1955年にアーカンソーの高速道路を使用して開催された「リーハイ300」というレースでデビューを果たし、初勝利は1963年のデイトナ500という大レースで記録した。
8月10日 B.J.スワンソン F5000 アメリカ (アメリカ)本名バーナード・ジェームス・スワンソン。
、ミド・オハイオでのF5000レースである「バックアイ・カップ」にローラT332で参戦。スタート直後の1コーナーでガードレールに激突して頭部に外傷を負い、三日後の8月13日に死亡した。26歳。
7月5日 ウォーレン・トープ スポーツカーレース (アメリカ)本名ハリー・ウォーレン・トープ
ミシガン州ポンティアックでの公道を使用したスポーツカーレースにマクラーレンM8Eで参戦。単独走行中、フェンスに激突して即死。享年28歳。
(画像はトープが永く愛した69年製のマスタング で、2006年のヒストリック・カーレースに出場した時のもの。現在のオーナーはジョン・マクリントック氏。)
4月27日

ロルフ・シュトメレン Rolf Stommelen

F1スペインGP  モンジュイックパークで行われた1975年F1第4戦スペインGPでロルフ・シュトメレン(ドイツ)駆るヒルGH1・フォードのリヤウイングが突如吹き飛んだ。
リアウイングを失いコントロールを失ったシュトメレンは、コース脇のガードレールを飛び越え、観客席に突っ込無という事故が発生した。この事故により観客4名が死亡しシュトメレンも重症を負った。
リヤウイングが吹き飛ぶ、シュトレメンのマシンの連続写真
(上の写真および連続写真の提供はjohnさん)
クレーンで撤去されるシュトメレン車の画像
この大会はレース前からドライバー達の間で、ガードレールについて主催者に抗議しており、エマーソン&ウィルソン・フィッティパルディやメルツァリオらは決勝レースを走らない選択をしていた程だった。
観客4名
1974年
10月6日 ヘルムート・コイニク(コイニグ)
Helmut Koinigg
F1・アメリカGP (オーストリア)
ちょうど1年前、1973年のフランソワ・セベールの事故があった同じサーキットで、またも凄惨な事故が発生してしまった。
ワトキンズ・グレンにおいて開催されたアメリカGPで、走行中のヘルムート・コイニクがサスペンショントラブルから、ガードレースにクラッシュ。マシンはガードレール下をくぐり抜けたため、コイニクはガードレールによって首を切断されるという悲惨な状況でとなり、コイニクは即死した。享年25歳。
関連ページ:1974年ヘルムート・コイニク
8月4日 マイク・ヘイルウッド
Mike Hailwood
F1 ドイツGP (イギリス)本名スタンリー・マイケル・ベイリー・ヘイルウッド
F1第11戦ドイツGPにマクラーレンM23・フォードで出走。
ゴールまで2周を残した12周目、恐ろしく高低差のあるコーナーでマクラーレンのタイヤがパンクしコースアウト、フルブレーキをかけたものの操縦不能となりガードレールに正面から激突、フロント部が粉々に砕け散った。ヘイルウッドには意識があったが、足を複雑骨折しており、結局この事故がきっかけでF1を引退する事となった。
いったんはレース界を離れて解説者などに転じたが、1978年に2輪に復帰。NCRドゥカティを駆りマン島フォーミュラ・レースで優勝を果たしている。その後1981年に一般公道で急にUターンをしたトラックに衝突するという事故で死亡した。享年40歳。
(写真左、右はヘイルウッドの事故の模様)
8月3日 ハウデン・ガンレイ(ガンリー)
Howden Ganley
F1 ドイツGP (ニュージーランド)本名ジェームス・ハウデン・ガンレイ
F1第11戦ドイツGPにガンレイは日本製のマキF101・フォード で参戦。
予選開始早々、ガンレイはサスペンションの故障からクラッシュしマシン前部を粉砕、両足骨折の重傷を負う。マキF1はこれによりこのレースから撤退した。
6月2日

