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デイル・アーンハート Dale Earnhardt (アメリカ)

2月18日 NASCAR・デイトナ500

最終ラップの最終コーナーの立ち上がりで外側に流され、右側のコンクリート壁にほぼ正面から激突。そこに後続のマシンがきて激突した。クラッシュ時の走行スピードは、時速約290kmであったといわれている。 アーンハートは即死状態で死亡した。
アーンハートの代名詞でもあった、カーナンバー.「3」は、以後もNASCARでは使用されることがない。
関連サイト  
デイル・アーンハートの事故を振り返る

(イラスト提供はクロスノフさん)



コース・マーシャル1名 3月4日 F1・オーストラリアGP
ジャック・ビルヌーブ(BARホンダ)とラルフ・シューマッハ(ウィリアムズBMW)が接触、ビルヌーブの車は宙を飛んで壁にぶつかり、外れたホイールがマーシャルを直撃、マーシャルは死亡した。ほかにも、観客7人がけがをした。

ミケーレ・アルボレート 
Michele Alboreto 
(イタリア)
4月25日  テスト ドイツ・ラウジッツリンク
ル・マン24時間に向けベルリン郊外のラウジッツリンクでアウディR8のテスト中に突然スピン。フェンスに激突したマシンは100mもの距離をとびマシンは大破した。
原因はタイヤのパンクとされている。アルボレートは病院に搬送されたが、翌26日に死亡した。享年44歳。
1981年にティレルからF1にデビュー。初優勝の後、フェラーリ移籍。1985年はランキング2位につけた。フェラーリ離脱後は様々なチームを渡り歩いたが1994年でF1を引退。優勝5回、PP2回、FL5回の記録を残している。
F1引退後はスポーツカーレースに参戦。1997年にはル・マン24時間レースでもTWR・WSC95で総合優勝を記録している。
関連サイト:http://espn.go.com/rpm/f1/2001/0426/1186961.html(英語・アルボレートの事故のレポート)

アレックス(アレッサンドロ)・ザナルディ
Alex(Alessandro ) Zanardi  
(イタリア)
9月15日 CART(ドイツ・ラウッジリンク)
第10戦ラウッジリンク(ドイツ)142周目に大クラッシュ。ピットアウトの際にスピンしたザナルディのマシンはコース上へ。そこにタグリアーニのマシンが時速320kmで突っ込むという大事故でザナルディのマシンはまっぷたつになり、ザナルディは一命を取り留めたものの、両足を失うこととなる。
しかし、義足をつけたザナルディはレースの世界に復帰。05年にはWTCC第14戦において、復帰後初優勝を遂げた。
なお、F1をはじめとするヨーロッパでのレースではアレッサンドロ(Alessandro )、アメリカのレースでは覚えられやすいように「アレックス」と呼ばれている。

ブレイズ・アレキサンダー(アレクサンダー) (アメリカ) 10月4日 ストックカー
(アメリカ)本名ブレイズ・アレキサンダーJr(アレクサンダー表記もある)。
シャーロットで開かれたARCAレース「イージーケア・べーシル・セルビス・コンタクツ100」にポンテアックで参戦。ホームストレートで他車に横から擦り付けられるように接触、コントロールを失ったアレキサンダーのマシンは最高速のままコンクリートウォールに激突、衝撃でフロント部分が大きく大破した。アレキサンダーは激突時のあまりにも激しい衝撃をうけ、即死した。享年25歳。
アレキサンダーはNASCARブッシュシリーズにも参戦しており、これからの活躍を期待されていた矢先の悲劇だった。この年のデイトナ500ではデイル・アーンハートも同様の事故で死亡しており、改めてストックカーの安全性向上を再認識させられた事故だった。

リスト・マニセンマキ(コ・ドライバー) (フィンランド) 10月19日 WRC ツール・ド・コルス
WRC第12戦ツール・ド・コルス(コルシカ・ラリー)。三菱のトミ・マキネンはSS5の左コーナーで横転事故を起こす。この際マキネンは無傷であったが、コ・ドライバーのリスト・マニセンマキが頚椎を骨折してしまう。長期にわたるリハビリを経て、2003年のラリー・グレート・ブリテンでユッソ・ピカリストのコ・ドライバーとして復帰を果たすが、同ラリーをもって引退。現在は母国出身のユッホ・ハンニネンの後見人となっている。
なお、マニセンマキはマキネンとのコンビで、2度の世界タイトルを獲得している。


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