服部尚貴の名を意識したのは、1989年の開幕戦、鈴鹿2&4を観戦したときだったと記憶している。何故、記憶に残っているのかははっきりしない。
改めて結果を確認すると決勝は9位。優勝は影山正彦で3位に故・村松栄紀がいる。そんな中で何なぜ服部尚貴の走りが印象的だったのだろう。とにかくその時から、彼は私の中で「ハットリ君」になった。マンガの「忍者ハットリ君」からの連想だった。
服部尚貴は、翌1990年に全日本F3チャンピオンを獲得すると、1991年全日本F3000にステップアップする。ランキングは20位と厳しいものだったが、その年の終わりにはF1にコローニからスポット参戦も経験している。
正直早すぎるとも思ったし、コローニから出たって予備予選落ちは必至。なんでそんなに急ぐかな?というのが感想だった。しかし、これは服部尚貴自身も同様だったようで、断るつもりで毎レースのギャラなどを要求したところコローニが受け入れたのだという。資金持ち込みの参戦ではなかったのだ。もっとも、結果は予想通り予備予選落ちだったけれど・・。
もとより走ることが大好きという服部尚喜は、フォーミュラのみならず、JGTC、JTCCなどハコのレースでも参戦を続け、1996年にはJTCC(全日本ツーリングカー選手権)でアコードでチャンピオン獲得。JGTCでは2位、そして国内トップフォーミュラの新生フォーミュラ・ニッポンでも2位という結果を残し、国内トップレーサーとして地位を確立した。
1997年から服部尚貴はアメリカに活動の場を移す。この挑戦には、F3時代のマカオGPでの悔しさがあったという。市街地でのマカオGPのコースを攻められなかった当時の服部尚貴は、市街地レースにまた挑戦したいという思いが強かったのだという。
そのこだわりもあったか、インディライツでは、服部が表彰台に立ったレースはすべて市街地コースだった。
そして、1999年はFedEx CARTチャンピオンシップシリーズにステップアップを果たす。しかし、やはりCARTは厳しい。初戦でクラッシュした彼は、12戦まで欠場を余儀なくされる。
2000年、服部尚貴は日本のモータースポーツに復帰する。奇しくも高木虎之助がF1から日本に復帰した年だった。
国内復帰後も服部尚貴はメーカーの枠を越えての活動を広げる。
メーカー色の濃いJGTCでもニッサン、トヨタ、ホンダそれぞれのマシンで参戦をしている。これは、いかに彼が信用されかつ、実力が認められているかの一つの証だろう。どのメーカーとも、そしてスタッフとも良い関係を築き上げることができる。その彼の人間性こそ、長きにわたって国内トップの地位を維持している秘密なのかもしれない。
2005年11月27日。服部尚貴は最後のトップフォーミュラでのレースを終えた。予選6位スタート。最終ラップでのガス欠ストップ。サーキットには彼の最後を見送るために多くのファンと仲間達が詰めかけ、彼のフォーミュラ卒業を祝った。
多くのレーサーが、現役を望みながらいつの間にかシートを失っていくことが多い中、惜しまれながら引退を行うドライバーは多くない。かっての星野一義の引退以来だったかもしれない引退発表。今後は、チームの監督として若手の育成にあたっていく。
しかし、スーパーGTでは、まだまだ現役。参戦を続ける。まだまだ、彼の走りをみることができるようだ。
「レースもGTは続けますし、自分の中で引退という言葉を使うのは今回だけ。あとは自分の趣味として、ハコのレースは死ぬまで続けます」
服部尚貴のヘルメットには常に「EIKI LIVES」の文字が刻まれている。故・村松栄紀はF3時代に服部尚貴のライバルであり親友でもあった。村松栄紀は1990年に服部より一足早くF3000にステップアップし、早すぎる死を遂げた。それから15年以上が過ぎても、彼の名をヘルメットに掲げて共に走る服部尚貴。これも服部尚貴を物語る、一つのエピソードである。
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