風戸 裕
(かざと・ひろし)

鈴木誠一
(すずき・せいいち)

富士GC



(画像右・鈴木誠一/左・風戸裕)
富士スピードウェイの30度バンクで多重事故が発生した。鈴木誠一と風戸裕の2台のマシンは、はじき飛ばされガードレールを突き破って炎上。2人のドライバーが死亡するという大事故となった。風戸裕、享年25歳。鈴木誠一、享年37年。
この事故をきっかけに富士スピードウェイの名物であった30度バンクは封印された。 
詳細はこちら:1974年富士GCVol.1  1974年富士GC Vol.2


関連書籍:レーサーの死

4月28日 アルトゥーロ・メルツァリオ
Arturo Merzario
F1 スペインGP (イタリア)
ハラマ・サーキットでのF1第4戦スペインGPにイゾ・ウィリアムズFW03・フォードで出走。4位走行中の38周目(決勝84周)、第3コーナーの
ル・マン・コーナーでブレーキトラブルからスピン、車体が浮き上がってガードレールに激突してそれを飛び越え、カメラマン席に飛び込んだ。
近くには観客も多くおり、状況が心配されたがマシンは右横を大きく潰したもののドライバーは無傷で、付近の観客やカメラマンにも被害はなかった。当時雨が降り始めていて、それも原因のひとつとみられる。
4月25日 シルビオ・モーザー モンツァ1000km WSC開幕戦モンツァ1000kmにアントニオ・ニコデミと組みローラT294・BMWで出走。143周目(決勝174周)のヴィアローネ・カーブ(アスカリ・コーナー)通過後突然右にそれ、1周目にリタイアして駐車したままだったガブリエル・セルブリン&パオロ・ボゼット組のマーチ74S・BMWに突っ込んで大破した。モーザーは衝撃でヘルメットが割れ頭部に重傷を負い、約一ヶ月の昏睡状態から醒めないまま、5月26日に息を引き取った。享年33歳。
F1は1967〜1971年に12回出走し、1968年オランダGPの5位が最高位。この後スポーツカーシリーズに転向し、1973年タルガ・フローリオの5位完走以上の成績を望むべく挑んだモンツァでの事故だった。
4月7日 大村千吉 F2000 テスト 鈴鹿サーキットでF2000マシン(ブラバム・サニー)の練習走行中にガードレールに激突、首を切り即死。享年37歳。
1967年の鈴鹿500km自動車レースで国内デビューを果たし、主にスポーツカー部門で活躍。前年9月の1973全日本・鈴鹿ダイヤモンド・レースでフォーミュラ部門に本格的に転向し(1968年にも一度経験あり)、その矢先の事故だった。
3月22日 ピーター・レヴソン
Peter Revson
F1テスト(南アフリカ・キャラミ) (アメリカ)
キャラミ・サーキットでのF1テスト走行中の事故。移籍したシャドウ・チームでテストドライバ中、2コーナーで左前のサスペンションが壊れ、外側ガードレールにほぼ直角に激突、火を吹いた。すぐさま救急・消防、さらには直後を走っていたグラハム・ヒルやエマーソン・フィッティパルディも駆けつけたが、出血多量のため、ほぼ即死状態だった。享年35歳。
F1は1964〜1974年に30回出走し、優勝は2回(1973年イギリス、同年カナダ)。ポールポジションも1回(1972年カナダ)獲得している。
またインディ500にも挑戦、1969年から1973年に5年連続出場し、1971年には2位を獲得している。
関連ページ:1974年ピーター・レヴソン

1973年

11月23日 中野雅晴
(なかの・まさはる)
富士GC


富士ビクトリー200kmレース、30度バンクで多重事故が発生する。
生沢徹(シグマ)のスピンが引き金となり、多重事故が発生。多くのマシンが爆発・炎上する。消防さえ近寄れない炎の中、中野雅晴は死亡した。享年24歳。
詳細・写真はこちら:1973年富士GC

