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闘魂あふれる熱き走り
愛された個性、ナイジェル・マンセル

ナイジェル・マンセル(Nigel Mansell )

 
本名 ナイジェル・アーネスト・ジェイムス・マンセル
愛称 大英帝国の息子  荒法師  レッドファイブ(ウィリアムズ在籍時)  マンちゃん
生年月日 1955年8月8日 イギリス・イングランド出身
URL
主な戦績 1976年 イギリス・フォーミュラフォード1600参戦
1978〜1979年 イギリス・F3参戦
1979年 F1ロータスのテストに参加

1980年〜1992年 1994年〜1995年 Formula 1 参戦  1992年 ワールドチャンピオン

出走 187回 (歴代 10位)
優勝  31回 (歴代 4位)
PP   32回 (歴代 5位)
FL   30回 (歴代 3位)
獲得ポイント 482点 (歴代5位)

1993年〜1994年 CART 参戦 1993年 CARTチャンピオン

優勝  5回
PP  10回
獲得ポイント 279P

 

ナイジェル・マンセル  F1・CART での戦績
マシン 決勝最高位 予選最高位 ファステストラップ シリーズランキング(ポイント)
1980年
ロータス81B・フォード リタイア 16位 --

--位(0P)

(第10,11,12戦に参戦)
ロータスの3台目のマシンのドライバーとして第10戦オーストリアGPでデビュー。しかし、コクピット内にもれた燃料で大やけどを負いながらの必死でたえてのデビュー戦だった。
1981年

ロータス81B・フォード(1-4戦)
ロータス87・フォード (5戦-)

