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 レーサーの死(アイルトン・セナ・ダ・シルバのほかに、ローランド・ラッツェンバーガー、川合稔、風戸裕、鈴木誠一、福沢幸雄、高橋徹、小河等など、彗星のように逝ってしまったレーシング・ドライバーたちの生と死について、家族、友人、関係者が語った証言を収録)
 
1990年代のモータースポーツ・レース中の事故の記録

1990年〜1999年

年月日 氏名 カテゴリー・場所 状況
1999年
10月31日 グレッグ・ムーア CART・カリフォルニア州フォンタナ 最終戦決勝でグレッグ・ムーアが側壁に激突し死亡。享年24歳
9月12日 ゴンザロ・ロドリゲス CART CARTシリーズ第17戦ラグナセカの予選中コークスクリュー・コーナーでコースアウト。
タイヤバリアとガードレールにTボーンクラッシュの後それを飛び越えて裏返しになり、コース外の法面に転落し死亡。享年27歳
7月11日 ミハエル・シューマッハ
Michael Schumacher
F1・イギリスGP (ドイツ)
第8戦イギリスGPは、スタートしてまもなく他車のクラッシュによりレースは赤旗が提示された。
しかしミハエルにはその知らせが通じなかったのか、シューマッハはチームメイトのアーバインにオーバーテイクを仕掛ける。しかし、オーバースピードからコースアウト、マシンはタイヤバリアにまっすぐにクラッシュし大破。シューマッハは命には別状が無いものの、足を骨折。第9〜14戦を欠場することとなった。

6月11日

6月13日

マーク・ウェバー
Mark Webber

ピーター・ダンブレック
Peter Dumbreck

ル・マン24時間

1999年のル・マン24時間耐久レース。メルセデス・ベンツはGT1規定のマシン「CLR」を送り込んだ。 しかし、ル・マン決勝前の予選日、衝撃的なシーンがコース上で展開された。木曜日の予選2回目、マーク・ウェバーが乗るCLRがミュルサンヌとインディアナポリスの高速区間を走行中、いきなりマシンのノーズが浮き上がり空中に舞い上がったのだった。木の葉のように宙を舞ったマシンは天地逆の状態で落下する。幸いにもウェバーは無事だった。
メルセデスは、フロントノーズ両脇に小さなスポイラーを追加し決勝レースに出場する。
そして6月13日決勝レースがスタートして、約4時間が経過したころ、再びアクシデントは発生する。ウェバーのチームメイトであるピーター・ダンブレックがCLRで走行中、ウェーバーと同様にマシンは宙を舞った。高く舞い上がりガードレールのはるか上空を通過してコースサイドにマシンは落下した。ダンブレックも無事ではあったが、その衝撃的なシーンは世界中に配信された。この事故を受けて、メルセデスはル・マンから撤退。(1955年の大惨事による撤退以来、これがメルセデスとしては4度目の撤退となる)
原因は、フロントのダウンフォース不足、路面のうねりにより想定を越えたピッチングが起こり、想定以上の空気がマシン下面に入り込んだこと。前車に近づきすぎたためダウンフォースを失った為、などと言われる。
この事故は、後にFIAを初めとする各種機関で研究され、その研究成果は世界のモータースポーツシーンに提言され、レギュレーション規制やマシン設計に大きな影響を与え、安全性の向上に寄与するきっかけとなった。
http://www.youtube.com/watch?v=y65oUlBMSUs

5月23日 OSAMU(中嶋 修) フォーミュラ・ニッポン セントラルパークMINEで開催されたフォーミュラ・ニッポン第3戦は雨の中開催された。強い雨が降り続く中スタートがきられたが、1周目に大アクシデントが発生した。予選16番手からスタートし、中段で走っていたOSAMUは水煙で前が全く見えない状況の中、前を走るクルムを追走。メインスタンドストレートでアクセル全開のままOSAMUがミハエル・クルムのマシンにに接触、クルムをジャンプ台にしてオサムのマシンは跳ね上がりコンクリートウォールへ激突した。マシンのモノコックは割れ、ヘルメットも割れ呈他という状況で、オフィシャルも関係者もOSAMU選手は死亡したと思い、ブルーシートが来るのを待っていたという。(事故当時42歳)
OSAMU選手は多発骨折を負い数ヶ月にわたる入院生活を必要としたが、退院後再びレースシーンに復活した。
関連サイト:http://www.geocities.co.jp/MotorCity/2325/krhc.htm「公認非公式?OSAMUファンページ」
3月11日 舘 信吾 TIサーキット英田 TIサーキット英田(現、岡山国際サーキット)でJGTCのテスト走行中にコースを外れクラッシュ。胸などを強打して死亡。
1998年
5月3日 太田哲也 JGTC・富士スピードウェイ