10月6日 フランソワ・セベール
Francois Cevert
F1・アメリカGP(ワトキンズ・グレン)

(フランス)本名アルバー・ファンソワ・セベール
73年いっぱいで引退するジャッキー・スチュワートの後をついでティレルのNo.1となることが決まっていたセベール。
F1第15戦(最終戦)アメリカGPの予選中に大クラッシュに見舞われる。宙を舞ったマシンは裏返ったままガードレールの真上に落下、セベールはマシンごと体を真っ二つに引き裂かれると言う、凄惨な死を遂げた。セベールの予選タイムは4位を記録していた。享年29歳。
そしてこの事故からちょうど1年後、同じ場所で同じサーキットを舞台に、同様の悲惨な事故がまたも起きることとなる。

関連ページ:1973年非業の死を遂げたフランソワ・セベール

7月29日 ロジャー・ウィリアムソン
Roger Williamson
F1・オランダGP(ザンドフールト)

(イギリス)
F1第10戦オランダGPにマーチ731フォードで出走。8周目、コース中盤のS字コーナーをクリア後フロント部分の破損によりコースアウト、ガードレールに激突した。
それだけならまだしも、そのガードレールは破損が著しく、空に向けて湾曲し傾いている信じられない状態になっており、マーチはそれに「乗る」とカタパルトのように上空に弾き飛ばされた。空高く舞ったマーチはコース脇の土手に一度着地した後、コースに転落して裏返しとなり、炎を上げながら再びガードレールに沿うように停止した。
燃え盛る車体を見て後続のデビッド・パーレイ(LECマーチ)がレースを放棄し救助に当たったが、救急・消防の不手際もあり、鎮火には相当の時間を要した。
結局レースは中断すらされず、ウィリアムソンは炎の中で焼死した。享年25歳。

1972年の英国F3チャンピオンであり、F1はこの1973年にデビュー。前戦イギリスGPでデビューしたが、デビュー戦も多重事故に巻き込まれている。そして2戦目のこの事故で、一度も完走を果たす事なく世を去った。
関連サイト:Zandvoort 1973 (事故時の画像があります)

7月21日

マッシーモ・ラリーニ

スパ・フランコルシャン24時間 (イタリア)
スパ・フランコルシャン24時間にカルロ・ファチェッティと組みアルファロメオ2000GTamで参戦。下記のヨイシュテンとデュボの事故とほぼ同時刻、レ・コムブのヘアピン前でスロットルが故障。全く減速できずに直線
的にコースを飛び出し、フェンスに激突して大破。全身打撲の重傷を負い、7日後の7月28日に死亡した。享年31歳。
7月21日

ハンス・ペーター・ヨイシュテン

ロジャー・デュボ

スパ・フランコルシャン24時間

ハンス・ペーター・ヨイシュテン(ドイツ)
ロジャー・デュボ (フランス)

ETCC第5戦スパ・フランコルシャン24時間にハンス・ペーター・ヨイシュテンはブライアン・ミュールと組みアルピナBMW3.0CSLで参戦。
夜も更けた23時頃、マルメディのコーナーで前を走るロジャー・デュボ&ジャック・ベルガー組のアルファロメオ2000GTVとクラウデュ・バロー・レナ&ジャン・クロード・ラニエス組の同型車(前名が運転者)が接触、デュボのマシンはガードレールに激突して跳ね返り、コース中央に横向きに停止した。そこへ夜間ハイスピード走行中のヨイシュテンが到達、全く減速されずにデュボの運転席側に衝突した。停止したレナと後続で現場に到着したヒューブ・ベルミューレン(オペル)が救急隊とともに二人の救出にあたり、レナはさらに後続に停止するよう駆け回った。
残骸から引き出されたヨイシュテンとデュボの二人はしかし、致命傷を負っており、現場でまもなく死亡した。
ハンス・ペーター・ヨイシュテン 享年31歳。
ロジャー・デュボ、享年26歳