3位 3位 -- 14位(8P)
81年からフル参戦。チームメイトはE.デ・アンジェリス。
第5戦ベルギーGP(ゾルダー)では初めての入賞・3位表彰台を獲得。第6戦モナコGPでは予選3位を獲得。最終戦のアメリカGP(ラスベガス)では4位にはいるなど、ドライバーのテクニックが重要なレースでは良いところをみせる。
1982年
ロータス87・フォード (1戦)
ロータス91・フォード (2戦-)
3位 7位 -- 14位(7P)
前年同様ロータスのNo.2体制。第2戦ブラジルGPでは3位に入賞するも、厳しいシーズン。(第4/9/11戦は欠場)
1983年
ロータス92・フォード(1-8戦)
ロータス94T・ルノー(9〜15戦)
3位 3位 1回 12位(10P)
前半は苦戦が続くも、ルノーエンジンに載せ替えた中盤以降マシンの戦闘力は向上する。第14戦ヨーロッパGPでは3位入賞。この時、初めてのファステストラップを記録する。
1984年
ロータス95T・ルノー 3位 PP 1回 9位(13P)
第9戦アメリカGP(ダラス)で初のPPを獲得。迎えた決勝ではゴール直前にガス欠でストップしてしまう。しかしマンセルはマシンから降りると、自らの力でマシンを押してゴールを目指した。(結果は6位)
シーズン全般にはこれまで同様、チームメイトに遅れをとり、リタイアも11回と多かった。それでも第13戦オランダGPでは、またも3位入賞。5回の完走はすべて入賞(表彰台2回)と早いところも見せた。
1985年
ウィリアムズFW10・ホンダ  優勝 2回 PP 1回 1回 6位(31P)
セナにロータスのシートを奪われる形でウィリアムズに移籍。チームメイトは元チャンピオンのケケ・ロズベルグであり、またもNo.2ドライバーとしての加入だった。
しかし、シリーズ終盤にはホンダエンジンが競争力を増し、マンセルも一気に上昇気流に乗る。
第14戦ヨーロッパGP(イギリス・ブランズハッチ)で予選3位から初優勝。ロズベルグを従えての地元での優勝に、イギリスのファンから歓喜の祝福を受ける。続く南アフリカGPでは初のポール・トゥ・ウインを決める。
1986年
ウィリアムズFW11・ホンダ 優勝 5回 PP 2回 4回 2位(72P)
マシンの戦闘力も向上し、堂々のチャンピオン争いを繰り広げる。ウイリアムズ・ホンダのマンセルと、ネルソン・ピケ、そしてマクラーレンのプロストの3つどもえのチャンピオン争い。最終戦前の時点で5勝、2位2回、3位2回と成績を残したマンセルがランキング1位をキープしていた。しかし、最終戦オーストラリアGPでまさかのタイヤバーストでリタイア。大逆転でアラン・プロストが優勝しタイトル獲得に失敗する。
1987年
ウィリアムズFW11B・ホンダ 優勝 6回 PP 8回 3回 2位(61P)
チームメイトのピケとの一騎打ちとなったシーズン。6勝を挙げながらランキング2位のマンセルは日本GP以降に逆転の望みをかける。しかしマンセルは予選中に鈴鹿サーキットのS字でクラッシュ。決勝に出走することが出来ず、ピケが3度目のチャンピオンを獲得。マンセルは2度目のチャンピオン獲得のチャンスを逃す。
1988年
ウィリアムズFW12・ジャッド 2位 2位 1回 9位(12P)
ホンダエンジンを失い非力なジャッドエンジンで戦う。2位2回を記録し意地を見せるが 残りは全てリタイアというあたりがマンセルらしい。
また、地元での第9戦イギリスGPで、FLを記録しているところに非力なマシンで戦わざるをえなかったマンセルの意地が見える。
(第11/12戦、欠場)
1989年
フェラーリ640 優勝 2回 3位 3回 4位(38P)
フェラーリに移籍。チームメイトはG.ベルガー。
第1戦目のブラジルGPでいきなり優勝し、イタリアの期待を大いに集めた。しかし、その後はマシンの信頼性に泣かされリタイアが続く。そんななか第10戦ハンガリーGPでは予選12番手からスタートし、オーバーテイクの難しいコースにも関わらず上位に進出、セナの一瞬のミスを突き逆転、優勝した。
しかし13戦目のポルトガルGPではピットロードを逆送し黒旗を提示されたがこれを無視して走り続け、トップ走行中のセナとクラッシュするという問題も起こした 。黒旗無視に対するペナルティとして翌戦の出場停止処分も受けた
(第14戦、欠場。第6/13戦、失格)
1990年
フェラーリ 641 優勝 1回 PP 3回 3回 5位(37P)
チームメイトにプロストが加入。チームは次第にプロストを中心に回り始める。第8戦イギリスGPをリタイアで終えた後には突然引退宣言。、
一方、13戦ポルトガルGPのスタートでセナとタイトル争いをしていたチームメイトのプロストに幅寄せし、自身は優勝をしプロストのタイトル争いの邪魔をするというマンセルらしい行動も見られた。
1991年
ウィリアムズFW14・ルノー 優勝 5回 PP 2回 6回 2位(72P)
引退宣言を撤回しウイリアムズへ復帰。チームメイトはR.パトレーゼ。
この年のウイリアムズ・ルノーFW14は戦闘力が非常に高く、マンセルは快走する。
しかし、第5戦カナダGPではトップを快走していながら、最終ラップで観客に手を振っていて誤ってキルスイッチを押してリタイアするという大チョンボをしてしまう(結果は6位)。このカナダのミスは結果として終盤のマンセルに大きくのしかかってくる。
その後は3連勝を含む5勝をあげ、セナとタイトル争いを演じるが、第15戦日本GPで、マンセルは1コーナーでスピン・リタイアして万事休す。
86年、87年に続いて3度もタイトルを逃したマンセルは「無冠の帝王」と呼ばれる事になる。
1992年
ウィリアムズFW14B・ルノー 優勝 9回 PP 14回 8回 1位(108P) 
ワールドチャンピオン
ウイリアムズは、リアクティブ・サスペンション、トラクション・コントロール・システム等のハイテクを熟成。ウィリアムズ・ルノーFW14Bは「アナザー・プラネット」と呼ばれるほどの速さを見せる。
マンセルは開幕から5戦連続ポール・トゥ・ウインを飾り、ライバルは同じマシンを駆るチームメイト、リカルド・パトレーゼだけであった。
しかも、前年は予選では遅れをとることがおおかったR.パトレーゼをこの年は圧倒する。

第6戦モナコGPもトップを走っていたが、後輪に異常を感じて緊急ピットイン。この間にトップに浮上したセナと、歴史に残るバトル(注1)を繰り広げる。意地と技術を込めたバトルにマンセルは2位となるが、勝ったセナを称える仕草を見せるマンセルは男らしかった。
その後も3連勝を飾り、第11戦ハンガリーGPで初タイトルを獲得。無冠の帝王を返上する。その後も当時の年間最多勝記録である9勝を挙げた。
しかし翌年のシート争いには敗れる形となり、イタリアGPでは2度目の引退宣言。
翌年はインディカーに戦いの場を移した。

1993年
(CART/ニューマン・ハース) 優勝 5回 PP 7回   1位(191P)

CART シリーズチャンピオン
ニューマン・ハース・チームからアメリカのCARTシリーズに参戦。
初戦でいきなり優勝するという活躍。F1チャンピオンの実力を発揮する。しかし第2戦ではクラッシュを経験、オーバルレースの洗礼を受ける。しかし、その後も予想外の適応をし、オーバルコースでも4勝をあげるなど大活躍をし、1年目でタイトルを獲得した。