JGTC第2戦。ローリングスタートに向けてペースカー先導によるフォーメイションラップ中、雨が激しく視界が悪かったために、ペースカーはピットに戻らずフォーメイションラップ継続となったが、この混乱によりメインストレートにおいて多重クラッシュが発生。太田哲也のフェラーリ・F355も巻き込まれ、爆発・炎上した。
炎上する太田のマシンに対して救助は遅れ、消化・救出にはドライバー仲間が開始したが、太田は1分近くマシンに取り残された。
太田は瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に一命は取り留めた。

事故の原因として、スタートのペースカーの速度や挙動があげられ、また事故後の救助体制の問題など、レース主催者やサーキットサイドの安全管理など多くの問題点が指摘されることとなった。
太田哲也は当初再起不能と言われたが、事故から2年半後にサーキットへ復帰。リハビリの模様などは、自らの著した書籍や映画化もされた。
関連サイト 太田哲也公式HP  1998JGTCRd.2ドライバー証言集1  
関連書籍 クラッシュ-絶望を希望に変える瞬間-  リバース-魂の戻る場所- 

2月14日 ジャーナリスト ラリー ベルギー (ベルギー)
ベルギーのスパで行われたWRCのステップアップシリーズ[ベルギー1stディビジョンラリーチャンピオンシップ](通称BRC)の一戦「ブクレ(ブークレス?)デ・スパ」で、ベルナール・ミュンスター(バーナンド・ムーンスター)の駆るスバルがコントロールを失い、コースサイドで観戦していた観客の列に突っ込んだ。この事故により4人が巻き込まれ、そのうち記者の一人が死亡、同行した無線技師、カメラマン、またもう一人の記者が重傷を負った
1997年
10月19日 横山 崇
(よこやま たかし)
全日本F3・富士スピードウェイ 全日本F3選手権第9戦。
アクシデントからセーフティカーが入ることとなり、イエローフラッグとSCのサインが出た直後、横山崇の乗るマシンが前車に追突する形で接触。横山崇のマシンは空中に舞い上がり、高さ5.5mでコースを横切るブリッジに激突、即死した。
(画像は、宙に舞いあがった横山崇のマシン。提供はgonkeさん)
1992年夏の仙台でFJ1600Aカテゴリーからデビュー、以降仙台と筑波を中心にレース参戦し、生涯成績での最高位は水谷敬一・菅谷重雄と組みインプレッサで参戦した1993年富士ツーリングカー6時間での2位。
以後海外遠征の後、1997年の国内F3でANABUKI無限からエントリー、第5戦の鈴鹿では9位完走を果たしていた。

関連サイト:97富士F3死亡事故裁判・判決要旨
3月16日 ジョン・ネメチェック NASCAR ホームステッドでのNASCARクラフツマン・トラックシリーズ第3戦「フロリダダッジディーラーズ400」にシボレーで参戦。24周目の第2ターンで単独事故を起して頭部に致命傷を負い、5日後の3月21日に死亡。享年27歳。
1996年
7月14日

