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当時を知る貴重な資料・AUTOSPORT アーカイブス集
日本の名レース100選。続々発刊中をレースの年代順に並べてみました

日本の名レース100選 (発行:三栄書房:イデア) 

日本のモータースポーツを報道し続けてきたAUTOSPORTを発行する三栄書房が発行する、モータースポーツアーカイブス。
当時の貴重な写真や記事、公式パンフレットの復刻など、これを逃せば手に入らない資料が凝縮されています。
2006年1月より発刊中の「日本の名レース100選」を
レースの年代順で紹介します。

(かなり縦に長いページになっています。新しい年代は下にありますのでスクロール下さい。見にくいとは思いますがご容赦下さい。

発刊順・発刊予定はこちら

レース名(VOL) 内容
1964
’64 第2回日本GP(Vol.25)

1954年5月2・3日。鈴鹿サーキットで開催された第2回日本GPには、ほとんどすべての国産メーカーが参戦する異常な盛り上がりとなった。
クラス分けされすべてが同じレースを戦うわけでは無いにせよ、クラウン、グロリア、スカイライン、セドリック、フェアレディ、ホンダS600、コンテッサ、コロナ、ベレット、ブルーバード、コルト、コンテッサ、パブリカ、フロンテ、スバル360、キャロルなどの名前が並ぶ。
第2回日本GPでの最も有名なシーンは、式場荘吉のポルシェ・カレラGT-Sを、一瞬とはいえ生沢徹のスカイラインが抜いた瞬間だろう。後のスカイライン神話の始まりともいえるシーンである。
またこのレースに、日本で初めてフォーミュラカーが登場している。
close up(今だから語ろう)は式場荘吉氏。トヨタと契約していた式場が、何故ポルシェで参戦したのか、その理由が明かされている。

1965
'65 船橋CCC(Vol.3) 日本の名レース100選(volume 003)完成間もない船橋サーキット。一旦最下位に落ちた浮谷東次郎の追い上げが始まった。語り継がれる伝説のレーサー浮谷東次郎と伝説の船橋サーキット。
1966
’66鈴鹿500キロ(Vol.28) 1966年1月16日、日本最初の四輪自動車耐久レースが開催された。鈴鹿500kmレース。
スタートはル・マン式。トヨタスポーツ800、ホンダS600、スカイラインGT、ベレット、コンテッサらのマシンを駆ってドライバーたちが500kmの長丁場に挑む。ピットレーン入り口付近に設けられたガソリンスタンドから給油するという今では考えられない光景も紹介されている。
close-up{今だから語ろう}にはこのレースの細谷四方洋(トヨタスポーツ800)。
また「印象記」として1965年8月に事故死した浮谷東次郎について4ページにわたり紹介されている。
’66日本インディ (Vol.13) 日本の名レース100選(volume 013)1966年日本インディ
ビートルズが初来日した1966年、アメリカのインディカーが襲来し富士スピードウェイで迫力あるレースを繰り広げた。しかも、ドライバーはF1&インディから招聘。マリオ・アンドレッティ、アル・アンサー、クリス・エイモン、ジャッキー・スチュワート、グレアム・ヒルというそうそうたる顔ぶれが並ぶ。
オーバル用のマシンでサーキットを走るというレースは、インディドライバーには初の経験でもあった。
本書のクリス・エイモンのインタビューは、今だからいえるという当時の裏話が満載で面白く、必読。
’66 第3回日本GP 12月25日
1967
’67第4回日本GP(Vol.9) 日本の名レース100選(volume 009)1967年第4回日本GP。
前年プリンスR390で戦い、ヨーロッパでの武者修行を終えて帰国した生沢徹。しかし帰ってみればR390に自分のシートは無かった。
途方に暮れた生沢に用意されたのは、ニッサンR390の最大のライバル、ポルシェ。
プライベートポルシェでワークスマシンに対する挑戦が始まった・・・・
1968
'68 日本Can-Am(Vol.5) 日本の名レース100選(volume 005)60年代半ばから70年代半ばに北米大陸で人気を博した、カンナムシリーズ。
日本でも68/69年に遠征され、アル・アンサーらのトップドライバーを相手に、長谷見昌弘ら日本人ドライバー多数参戦した。排気量無制限の迫力のレース。
’68鈴鹿1000km(Vol.12) 日本の名レース100選(volume 012)1968年鈴鹿1000kmレース
今年(2006年)35回目の開催を迎える鈴鹿1000kmレース。第1回が開催されたのは1966年だった。
1968年は、トヨタ7とニッサンR380のワークス対決に加え、ポルシェカレラ910を使用するプライベーターの雄、滝レーシングが対決する。
俗にT・N・T対決といわれたレースはレースは、ルマン式スタートで始まった。

