ナイジェル・マンセル F1・CART での戦績 |
年
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マシン |
決勝最高位 |
予選最高位 |
ファステストラップ |
シリーズランキング(ポイント) |
1980年
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ロータス81B・フォード |
リタイア |
16位 |
-- |
--位(0P)
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(第10,11,12戦に参戦)
ロータスの3台目のマシンのドライバーとして第10戦オーストリアGPでデビュー。しかし、コクピット内にもれた燃料で大やけどを負いながらの必死でたえてのデビュー戦だった。
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1981年
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ロータス81B・フォード(1-4戦)
ロータス87・フォード
(5戦-)
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3位 |
3位 |
-- |
14位(8P) |
81年からフル参戦。チームメイトはE.デ・アンジェリス。
第5戦ベルギーGP(ゾルダー)では初めての入賞・3位表彰台を獲得。第6戦モナコGPでは予選3位を獲得。最終戦のアメリカGP(ラスベガス)では4位にはいるなど、ドライバーのテクニックが重要なレースでは良いところをみせる。 |
1982年
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ロータス87・フォード
(1戦)
ロータス91・フォード (2戦-) |
3位 |
7位 |
-- |
14位(7P) |
前年同様ロータスのNo.2体制。第2戦ブラジルGPでは3位に入賞するも、厳しいシーズン。(第4/9/11戦は欠場) |
1983年
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ロータス92・フォード(1-8戦)
ロータス94T・ルノー(9〜15戦)
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3位 |
3位 |
1回 |
12位(10P) |
前半は苦戦が続くも、ルノーエンジンに載せ替えた中盤以降マシンの戦闘力は向上する。第14戦ヨーロッパGPでは3位入賞。この時、初めてのファステストラップを記録する。 |
1984年
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ロータス95T・ルノー |
3位 |
PP 1回 |
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9位(13P) |
第9戦アメリカGP(ダラス)で初のPPを獲得。迎えた決勝ではゴール直前にガス欠でストップしてしまう。しかしマンセルはマシンから降りると、自らの力でマシンを押してゴールを目指した。(結果は6位)
シーズン全般にはこれまで同様、チームメイトに遅れをとり、リタイアも11回と多かった。それでも第13戦オランダGPでは、またも3位入賞。5回の完走はすべて入賞(表彰台2回)と早いところも見せた。 |
1985年
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ウィリアムズFW10・ホンダ |
優勝 2回 |
PP 1回 |
1回 |
6位(31P) |
セナにロータスのシートを奪われる形でウィリアムズに移籍。チームメイトは元チャンピオンのケケ・ロズベルグであり、またもNo.2ドライバーとしての加入だった。
しかし、シリーズ終盤にはホンダエンジンが競争力を増し、マンセルも一気に上昇気流に乗る。
第14戦ヨーロッパGP(イギリス・ブランズハッチ)で予選3位から初優勝。ロズベルグを従えての地元での優勝に、イギリスのファンから歓喜の祝福を受ける。続く南アフリカGPでは初のポール・トゥ・ウインを決める。 |
1986年
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ウィリアムズFW11・ホンダ |
優勝 5回 |
PP 2回 |
4回 |
2位(72P) |
マシンの戦闘力も向上し、堂々のチャンピオン争いを繰り広げる。ウイリアムズ・ホンダのマンセルと、ネルソン・ピケ、そしてマクラーレンのプロストの3つどもえのチャンピオン争い。最終戦前の時点で5勝、2位2回、3位2回と成績を残したマンセルがランキング1位をキープしていた。しかし、最終戦オーストラリアGPでまさかのタイヤバーストでリタイア。大逆転でアラン・プロストが優勝しタイトル獲得に失敗する。 |
1987年
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ウィリアムズFW11B・ホンダ |
優勝 6回 |
PP 8回 |
3回 |
2位(61P) |
チームメイトのピケとの一騎打ちとなったシーズン。6勝を挙げながらランキング2位のマンセルは日本GP以降に逆転の望みをかける。しかしマンセルは予選中に鈴鹿サーキットのS字でクラッシュ。決勝に出走することが出来ず、ピケが3度目のチャンピオンを獲得。マンセルは2度目のチャンピオン獲得のチャンスを逃す。 |
1988年
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ウィリアムズFW12・ジャッド |
2位 |
2位 |
1回 |
9位(12P) |
ホンダエンジンを失い非力なジャッドエンジンで戦う。2位2回を記録し意地を見せるが 残りは全てリタイアというあたりがマンセルらしい。
また、地元での第9戦イギリスGPで、FLを記録しているところに非力なマシンで戦わざるをえなかったマンセルの意地が見える。
(第11/12戦、欠場) |
1989年
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フェラーリ640 |
優勝 2回 |