ジェフ・クロスノフ
Jeff Krosnoff

オフィシャル1名

CART・カナダ・トロント チャンプカーシリーズ(CART)第11戦カナダ(トロント市街地)。
92周目(全95周)に他車との接触からスピン、コースの脇に立つニレの木にマシンが激突して死亡した。享年31歳。また、この事故に巻き込まれたオフィシャルも死亡した。
1988年から1995年にかけては、全日本F3000、全日本GT選手権等などに参戦、日本でも多くのファンを持つドライバーだった。
事故から5年後の2001年、この木が立ち枯れ病のために切り倒されることになったが、レースのオフィシャルたちが中心になって、切り株を残すための募金活動がおこなわれ、集まった寄付金で、クロスノフとオフィシャルの名を刻んだプレートが、2002年に事故現場に設置された。
参考ページ;すがやみつるの雑記帳(縁は異なもの――ホンダ、インディ500参戦異聞) 
STAY HUNGRY! バイバイ、ジェフ・クロスノフ
5月17日 スコット・ブライトン(ブレイトン)
Scott Brayton
インディ500 インディ500のpractice。すでにポールポジションを獲得したレースカーに代わりバックアップカーで出走。ターン2でタイヤが破裂しスピン、外側の壁に230mphを上回ると思われる速度で激突し死亡。前年につづき2年連続でポールポジションを確定していた矢先の事故だった。享年37歳。
1981年から毎年インディ500に参戦(1982年のみ予選落ち)し、決勝最高位は6位(2回)。また1981年から1993年までいわゆるインディカーシリーズ(PPG cup)にも参戦(1996年はインディ500のほかIRLに1戦出走)を続けていたベテランドライバーだった。
1996年 観客 WRC 1000湖ラリー 第46回1000湖ラリープライベート出場のラリーカーがコースアウトしコース脇のポールにぶつかった、この衝撃でマシンのアンダーガードが折れ曲がり、マシンを浮き上がらせる形となり、マシンはタイヤを宙に浮かせたままコースを滑走、100m近く離れた場所で観客を巻き込み、1名の観客が死亡する事故となった。
この事故とは直接関係は無いが、翌年あら名称が変更され翌1997年からは
RALLY FINLAND (フィンランド・ラリー)となっている。
1995年
11月11日 ミカ・ハッキネン F1・オーストラリアGP 最終戦オーストラリアGPの予選中、タイヤ・バーストによりフェンスに激突。頭部を強打し意識不明の重体に陥るも幸いにも意識は回復。翌シーズンには復帰し、98/99年には2度のチャンピオンを獲得した。
10月28日 鈴木亜久里
(すずき・あぐり)
F1・日本GP この年を限りに引退を決意していた鈴木亜久里(リジェ・無限ホンダ)だったが、予選中にクラッシュ。予選終了10分前ごろ、S字カーブの入り口で、右側の前後両輪がコースをはみ出て芝に乗り次のの瞬間マシンがスピン、タイヤバリアへ激突し、再びコースまではじき飛ばされた。亜久里はろっ骨骨折の為翌日の決勝レースは欠場となり、地元での最後のレースを走ることはできなかった。
10月15日 マルコ・カンポス 国際F3000 マニクール (ブラジル)
マニ・クールで行われた、国際F3000。最終ラップでの接戦中にマルコ・カンポスののるローラT95/50が、アデレートヘヤピン手前で前を行くトマス・ビアッジと接触、カンポスは天地逆の状態でヘアピン内側のフェンスに激突し、ロールバーが根こそぎもぎとられ、カンボスは脳挫傷と頚椎損傷により死亡した。享年19歳。
事故の模様の連続写真
10月6日 ラッセル・フィリップ
Russell Phillips
NASCAR

シャーロットで行われたNASCARのスポーツ・リミテッド・ディビジョン「ウインストン100」。ポールポジションを獲得していたフィリップだったが、レース中に順位を落とし、67周目には17番手を走行していた。フィリップの前方を走っていた2台のマシンが同時にスピンとなり、それを避けようと、フィリップスとすぐ横を走っていたもう一台がアウト側へとマシンをふった。しかし接触した後、フィリップのマシンは接触したマシンに乗り上げて宙に舞い、フェンスに吸い込まれるように屋根から激突、フィリップスは車体もろとも上半身を切断され即死した。事故のおきたターン4周辺はまさに地獄絵図でヘルメットはピットロード付近に、腕は切断され、フェンスの金網に引っかかっていた。さらに、事故現場周辺は彼の肉片や血液が散らばっておりその処理に夜9時までかかったという。
この凄惨な事故は後のストックカーレースの大幅な安全改革につながっていった。
事故の模様の連続写真 (画像、資料提供はクロスノフさん)