画像上は、ヨイシュテンのアルピナBMW、下はデュボのアルファロメオ

5月30日

スウィード・サベージ

アマンダ・テラン(メカニック)

INDY500

(アメリカ)本名デビッド・アール・サベージ
ソルト・ウォルターが巻き込まれた多重事故後、アル・アンサー(ヴァイスロイ・パーネリ・オッフィー)と首位争いのバトルを展開していたデビッド・アール "スウィード" サヴェージ(STPイーグル・オッフィー/ No40)がコントロールを失い内側の壁に激突。マシンがバラバラになり、全身打撲と全身の火傷により約一ヶ月後の7月2日に死亡した。享年26歳。サベージはインディ500には1972年に続いて通算2回目の出場だった。

また。この事故で現場に駆けつけようとしたメカニックのアマンダ・テランが消防車に跳ね飛ばされ、即死するという二重の悲劇も起こっている。

関連ページ:1973年INDY500の悲劇

5月30日 ソルト・ウォルター INDY500 (アメリカ)
INDY500決勝レース。隊列がそろわない中でのスタートがきられた直後、ウォルターは後ろから追突され、その勢いで前車のタイヤに接触。マシンは弾かれるように舞い上がって外側フェンスに
激突。衝撃で燃料タンクが破裂し、すさまじいオイルを撒き散らせながらコース上を逆さまになって横切った。激突の衝撃でフロント部が壊れ、両足が露出するなど酷い結果かと予想されたが、彼は両足の打撲と手の火傷という、比較的軽傷で事無きを得た。しかし、この多重事故もレース後半の大事故への序章に過ぎなかったのか・・・(画像は1973年インディ500出走時のもの)
関連ページ:1973年INDY500の悲劇
5月12日 アート・ポラード INDY500・予選

(アメリカ)
アート・ポラード(スコーピオン・オッフィー/No.64)が第3ターンから第4ターンにさしかかる地点で外向きにスピン。250km/hという「巡航速度のままクラッシュしたマシンは破片を四散させながら路面上に逆さまに転落、金属音を響かせながら滑走し、コースとインの草地の間で一回転して、天地元通りとなり停止した。
ポラードはあまりにも激しい激突の衝撃で即死していた。享年46歳。
インディ500は通算5回出走しており、1967年の8位(5周遅れ)が最高位となっている。(画像は1970年インディ500出走時のもの)
関連ページ:1973年INDY500の悲劇

