片山右京の名を初めて知ったのは、ある雑誌の小さなコラム記事だった。
片山右京という名の青年が、単身フランスに渡りフォーミュラルノースクールを受講。後の世界チャンピオンであるアラン・プロストが持っていたコースレコードを10年ぶりに更新したというものだった。1985年の事だった。
その後、右京はフランスで活動、後にF1で再会するライバル達と激闘を繰り広げることになる。この頃の右京は、クラッシュも多く「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれることになる。
私が彼を再度強く認識したのは、1990年全日本F3000選手権に、CABIN RACING with HEROESよりエントリーしていたときのこと。この年はシリーズランキング5位でしたが、翌91年チャンピオンを獲得すると、スポンサーであるCABINと共に92年よりF1に挑戦することになる。
彼に対する期待は、時に裏切られることが多かった。92年第7戦カナダGPでは、決勝で後り8周の時点で5位まで上がるり初入賞の期待が高まったが、自らのシフトミスによりエンジンブローをおこしリタイア。その後低迷する時期が長かったものの、時に今回はいけるんじゃないか、このまま最後まで完走できれば、と思っていると必ずといっていいほど映し出される、コースサイドにマシンを止めた右京の姿。時にはマシントラブルであったり、時には自らのスピンであったり。
しかし、94年状況は好転しだす。開幕戦ブラジルGPで初の5位入賞をすると、第3戦サンマリノGPでも5位に入賞。(94年サンマリノGPは、あのセナが事故死した悪夢のGPであったが、右京はレース終了後、帰宅途中まで、セナの死亡を知らなかったという。)
第8戦イギリスGPでは、マクラーレンのミカ・ハッキネンを何度も抜いたすえに6位入賞、3位に入賞したハッキネンはレース後に「右京は速い」と言わしめます。それまで、明るいキャラクターでF1の世界で人気を獲得していた右京だったが、F1ドライバーとして速さを認識されたのはこの頃だったかもしれない。
そして、第9戦ドイツGP、第10戦ハンガリーGPと全くタイプの違うサーキットでの連続予選5位獲得。(これは、2004年佐藤琢磨が破るまでの日本人予選最高記録だった。)
このときの右京のマシン、ティレル・ヤマハはお世辞にも格好の良いものではなかった。目立つスポンサーは、JTのマイルドセブンとカルビーのみ。それも大きなスポンサーでは無く、ボディーのほとんどは真っ白。F1マシンでは無く、スポンサーを持たないF3マシンのような印象を与えるティレルで片山右京は駆け抜けたのです。
大きな印象を残した94年だったが結果としては獲得ポイント5点に終わる。予選結果をアクシデントなどで決勝に結びつけられないもどかしさは強く残った。しかし、この年イタリアやイギリスでファンが選ぶベストドライバーに選ばれるなど、ファンには大きく認められた年だった。
この年のストーブリーグでは、ベネトンへの移籍とという話もあったが、結局翌年もティレルに残留することになる。移籍が実現しなかったのは、スポンサーの問題なのか(同じマイルドセブンがスポンサーなので大きな問題は無いと思いますが)ティレルとの契約の問題なのか、ベネトンのNO.2ドライバーとなる事への抵抗なのか、それとも、そういう話自体が具体性を持たないものだったのか私には分からない。しかし「もし」95年にベネトンに移籍していたらどうなったのか見てみたかったとの思いは強い。。
F1を戦いながらも、レーシングスクールでドライブテクニックを学び、常に自らを向上させようと努力していた片山右京。その後は、ル・マンやJGTCに参戦を続けると共に幼い頃からの夢だったという登山活動などを続けている。パリダカにも、ランドクルーザーで市販車無改造クラスに出場するなど幅広く活動を続けている。
今後もウキョウは、様々な活動を通して、夢を見させてくれることだろう。
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