9月24日 片山右京
かたやま うきょう
F1ポルトガルGP スタート長後に多重クラッシュが発生。
予選16位からスタートしたティレル・ヤマハの片山右京もミナルディのL.バドエルと接触し、右京のマシンはミナルディに乗り上げるような形で宙に舞い上がり回転しながらコース左のガードレースに激突、跳ね返されたマシンはさらに回転しながらコース上右側まで跳ね返り裏返った状態で停止した。激しいクラッシュに最悪の事態も予想されたが片山右京は奇跡的に軽傷で済み、翌週のヨーロッパGPは欠場したものの、4週間後のパシフィックGPには復帰している。
9月10日 キース・オドール
Kieth Odor
ツーリングカー

ベルリンで開催されたSTWカップ(正式名:ADAC Super-Tourenwagen-Cup AVUS・ドイツでの2リッター・ツーリングカー選手権)にニッサン・プリメーラで参戦していたオドールが、コース左側のウォールにクラッシュ。スピンしながらコースに跳ね返ってきたオドールのマシンを直後の2台はなんとかかわしたが、かわしきれなかった1台のアウディがオドールのプリメーラの右側面に激突した。オドールのプリメーラは右ハンドル車であったため、激突した場所はまさにオドールの運転席部分であった。オドールは重傷を負いベルリン病院に搬送されたが、、同日に死亡した。享年33歳。
クラッシュの原因は、左フロントサスペンションの破損、又は左フロントタイヤのバーストではないかとされている。
80年代にラリーでモータースポーツをはじめたが、ツーリングカーレースに移行し、BTCC(イギリス・ツーリングカー選手権)ではニッサン・プリメーラで活躍した。95年はドイツに活動の場を移したが、1勝を記録していた。