1972年
7月2日 ヘルムート・マルコ
Helmut Marko
F1フランスGP (オーストリア)
シャラード・サーキットで行われたフランスGP決勝の8周目、前車が跳ね上げた小石が、BRMを運転するヘルムート・マルコ)のヘルメットのバイザーを貫通して左目を直撃。マルコは失明こそ免れたが、レーシングに必要な視力は戻らず、ドライバー生命を絶たれてしまった。
マルコは前年(1971年)のル・マン24時間で優勝、このフランスGPでも予選6位と好位置をマークするなど、今後の活躍が期待されていたドライバーだった。
小石が貫通し穴が開いたヘルメットの画像(提供:サーリネンさん)
6月11日 ジョー・ボニエ(ヨー・ボニエ)
Jo Bonnier
ル・マン24時間 (スウェーデン) 本名ヨアキム・ボニエ。
ル・マン24時間にジェラール・ラルース、ジィズ・ヴァン・レネップと組みローラT280フォードで参戦。213周目(決勝344周)、ガードレールを飛び越え
る大クラッシュを演じ大破、即死した。享年42歳。
F1は1957〜1971年に104回出走、優勝は1959年オランダGPの1回。このレースではまた、唯一のポールポジションを獲得している。
5月21日 イヴォ・グロール ツーリングカー (ベルギー)
シメイでのツーリングカー・レースで事故死。享年28歳。
5月20日 カルロ・ベネッリ ヒルクライム (イタリア)
カスティオーネ・パラッティ・ヒルクライムの練習走行中に事故死。享年30歳。
5月20日 ルイジ・リナルディ ツーリングカー (イタリア)
ブルノでのツーリングカー・レースの予選走行中に事故死。享年31歳。
5月14日 ジム・マロイ インディ500 (アメリカ)
インディ500のプラクティス走行中、第3ターンで外壁に激突。マシン前部が粉砕され、インフィールドの草地まで滑走して停止。ジム・マロイは頭蓋骨粉砕骨折の致命傷ながらメソジスト病院で4日間生き、5月18日に
亡くなった。享年36歳。
インディ500には1968年から通算4回出場しており、前年の71年には4位入賞を果たしている。(画像は1971年インディ500出走時のもの)
4月14日 バート・ホーソーン F2 ホッケンハイム (ニュージーランド)
欧州F2選手権の第3戦、ホッケンハイムで開催された「ジム・クラーク・メモリアル」にレダAM29で参戦。4年前とは逆の快晴の下の予選中、皮肉にもクラークが亡くなった地点でクラッシュ、炎上して死亡。享年28歳。
なおこのレースには日本から生沢徹、風戸裕も遠征参戦しており、風戸裕・リタイア、生沢徹は8位という結果を残している。
2月17日 フライデイ・ハスラー デイトナ500 (アメリカ)
デイトナ500のクォリファイング・レース「ツイン125マイル」で事故死。享年37歳。
1月8日 ブライアン・ファルーン F5000 (ニュージーランド)
プケコエでのニュージーランド・グランプリ(F5000クラス)で事故死。享年27歳。
1971年
11月14日 ジョバンニ・サルヴァーティ F2 (イタリア)
ブラジル・ポルトアレグレでのF2レース「トルネイオ・ブラジリネイロ」にマーチ712Mで出走。43周目(決勝60周)に単独事故を起こして死亡。
享年30歳。
10月24日 ジョー・シファート(ヨー・シフェール、ヨゼフ・シフェール、ヨー・シフェール)
Jo Siffert
非選手権F1 (スイス)本名ジョセフ・シファート。
非選手権F1の「ビクトリー・レース」と命名されたレースにBRM-P160で出走。ポールポジションからスタートし、上位走行中の15周目、後にサーティース・コーナーと呼ばれる地点の立ち上がり(後にジョニー・ハーバートが重傷を負った地点)でロニー・ピーターソンのマーチ711と接触、BRMは大きく宙を舞って左側に弾き飛ばされ、裏返しになりながら土手に激突、芝生を滑走しながら出火した。車体は後部が少し見える以外は猛烈な炎に包まれ、数分後に消防隊が消火活動を施したものの、シファートはマシンの中で焼死した。享年35歳。
(右下の画像は炎上するシファートのマシン)
このレースは当初40周だったが、この大事故のため事故の前周である14周終了をもって中止の措置がとられこの時点でトップだったBRMのピーター・ゲシンが優勝した。シファートは規定周回を満たしていたため、成績上は4位という結果が記録されている。
シファートはF1には1962〜1971年に96回出走し、優勝2回、ポールポジション2回、ファステストラップ4回を記録している。
また彼はスポーツカーやカンナムにも挑戦、1969年の日本グランプリの際も来日し、ポルシェ917で6位の成績をおさめている
9月18日 ピーター・ホウティン F5000 (イギリス)
9月18日、オールトン・パークでのF5000レースで事故死。
9月12日 クラウス・ライシュ イモラ500km (オーストリア)
9月12日、インターセリエ第6戦、サンマリノでのイモラ500kmにアルファロメオT33/3で出走。雨の中の21周目、第1コーナーでコースアウトしそのまま外壁に激突大破、即死した。享年26歳
7月25日 レイモン・マサイ スパ・フランコルシャン24時間 (ベルギー)
7月25日、スパ・フランコルシャン24時間で事故死。享年39歳。
7月11日 ペドロ・ロドリゲス
Pedro Rodriguez
ドイツ・ノリスリング(スポーツカーレース)

