イタリア系フランス人、ジャンアレジ。
彼は赤いレーシング・スーツがよく似合った。
アレジのF1での記録は、優勝回数1回、PP 2回。シリーズランキング最高4位。決して大成功したレーサーではない。
しかし、その記録を遙かに超えて、ファンの記憶に刻み込まれている。記録ではなく、「記憶に残るレーサー」まさに典型であり、彼は勝つことではなく、魂のこもった走りと決してあきらめない闘志でファンの心をつかんで離すことはなかった。
「正しい時に、正しい場所にいること」あるチャンピオンドライバーは、成功する秘訣をこう語った。
そう、アレジは正しいときに正しい場所にいなかった。頭での判断と、気持での判断が揺れ動いたとき、自分の気持ち正直に従ってしまったから・・・。
1990年アメリカGPでのセナとのクリーンで激しいバトルで一躍注目を浴びたアレジは、翌91にはウィリアムズに移籍を決めていた。ウィリアムズ・ルノーは90年にも2勝し、トップクラスのチーム。アレジがその才能を開花させるためには、最適のチームと思われた。
しかし、そこにフェラーリからのオファーが入る。フェラーリは90年A.プロストがセナとチャンピオン争いを繰り広げていた。フェラーリは新人が乗るチームでは無いとの一部の声を押し切り、アレジはウィリアムズとの契約を白紙に戻してまでしてフェラーリへの移籍を決める。
プレッシャーの大きさ、チームの勢い、色々と考えれば当時のアレジにはウィリアムズがベスト。それをわかっていながら、アレジにはフェラーリのドライバーになるというチャンスを逃がすことが出来なかったのだ。
しかし、フェラーリは次第に混乱、低迷していく。表彰台に乗ることはしばしばだが、勝利に手が届かない。
逆に、本来アレジが乗るはずだったウイリアムズのマシンに乗ったマンセルは快進撃を開始し、92年には圧倒的な速さでチャンピオンを獲得した。
アレジは正しい場所を間違えてしまったのだろうか。
しかし、アレジはフェラーリに身も心も捧げ、全身全霊でマシンを走らせていた。熱い走りは数多くのファンの心をつかみ、多くのファンの声援を受けながら走り続けた。
いかにティフォシに愛されたか。97年ベネトンに移籍していたアレジがイタリアGPでPPを獲得すると、イタリアのファンはフェラーリに乗るシューマッハーよりも多くの拍手で祝福されたのだ。
シューマッハーと入れ替わる形で、ベネトンに移籍するが、そのブルーのスーツ姿に大きな違和感を感じたファンも多かったのでは無いだろうか。
今回、アレジの戦績などを調べていて、少し以外だったのは、このベネトン時代の2年間がフェラーリの5年間に比べて成績は安定、優勝こそ無いものの、ランキングも上回っている。
その後、ザウバー、プロスト、ジョーダンと移籍し、2001年日本GP直前に突然引退を宣言。多くのファンに惜しまれながらF1から身を引いた。
結局、アレジは熱い走りでファンを虜にしながらもチャンピオンになることは出来なかった。
正しいときに、正しい場所に。91年予定通りウィリアムズに移籍していたら、F1はセナとアレジ、そして後に台頭するシューマッハーの3強の時代となっていたかも知れない。
しかし、当時のアレジにとってフェラーリからの誘いを受けた以上は、選択の余地は無かったのだろう。結果がどうであれ、アレジにとってフェラーリこそ最も正しい場所だったのだ。
その後は、DTM(ドイツツーリングカー選手権)にAMGメルセデスから参戦。変わらぬ熱い走りを見せてくれている。
また、2007年よりの参戦が噂されるマクラーレンのセカンドチームへの関与が噂されるなど、F1シーンへの復帰も近いかもしれない。
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