1994年
5月14日 カール・ベンドリンガー F1・モナコGP 予選中にクラッシュ。頭部を強打し生死をさまよう。一命を取り留めたものの、快復後もかっての速さは戻らずシートを失う。
5月1日 アイルトン・セナ F1・サンマリノGP(イモラ) ラッツェンバーガーの事故翌日。まだ、事故の衝撃がっさめやらないうちにレースはスタート。しかし、スタート直後に追突事故が発生し、観客が負傷。セーフティカーに先導されたレースは6周目に再開されたが、7周目のタンブレロで、首位を走るセナのマシンはコースを外れコンクリートウォールに激突。レースは赤旗中止となり、マシンからセナを救出する模様はTV中継された。しかし搬送された病院で死亡が確認された。享年34歳。
F1最高のスターの死は、母国ブラジルのみならず世界中に大きな衝撃を与え、その後のレース界の安全性向上のきっかけとなる。
関連書籍:レーサーの死
4月30日 ローランド・ラッツェンバーガー F1・サンマリノGP(イモラ) サンマリノGP予選。予選アタック中にフロントウイングが脱落し、ダウンフォースを失ったマシンは制御不能の状態でビルヌーヴコーナーを曲がれずに300km/hオーバーでコンクリート・ウォールに激突、跳ね返って再びコース上まで戻って来た。衝撃で、ローランドのシムテックS941は既に原形を留めてはいなかった。ラッツェンバーガーはほぼ即死だった。享年31歳。
F1では12年ぶりに発生した死亡事故となってしまったが、まさかその翌日にも悲劇が再び起こるとは、まだ誰も知らなかった。
2月14日 ロドニー・オア
Rodney Orr
NASCAR デイトナ500 (アメリカ) 本名ロドニー・ブライアン・オア
1993年のNASCAR Goody's Dash Seriesのチャンピオンに輝き、遅咲きながらNASCAR最高峰のウィンストンカップ、開幕戦「デイトナ500」にフォード・サンダーバードで初エントリーを果たしたロドニー・オアだったが、プラクティス走行中にクラッシュ。オアはこのクラッシュの際に致命傷を負ってしまい死亡した。享年31歳。
2月11日 ニール・ボネット NASCAR デイトナ500 (アメリカ)
1994年2月14日NASCARウィンストンカップシリーズ開幕戦「デイトナ500」にシボレー・モンテカルロで参戦。プラクティス走行で最終ターンを旋回中、コントロールを失いコンクリートウォールに激突した。マシンの損傷具合からそれほどダメージはないかに見えたが、彼はマシンの中で死亡していた。享年51歳。
1974年にNASCARデビュー。通算勝利数は18回となっている。
1993年
2月12日 ジョー・ブーハー NASCAR デイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開催された『NASCAR Goody's Dash Series Florida 200 Dash』 2周目、ジョー・ブーハーのシボレーがカール・ホートンのマシンに接触、ブーハーのマシンは横に向きを変え壁にぶつかった。跳ね返されたマシンが、後ろ向きに煙を吐きながらトラックの下側に滑り降りて行ったところへ、視界不良で 避けきれなかったロドニー・ホワイトのマシンが、ブーハーのマシンの右前側に激突した。この事故でジョー・ブーハーは致命傷を負い死亡した。享年51歳
1993年 ロジャー・フリース
Rodger Freeth
WRC・オーストラリアラリー スバルのポッサム・ボーン(ニュージーランド)のドライブするスバル・レガシーRSがジャンプに失敗して転倒。この事故によりコ・ドライバーのロジャー・フリース(同)が死亡した。
1992年
(10月4日) (デニス・ハルム Denny Hulme) アクシデントによる、死亡ではないが、元F1ドライバーのデニス・ハルムが10月4日の豪州バサースト1000kmにBMW・M3Eで出走中、心臓発作のため急死した。ニュージーランド出身。享年56歳。
F1での成績として、出走112回、優勝8回、PP1回、FL9回を記録。1967年のドライバーズ・チャンピオンに輝いている。
6月14日 デイビー・アリソン NASCAR (アメリカ)
ポコノで開かれたNASCARウィストンカップシリーズ第13戦「チァンピオンスパークプラグ500」に出場中、バックストレートで他車と接触。グリーンに出た瞬間マシンが浮き上がり横転、パーツを飛散させ、ガードレールを飛び越えて逆さまに停止した。近くにはマーシャルも待機していたが、犠牲者は出ず、アリソン本人も無事だった。
しかし、翌年アリソンはヘリコプター事故により、死亡してしまう。死亡時の享年32歳。
6月7日 イアン・テイラー ツーリングカー 
スパ・フランコルシャン
(イギリス)
6月7日、スパ・フランコルシャンでのツーリングカーレース「クーペ・ド・スパ」にローバー216GTiで出走中事故死。享年45歳。
5月24日 小河 等

カメラマン
全日本F3000・鈴鹿サーキット

全日本F3000(現フォーミュラ・ニッポン)のレース中、ストレートエンドでA.G.スコットに追突する形で小川等のマシンが接触。第1コーナーでコースアウトした小河等のマシンは、グラベルで跳ね上がり、フェンスの支柱に激突し死亡。享年36歳。
また、この事故で取材撮影中だったカメラマンも重傷をおった。
関連書籍: レーサーの死 
関連映像Japanese TV News of the Fatal Crash of Hitoshi Ogawa - 1992(YouTube)

