前年モータースポーツの歴史に残る大惨事を引き起こしたル・マン24時間レース。
さらには、1956年も二年連続でその牙を剥く事となった。
1956年7月28日。
ル・マン24時間決勝レースの4周目、
ミュルサンヌ前のうねったストレートを過ぎた所で多重事故が発生した。
混雑の中事故に巻き込まれたのは以下の4台。
フェルナンド・カーペンター&ピエール・サヴァリー(パナール)
アルフォンソ・デ・ポルターゴ&ダンカン・ハミルトン(フェラーリ)
ジャック・フェアマン&ケン・ホウォートン(ジャガー)
ポール・フレール&デズモンド・ティッタリントン(ジャガー)
…破片がいたる所に散乱し、各車それを避けて通る危険極まりない状態ではあったが、
事故に巻き込まれたドライバーは命に別状がなく、
次の周回でも二次災害は発生しなかった。
しかし4周目、ジャン・ラローシュ&ロイ・ラディックスのオスカと、
ルイ・エリー&ルシアン・ペリエールのパナール・モノポールX86が事故現場に到達する。
既に事故処理が終わり残骸が撤去されたと判断したのか、
または長いコースに一瞬多重事故の事を失念したのか、
ルイ・エリーはオスカを抜きにかかる。
横に並んでほぼ同時にうねった路面の頂上を越えた瞬間、
そこには依然マシンの残骸が残っていた。
減速する術を持たないまま、ルイ・エリーの操縦するパナールは
最高速度のままそこに突入していった。
現場に残されていた多重事故の残骸は、更に細かい破片と化し、
エリーの乗るパナールは一瞬にして鉄塊と変わりながら数回横転して停止した。
エリーは車外に投げ出されて死亡した。
▲写真はパナール・モノポールX86の残骸
(文章はMOZAさん提供 文章の一部は管理人キャビン85が修正いたしました)
|