(メキシコ)
1962年に事故死したリカルド・ロドリゲスの兄。
インターセリエ第4戦、ノリスリングでの「ニュルンベルク200マイル」にハーバート・ミューラーのエントラントでFerrari512Mを駆り参戦。11周目(決勝52周)の右カーブ手前、ブレーキングポイントの地点で突然右前輪が破裂するとそのまま直線的に外側ガードレールに激突、すさまじい勢いで跳ね返されて猛烈な炎に包まれた。
後続のハーバート・ミューラー、レオ・キヌーネンらが自主的にレースを放棄して彼の救出に当たり、病院に搬送されたが、頭蓋骨骨折と全身の火傷の為、約2時間後に死亡した。享年31歳。
左は事故現場の見取り図(クリックで拡大します)

1963年にロータスからF1デビュー。F1の他にもスポーツカーでフェラーリ等を駆り、1968年にはル・マン優勝、1970・1971年とデイトナ24時間を2連覇している。兄弟そろっての事故死という運命が呪わしい。

関連サイト:Fotos 1971 - zum Vergrosern bitte darauf klicken! (ページ中段参照)
Pedro Rodriguez - Norisring '71(YouTube)

7月4日 スタン・バーネット テスト (アメリカ)
シアトルでテスト走行中に事故死。享年36歳。
4月24日 メル・アンドラス F5000 (アメリカ)
リヴァーサイドでのF5000レースの予選走行中に事故死。
1月10日 イグナツィオ・ギュンティ
Ignazio Giunti
WSC ブエノスアイレス1000km (イタリア)
アルトゥーロ・メルツァリオと組みFerrari312PBで参戦。38周目(決勝165周)にコース上に停止していたジャン・ピエール・ベルトワーズのマトラ・シムカMS660に激突し炎上、焼死した。享年29歳。
コース上でマシンを押してピットをめざそうとしたベルトワーズの無謀な行為と、フラッグの提示など適切な対処を怠った運営サイドのミスによる被害者ともいえる。
1971年ブエノスアイレス1000km
1970年
10月9日 佐藤敏彦(メカニック) 日本オールスターレース(富士スピードウェイ) 「日本オールスターレース」のシルバーカップに風戸裕選手のメカニックとして参加。予選開始早々の1午後1時過ぎ、佐藤敏彦はホームストレートを通過する風戸選手にピットサインを送ったが、この後、後方をよく確認しないまま二・三歩ピットロードへと歩き出してしまう。そこへ、予選開始後4周を消化してピットインして来た寺西孝利選手のブルーバードSSSが接近。約40m手前で寺西選手は反応し、急ブレーキで右へハンドルを切るも、車が横向きになりかけたため今度は左に旋回、ガードレールにぶつかる前に佐藤俊彦と接触し、佐藤さんは約9m跳ね飛ばされてレースコース上に叩き付けられた。佐藤さんは全身打撲のうえに腹部裂傷の重傷を負い、市内の御殿場中央病院に搬送されたものの
出血多量のため、事故から約2時間後の午後3時4分に死亡した。享年23歳。
この事故により、一方の当事者である日産は佐藤さんの喪に服す意味で、契約選手の当レースの出場を辞退を発表し、14名のドライバーが出走を取りやめた。
9月5日 ヨッヘン・リント
Jochen Rindt
F1・イタリアGP