5月15日 ジョビー・マルセロ INDY500 (フィリピン)本名エドワード・ジョビー・マルセロ・ジュニア。
5月15日、インディ500のプラクティス走行中、第1ターン進入中にグリップを失いスピン、一回転したのち正面から外壁に激突した。マシンは彼を乗せたままフラフラと滑走し、第2ターンでようやく停止。救出されたものの頭部に大きな損傷があり、さらに頚椎も折っていて、意識を取り戻す事なくその日のうちに死亡した。享年26歳。激突時の速度は時速280km/hと記録されている。
フィリピン人として初のインディ500出場を目前にしての惨事だった。この年はネルソン・ピケも同様の事故で重傷を負っており、マシンの危険性が再認識された年でもあった。
4月20日 マルセル・アルバース F3 (オランダ)
英国スラクストンでのF3レースにラルトRT36・ホンダで出走。6位走行中の8周目、前を走るエルトン・ジュリアンのラルトを追っていた彼は前車がトラブルで急激に減速したため、回避しようとするもタイヤを引っ掛けてしまい、反転しながら宙に舞い観客席まで飛んでいった。車体は粉砕し、観客数名が破片の直撃を受けるなどで重軽傷を負う。ドライバーは救出されたが致命傷を負っており、搬送される救急車の中で死亡した。享年24歳。
アルバースの事故の瞬間の画像
1992年1月 ジャンマリー・セヌイヤック
ローラン・ル・ブルジョワ
パリ〜シルツ〜ル・カップ 1991年12月25 日〜1992年1月16日こ開催されたこの年のパリ・ダカルラリーは例年のダカールゴールが変更され、南アフリカのル・カップ(ケープタウン)がゴールというコースをとられた。
このラリーでサバの数km 手前で、バギーに乗るジャンマリー・セヌイヤック/ローラン・ル・ブルジョワが事故で死亡した。
1991年
8月11日 J.Dマクドフィ NASCAR (アメリカ)本名、ジョン・デルフィーズ・マクドフィ。
ワトキンスグレンでひらかれた、NASCARウィストンカップシリーズ第18戦「バドワイザーアットザグレン」にポンテアックで出場中、他車との接触からコースアウト、ガードレールにマシン側部から激しく激突した。ガードレールは完全に破壊され、マクドフィは真上に弾かれて天地逆さまとなり着地した。すぐさま救出されたものの、マクドフィは死亡した。享年52歳。
NASCARにはおよそ27年間参戦した大ベテランだった。
7月21日 ポール・ワーウィック
Pole Warwick
英国F3000 (イギリス)
本名ポール・ジェイソン・ワーウィック。元F1ドライバー、デレック・ワーウィックの15歳下の弟。
英国F3000・オールトンパークでの「ゴールドカップ」にレイナード90D・DFVで出走。23周目のコーナー入り口で右サスペンションが破損し、
直線的にコースを飛び出して左側面からタイヤバリアに衝突。角度が悪かったかマシンは粉砕し、ポールは車外に投げ出される格好となり、その場で死亡した。享年22歳。炎も上がったが、これはマーシャルにより消し止められた。
兄デレックをとても尊敬しており、兄と同じカラーリングのヘルメットを被り活躍していた。
5月4日 クリス・ゲーリック
Chris Gehrke
ARCA(アルカ) (アメリカ)
タラテガスピードウェイで行われた、ARCA(アルカ)レース「ポウラン・プロ・500-K」(Poulan Pro 500-K)でスピンからマシンがひっくり返り、ウォールに激突、コース中央に天地もとどうりになってストップした瞬間、後続車両がもろに激突、ゲーリックは3日後の5月7日に死亡した。享年25歳。
1990年
11月24日 ビル・ブコビッチV世 スプリントカー (アメリカ)
ブコビッチ・ジュニアの息子で、1955年のインディ500で非業の死を遂げたビル・ブコビッチの孫。
カリフォルニア州ベーカーズフィールドでのスプリントカー・レースに出走中接触事故を起こし、コース外に飛び出して出火。車内で死亡するという、奇しくも祖父と同様の状況で死亡した。享年27歳。
インディ500には通算3回出場しており、1988年度のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いている。祖父の時代には無かったが、祖父はインディ二連覇の功績、父は1968年のルーキー・オブ・ザ・イヤーでもあり、親子三代で歴史に名を刻んだ。インディ500の成績は以下の通り。
1988年…14位(21周遅れ)
1989年…12位(14周遅れ)
1990年…24位(102周エンジン)
11月18日