3位 |
3回 |
4位(38P) |
フェラーリに移籍。チームメイトはG.ベルガー。
第1戦目のブラジルGPでいきなり優勝し、イタリアの期待を大いに集めた。しかし、その後はマシンの信頼性に泣かされリタイアが続く。そんななか第10戦ハンガリーGPでは予選12番手からスタートし、オーバーテイクの難しいコースにも関わらず上位に進出、セナの一瞬のミスを突き逆転、優勝した。
しかし13戦目のポルトガルGPではピットロードを逆送し黒旗を提示されたがこれを無視して走り続け、トップ走行中のセナとクラッシュするという問題も起こした 。黒旗無視に対するペナルティとして翌戦の出場停止処分も受けた
(第14戦、欠場。第6/13戦、失格) |
1990年
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フェラーリ 641 |
優勝 1回 |
PP 3回 |
3回 |
5位(37P) |
チームメイトにプロストが加入。チームは次第にプロストを中心に回り始める。第8戦イギリスGPをリタイアで終えた後には突然引退宣言。、
一方、13戦ポルトガルGPのスタートでセナとタイトル争いをしていたチームメイトのプロストに幅寄せし、自身は優勝をしプロストのタイトル争いの邪魔をするというマンセルらしい行動も見られた。 |
1991年
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ウィリアムズFW14・ルノー |
優勝 5回 |
PP 2回 |
6回 |
2位(72P) |
引退宣言を撤回しウイリアムズへ復帰。チームメイトはR.パトレーゼ。
この年のウイリアムズ・ルノーFW14は戦闘力が非常に高く、マンセルは快走する。
しかし、第5戦カナダGPではトップを快走していながら、最終ラップで観客に手を振っていて誤ってキルスイッチを押してリタイアするという大チョンボをしてしまう(結果は6位)。このカナダのミスは結果として終盤のマンセルに大きくのしかかってくる。
その後は3連勝を含む5勝をあげ、セナとタイトル争いを演じるが、第15戦日本GPで、マンセルは1コーナーでスピン・リタイアして万事休す。
86年、87年に続いて3度もタイトルを逃したマンセルは「無冠の帝王」と呼ばれる事になる。 |
1992年
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ウィリアムズFW14B・ルノー |
優勝 9回 |
PP 14回 |
8回 |
1位(108P) |
ワールドチャンピオン
ウイリアムズは、リアクティブ・サスペンション、トラクション・コントロール・システム等のハイテクを熟成。ウィリアムズ・ルノーFW14Bは「アナザー・プラネット」と呼ばれるほどの速さを見せる。
マンセルは開幕から5戦連続ポール・トゥ・ウインを飾り、ライバルは同じマシンを駆るチームメイト、リカルド・パトレーゼだけであった。
しかも、前年は予選では遅れをとることがおおかったR.パトレーゼをこの年は圧倒する。
第6戦モナコGPもトップを走っていたが、後輪に異常を感じて緊急ピットイン。この間にトップに浮上したセナと、歴史に残るバトル(注1)を繰り広げる。意地と技術を込めたバトルにマンセルは2位となるが、勝ったセナを称える仕草を見せるマンセルは男らしかった。
その後も3連勝を飾り、第11戦ハンガリーGPで初タイトルを獲得。無冠の帝王を返上する。その後も当時の年間最多勝記録である9勝を挙げた。
しかし翌年のシート争いには敗れる形となり、イタリアGPでは2度目の引退宣言。
翌年はインディカーに戦いの場を移した。
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1993年
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(CART/ニューマン・ハース) |
優勝 5回 |
PP 7回 |
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1位(191P) |
CART シリーズチャンピオン
ニューマン・ハース・チームからアメリカのCARTシリーズに参戦。
初戦でいきなり優勝するという活躍。F1チャンピオンの実力を発揮する。しかし第2戦ではクラッシュを経験、オーバルレースの洗礼を受ける。しかし、その後も予想外の適応をし、オーバルコースでも4勝をあげるなど大活躍をし、1年目でタイトルを獲得した。
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1994年
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(CART/ニューマン・ハース) |
2位 |
PP 3回 |
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8位(88P) |
2年目のCARTでは何故か勝てない。気持ちが乗らないと結果が出ないマンセルらしい。
特に、セナを無くしたF1から復帰要請が来ると、CARTと日程が重ならないF1にも参戦を再開する。 |
ウィリアムズFW16B・ルノー |
優勝 1回 |
PP 1回 |
-- |
9位(13P) |
CARTに参戦していたマンセルだが、イモラでアイルトン・セナが亡くなり、スター不在となったF1を救うべくCARTと日程の重ならないフランスGPとラスト3戦を古巣のウイリアムズで走ることとなった。大雨の日本GPではジャン・アレジとのテール・トゥ・ノーズの大バトルを130Rで演じマンセル健在を示す。最終戦オーストラリアGPではポル・ツゥ・ウインで優勝。
(第7戦、第14〜16戦のみ参戦) |
1995年
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マクラーレン・メルセデス |
10位 |
9位 |
-- |
--位(0P) |
マクラーレンのレギュラーとして本格復帰のはずだった。しかし、マシンが体型に合わずドライブできないとして1,2戦を欠場。3,4戦は参戦したが結局その後途中降板。そのまま引退となった。
マクラーレンへの加入が決まったときから、マンセルとロン・デニスの相性が悪すぎるのでは無いかと噂されたが、それが当たったのかもしれない。 |