(オーストリア)本名カール・ヨッヘン・リント。
シーズン5勝をあげ、チャンピオン獲得に向かって快走していたヨッヘン・リント。
ここで勝てばチャンピオンをほぼ確実にするというイタリアGPで悲劇は起きた。
予選初日走行開始直後の5周目、、ロータス72がパラボリカ手前に差し掛かったとき、ブレーキシャフトが折れ、コントロールを失い突然外側にコースアウト、ガードレールにノーズからクラッシュする。ガードレールに食い込んだ部分は勢いでそのまま引きちぎられ、一度バウンドしてその先の砂地に落ち、数回スピンして砂煙を上げながらようやく停止した。
救急隊が駆けつけたが、リントはコクピットの中に埋まるようにして動かず、直ちに病院へ担ぎ込まれたが胸郭破裂が致命傷となり、搬送中に息を引き取った。
享年28歳。

死亡時点ではヨッヘン・リントはランキング1位であり、リントの死後イタリアを含めた残り4戦で充分逆転のチャンスもあったが、イタリアで伏兵のレガッツォーニ
が優勝、カナダでイクス、アメリカで新人フィッティパルディと全て違うドライバーが勝ったため、誰もリントの得点に追いつけず、史上初、リントが死して後チャンピオンに輝いた。

8月26日 川合 稔
かわい・みのる
テスト(鈴鹿サーキット)

Can-Nam挑戦を視野に入れたトヨタ7をテスト中に事故死。
鈴鹿サーキットのヘアピン手前の110Rコーナーで右80m、左65mのブラックマークを残してコースアウト。コースサイドの溝に激突し、マシンは大破。川合稔はマシンから放り出されており、すぐさま救急車で病院に搬送されたが、30分後に死亡が確認された。享年27歳。

詳細はこちら 
関連書籍:レーサーの死

8月23日 秋山喜芳
あきやま・きよし
鈴鹿サーキット 鈴鹿サーキットでの「鈴鹿12時間自動車耐久レース」にホンダS800で参戦。
スタートから7時間を過ぎた午後5時前、スプーンカーブに差し掛かる少し手前の地点でベレットに乗る西野選手が左から秋山喜芳のホンダS800を抜きにかかった。この際ベレットは左両輪がコースからはみ出て、その直後右の秋山のマシンにに被さるような格好で右側ガードレールに2台とももつれあうように衝突。両車合わせて150リットルものガソリンが爆発した。
西野選手はすぐに脱出して無事だったが、秋山喜芳は激突の際気絶したか燃え盛る車から出られずに約15分間閉じ込められ、ほぼ炭化した状態で引き出された。彼にとってこの大会が初めての大レースだった。享年21歳。
7月26日 グリン・スコット レイクサイド (オーストラリア)
レイクサイドでのフォーミュラカー・レースで事故死。享年44歳。
7月19日 ジェリー・タイタス ロード・アメリカ (アメリカ)
エルクハート・レイクでの「ロード・アメリカTrans-Am」にポンティアック・ファイアーバードで参戦、予選中に前車を追い抜こうとしてコースアウトしコンクリート製の橋脚に激突。頭蓋骨骨折、脾臓破裂の重傷を負い、17日後の8月5日に死亡。享年42歳。
7月12日 ヘルベルト・シュルツェ ニュルブルクリンク6時間 (ドイツ)
ニュルブルクリンク6時間で事故死。
6月28日 ジャン・ルク・サロモン F3 (フランス)
下記のF3レースにマルティニMW5・フォードで参戦。ダヤンの事故後の17周目(決勝20周)。上位走行中にリチャード・スコット(ブラバム)、フレディ・コッタリンスキー(ロータス)、シド・ウィリアムズ(ブラバム)、ジェリー・ビレル(ブラバム)、そしてジャン・ルク・サロモンを含めた多重衝突事故が発生。サロモンが即死した。享年26歳。
6月28日 デニス・ダヤン F3 (フランス)
ルーアンにて開催された欧州F3シリーズの第45戦(通算85戦)、フランスF3選手権における第10戦にあたる「クプ・ド・ヴィテッセ・デル・A.C.ノーマン」にGRTC・MT11で出走。13周目に前の周でクラッシュしたボブ・ウォレク(ブラバム)の残骸に衝突して重傷を負い、9日後の7月7日に死亡。享年28歳。
6月28日 デリック・ウィリアムズ F5000 (イギリス)
スウェーデン・アンデルストープでのF5000レースで事故死。享年27歳。
6月21日 ピアス・カレッジ
Piers Courage
F1・オランダGP (イギリス)
F1第5戦オランダGPにデ・トマゾ505・フォードで出走。7位走行中の23周目、イースト・トンネル手前の右コーナーでスピンし外側ガードレールに衝突、勢いは激しくそれを突き破った。
車体は瞬時に原型を留めぬ残骸となったがスピードは衰えず、火の玉となりながらさらにその奥のイースト・トンネルの橋を支える欄干に激突した。車体はここでようやく跳ね返され、コースすぐ脇のキャッチネットが張られた草地に転落、どす黒い煙を立ち上がらせながら、マシンの中で死亡した。即死だった。享年28歳。
F1は1966〜1970年に28回出走。優勝は無いが、2度の2位(1969年モナコ・同年アメリカ)を記録している。
またFerrariからもオファーがあり、1971年は移籍の話も濃厚と言われていた矢先の惨事だった。
6月13日 ディック・ブラウン CAN-AM (アメリカ)
モスポート・パークでのCAN-AM開幕戦「ラバッツ・ブルー・トロフィー」にマクラーレンM6Bシヴォレーで参戦、その予選中に事故死
6月2日 ブルース・マクラーレン
Bruce Mclaren
テスト(カンナム) (ニュージーランド)本名レスリー・ブルース・マクラーレン
グッドウッドでCAN-AMカーのマクラーレンM8Dに乗りテスト走行中、時速270km/hを超えた所でスピン、後ろ向きになった瞬間車が舞い上がり、70m離れた使用されていないマーシャルの詰め所(コンクリート製)に激突して大破、首の骨を折って死亡した。享年32歳。