マイク・リッチ(ピットクルー)
Mike Ritch

NASCAR (アメリカ)
1990年11月18日NASCARウィンストンカップシリーズ最終戦「アトランタジャーナル500」の決勝でビル・エリオットがピットイン。クルーは迅速に作業を進めていく。ところが、ピットレーン上でリッキー・ラッド(Ricky Rudd)がスピン。作業中のエリオットに突っ込んだ。この事故で、エリオットのマシン後部にいたリッチがリード車とエリオット車に挟まれる格好となり、すぐさま病院に運ばれたが、その日のうちに死亡が確認された。享年32歳。
またこの事故ではもうひとりのピットクルー、トミー・コール(Tommy Cole) も巻き込まれ重傷を負っている。
9月30日 マーチン・ドネリー F1・スペインGP 第14戦スペインGPでマシンが粉々になるほどの大クラッシュ。シートごとコースに投げ出されたドネリーは一時危篤状態となったが命は取り留める。しかし、レースに復帰することは無かった。
9月2日 ジャン・パトリック・ハイン(ヘイン?)(コースマーシャル) CART バンクーバー バンクーバーでのCARTレース「モルソン・インディ・バンクーバー」の16周目、ロス・ベントレー(Ross Bentley)のマシントラブルで、安全地帯へ押しがけすべく作業をしていたが、チーフと思われる人物に後続車へ危険を知らせよと現場からの退避を命じられ数人がコース反対側へ移動した際、縫うように後方から来たウィリー・T・リブスのマシンの後部ウイングに接触、うち一名がリアタイヤの直撃を受けた。享年20歳。
コースに飛び出すような形となったマーシャルに、市街地コース故のブラインドコーナーから現れたリブスにとっては、想定外の事故であったのかもしれない。
7月31日 ジョン・サフィール テスト シルバーストーン (イギリス)
シルバーストーンでエキシビション・レースに出走するためF1マシン(ウィリアムズFW07・コスワース)のテスト走行中に事故で死亡。享年43歳。
7月21日 リッチ・ボグラー
Rich Vogler
USACスプリントカー (アメリカ)
米国サレムでのUSACスプリントカー・レース「ESPNサンダー」に出走。接触事故で車体が弾かれ、4度トンボ返りののちフェンスに激突。ロールバーが折れて頭部を強打し、即死した。享年39歳。
インディ500にも1985年〜89年に5度出場していて、1989年の8位が最高位。
5月16日 デビット・ケインズ NASCAR (アメリカ)
シャーロットで開かれたNASCARリミテッド・スポーツマン・ディビジョンの練習走行中、スピンし、コース上にストップしていた他車を避け切れず激突、死亡した。享年27歳。
4月22日 観客1名(Ray Plummer) 国際F3000 ドニントン・パークで開かれた国際F3000第1戦。3周目、ダンロップ・ブリッジ下地点でアラン・マクニッシュ(Allan McNish)のマシンとエマニュエル・ナスペッティ(Emanuele Naspetti)のマシンが絡む形となりそのまま二台がコースアウト。マクニッシュのマシン(Reynard 90D-Mugen)はウォールに激突し大破、横転しながら観客のいるウォールの外へと乗り出した。この際、マクニッシュのマシンから飛散したエンジンが草地でバウンドし、エンジンの下敷きになった観客1名(Ray Plummer)を押し潰すかたちとなり、押し潰された観客が死亡した。別確度の画像2
(資料提供はクロスノフさん、およびピケオさん。また、上の画像はピケオさん、画像2はクロスノフさんより提供いただきました。)
4月15日 ジム・ブルーク フォーミュラ・アトランティック (イギリス)
4月15日、米国インディアナポリスでのフォーミュラ・アトランティック・レースにラルトRT4・トヨタで参戦中事故で重傷を負い、10月4日に死亡。
3月23日 村松栄紀 F3000/テスト・富士スピードウェイ

ムーンクラフトからF3000にステップアップすると同時に、F3にもチャンピオン獲得を目標にエントリー。
初戦終了後に合同タイヤテストに参加した村松栄紀は、F3000マシンMC-041Bを駆り、早いスピードで100Rに突っ込んでいった。
オーバースピードかマシントラブルか、村松のマシンは100Rを直進、縁石をジャンプ台のように飛び出した。宙を飛んだマシンはスポンジバリアを倒してコンクリート壁に激突し跳ね返され逆さまに落下した。時は午前10時47分。この時の回転数は8700回転、シフトは4速で約200km/hだったと思われる。
村松栄紀は病院に運ばれたが、脳挫傷で死亡した。享年24歳。

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