1994年
(CART/ニューマン・ハース) 2位 PP 3回 8位(88P) 
2年目のCARTでは何故か勝てない。気持ちが乗らないと結果が出ないマンセルらしい。
特に、セナを無くしたF1から復帰要請が来ると、CARTと日程が重ならないF1にも参戦を再開する。
ウィリアムズFW16B・ルノー 優勝 1回 PP 1回 -- 9位(13P)
CARTに参戦していたマンセルだが、イモラでアイルトン・セナが亡くなり、スター不在となったF1を救うべくCARTと日程の重ならないフランスGPとラスト3戦を古巣のウイリアムズで走ることとなった。大雨の日本GPではジャン・アレジとのテール・トゥ・ノーズの大バトルを130Rで演じマンセル健在を示す。最終戦オーストラリアGPではポル・ツゥ・ウインで優勝。
(第7戦、第14〜16戦のみ参戦) 
1995年
マクラーレン・メルセデス  10位 9位 -- --位(0P)
マクラーレンのレギュラーとして本格復帰のはずだった。しかし、マシンが体型に合わずドライブできないとして1,2戦を欠場。3,4戦は参戦したが結局その後途中降板。そのまま引退となった。
マクラーレンへの加入が決まったときから、マンセルとロン・デニスの相性が悪すぎるのでは無いかと噂されたが、それが当たったのかもしれない。

 

マンセルの記憶

マンセルを一言で表すならば、「闘志」だろうか。

幾多のレースシーンを通して、数々の不運にも見舞われたが、決してあきらめることなく戦い続けた姿は多くのファンに感動を与え、イギリスでは「大英帝国の息子」として国民的な人気を誇り、イタリアでも「ライオン」としてティフォシから支持を得た。
また、ファンに男性の比率が多かったのも大きな特徴かも知れない。
日本でも、舘内端(たてうち・ただし)氏が「マンちゃん」と呼びチャンピオン獲得を祈願して東京から鈴鹿まで歩くなど、ファンの期待は大きいものが有った。

私がマンセルを最初に意識したのは、鈴鹿の予選でクラッシュした瞬間だった。
この年、ウィリアムズ・ホンダでチームメイトのネルソン・ピケとチャンピオン争いをしていたマンセルは、大事な予選でクラッシュ、そのまま決勝も出走を断念し、2度目のチャンピオン獲得のチャンスを逃がした。このクラッシュ後マシンから救出されるシーンはTV画面を通しても、事故による身体の苦痛と共に、チャンピオンを逃がしてしまった、精神的な苦しみが伝わってくるものだった。(後で知ったことですが、前年も不運でチャンピオンを逃がしているのですから、当然でしょうね。)

フェラーリに移籍後、初めてセミ・オートマチック搭載のマシンで優勝するなど、マシンに対する対応力は非常に高かったと言える。チャンピオンを獲得したウィリアムズ・ルノーではリ・アクティブサスペンションなどを搭載するハイテクマシンにいち早く対応、チームメイトのパトレーゼよりも常に前を走り続けた。

マンセルには、一言で言い表せない様々な逸話が残っている。
ロータスの初期にはシートにガソリンが漏れてきて、やけどを負いながら走り抜いた。
ラスト1周でガス欠で止まってしまったマシンをマシンから降りて押してゴールラインまで運んだ。
チャンピオンをかけた最終戦で、獲得は確実と思われた瞬間にタイヤがバーストしてリタイア。86年)(
ピットインの際、ピットを通りすぎてしまい、バックギアを使ったしまい、失格。しかもその後黒旗を無視して走り続け、トップのセナと接触。(89年)
トップを独走、勝ちを確信し観客に手を振りながら最終ラップを走っていたら、誤ってキル・スイッチを押してしまい、エンジンが止まってリタイア。(91年)
F1現役チャンピオンとして、初めてアメリカのCARTに参戦。初戦で勝ったと思ったら、そのままチャンピオンも獲得。
CART参戦中、マンセルの後釜として勝ちを重ねるプロストに対して「あのマシンなら猿が乗っても勝てる」と発言(自分が去年まで乗っていたマシンなのに。)などなど

闘志あふれる走りをしたかと思えば、自らのミスのためにレースを失ったり、3度もチャンピオンのチャンスを失ったり、どこか憎めないキャラクターがマンセルであり、セナやプロストというライバルを得て、その存在は非常に楽しいものだった。
その個性は際だっていて、現在のようにビッグビジネスの中、このような個性を持ったドライバーは少なくなってしまったのが残念に思う。

また、結果として3度の引退宣言をしたことも特徴。
引退を宣言しながら、その都度復帰するマンセルのに対して、FIAは一度引退宣言をしたら復帰できない、などとする規約まで設けざるを得なかった。その為、後のハッキネンなども「休養」宣言をしている。

余談ではあるが、マンセルは沖縄空手の有段者でもあり、シーズンオフに来日することもあった。引退後、マンセルの自宅に強盗が入ったことが会ったが、彼は空手で戦ったんだろうか?

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