幼少の頃パース病という難病にかかり、片足が不自由だった。
クーパーからF1にデビューし1959年アメリカGPで史上最年少優勝を果たし、1966年からはF1でも自らのチーム、マクラーレンを創設し自らのマシンで出場していた。ブルース・マクラーレンの死後、チームは友人のテディ・メイヤーが引き継ぎ、後にロン・デニスが合流し現在のマクラーレンチームとなっている。
5月30日 ハンス・レイネ ニュルブルクリンク1000km (フィンランド)
WSC第7戦ニュルブルクリンク1000kmにジィズ・ヴァン・レネップ(オランダ)と組みポルシェ908/02で参戦。その予選中に事故死。享年24歳。
2月19日 タルメッジ・プリンス デイトナ500 (アメリカ)
デイトナ500マイルのクォリファイング・レース、「ツイン125マイル」で事故死。享年32歳。
ダッジの名手として知られた。
1970年 デヴィッド・パイパー
David Piper
映画撮影 サルテサーキット (イギリス)
1970年、スティーブ・マックィーン主演の映画「栄光のル・マン」の撮影中、撮影に協力したデヴィッド・パイパーの運転するポルシェ917がガードレールに激突するという事故が発生した。
撮影は実際のサルト・サーキットで行われていたもので、アルナージュで、バイパーのポルシェは両側のバリアに衝突し、マシンが真っ二つになり溝に停止、、パイパーは右足を切断するという重傷を負った。
詳細ページ:1970「栄光のル・マン」撮影中の事故
関連ビデオ:栄光のル・マン(主演・スティーブ・マックィーン)
 

(このページの写真・画像はMOZAさんおよびjohnさんからご提供いただきました。
表記の無いものはMOZAさんからの提供です)

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