スカイライン2000GT(S54B)、ベレット1600GT、ホンダのエスロク、エスハチ、カローラ、ブルーバードなど当時の多彩な車達が覇を競った。
’68日本GP(Vol.40)  1968年(昭和43年)5月2−3日
年に一度の日本グランプリはこの年から排気量無制限となり、トヨタはTOYOTA7、ニッサンはR381といった今や伝説と化したビッグマシンを開発、参戦してきた。2大メーカーに加えプライベーターであるタキ・レーシングはローラ・シボレーを投入し、俗に言うT-N-T対決は大いに盛り上がった。
close-up{今だから語ろう}当時のニッサンのエース、北野元が登場。2輪から4輪と天才的な走りを見せた、北野元が自らのレーシング人生を振り返る。「Can-Amのようなスポーツカーに乗って目イッパイのレースをやりたかった。F1に乗ってもいけると本当に思っていた」歴史に「もし」があれば、北野は世界の舞台でどれだけの活躍をしたのだろうか・・・
1969
’69 JAFーGP(Vol.33) 1969年5月3日、JAFーGP。なんとも魅力的な写真がオンパレードの一冊。
フォーミュラカーかけられた初のGPタイトルのレースは、60年代を象徴するような葉巻型フォーミュラで争われている。むき出しのエンジン、そびえ立つウイングも・・・。
そして、ファンの興味は園前座戦でおこなわれた、トヨタ1600GT VS ニッサンスカイラインGT-Rの争い。このレースがデビュー戦となったスカイラインGT-Rの初勝利。後に伝説となるGT-Rの初勝利には、少々後味の悪いこんなエピソード舞台裏があったのか。
close-up{今だから語ろう}には、スカイラインGT-Rの生みの親、桜井真一郎氏が登場。ポルシェとの死闘を演じたR38シリーズやGT-R開発の情熱を語る。
’69 鈴鹿1000km(Vol.46) 2008年5月24日
’69日本GP(Vol.20) 1969年10月10日、富士スピードウェイの最前列にはニッサンR382が並んでいた。すぐ後ろにはトヨタ7と滝レーシングのポルシェ917が勝利を狙っている。
レース直前にようやく開発が間に合ったという6リッターエンジンを搭載するニッサンR382は予選でこれまでのレコードを5秒も短縮していた。対するトヨタ7は5リッターエンジン。日本のレース史上に残るTNワークス対決。日本レース史上最高の一戦といわれるレースが紙上に蘇る。
1970 ’70第12回クラブマン 10月10日
’70富士1000km(Vol.26) 1970年7月28日、富士1000kmレースはニッサンが席巻した。
しかしこのレースで最も注目されたのは、レース前におこなわれた TOYOTA7(ターボ)のデモ走行。デモ走行においてコースレコードを樹立し、すでに中止が決まっていた秋の日本GPにかわり、本場アメリカのCan-Amシリーズへの挑戦が予想されていた。(その後、川合稔の事故により中止。この川合の事故に対しても、本書では取り上げられている。)
close-up{今だから語ろう}には日産の難波靖治氏が登場。当時のレース背景を証言すると共に、プリンスと日産の合併後の当時の日産社内でのモータースポーツ事情を語っている。
’70 富士インター200マイル(Vol.53) 2008年10月25日
1971
1971
’71日本GP(Vol.29) 1971年5月3日、富士スピードウェイでの日本グランプリレース。
2リッター級フォーミュラカーで争われたこのレースを制したのは永松邦臣駆るコルトF2000。三菱自動車が開発したオリジナルフォーミュラが3年目の挑戦で見事に制した。30度バンクを疾走するフォーミュラカーの写真には異様な迫力を感じる。
close-up{今だから語ろう}にはこのレースのウイナー永松邦臣が登場。
’71 富士マスターズ250km(Vol.14) 日本の名レース100選(volume 014)1971年富士グランチャンピオンシリーズ・富士マスターズ250km。
GC初年度の富士マスターズはヨーロッパから帰国した生沢徹と風戸裕の対決が話題になった。ギアが決まらず苦しい走りを余儀なくされた生沢をやぶって風戸裕が念願の初優勝を飾った。

’71鈴鹿グレート20(Vol.22)

1971年鈴鹿グレート20ドライバーズレース
国内トップレーサー20人を招待して本物のビッグレースを見せようとする企画。
優勝を争ったのは、高原敬武(ローラT212)と田中弘(シェブロンB19)の2人。
ワークス勢が駆るのがフェアレディZなどのツーリングカーであるのに対し、レーシングマシンを駆る2人は有利な立場にあった。
ワークスにあこがれず、孤高の往来ベーターとして一時代を築いた高原敬武のインタビューも興味深い。
1972 '72富士マスターズ250km(Vol.23) 1972年富士マスターズ250km
レース名だけ聞いてどんなレース化思い浮かぶ人はマレースファンか、スカイラインファンだろう。
国内50勝をあげ、最強を誇ったスカイラインGT-R。
69年にデビュー以来連戦連勝を誇ったニッサンワークスのスカイラインGT-Rはその強さ故に後に伝説にまでなり、スカイライン神話を生むことになるが、そのスカイラインが、ロータリーのサバンナRX3が対決したのが、このレース。
結果として、サバンナRX3に敗れたワークス・スカイラインGT-Rはこの年限りで活動を終了することとなる。まさに、伝説に終止符を打つ一戦だった。
’72 日本GP 2008年4月25日
’72むつ湾ストックカー(Vol.34) サブタイトルに{史上最大の「非公認」レース}の文字が躍る。
ページをめくると、どこか寂寥とした海沿いのコースをマシン達が疾走する姿。
1972年7月2日、青森県下北半島の付け根に9万2千人の観衆が押し寄せた。むつ湾第1回自動車300kmレース。ストックカーの迫力に観衆は魅了された。
JAFからNACが離脱するなど揺れた時代が生んだレースはまた、時代に飲み込まれてしまったのか・・・
1973 ’73 ツーリストトロフィー500マイル 2008年2月25日
1973
’73 富士1000km(Vol.16) 日本の名レース100選(volume 016)1966年から始まった鈴鹿1000km、その1年後からは富士1000kmも始まる。
トヨタ、日産、マツダら各メーカーからの参加者が集まる中、1973年の富士1000kmは台風に見舞われ雨のコンディションの中、開催された。予選上位を占めた純レーシングカーは本領を発揮できず、日本車のハコ同士の争いが激しく繰り広げられる。優勝は、高橋晴邦・見崎清志のトヨタセリカLBターボが勝ち取った。
1976
`76 F1 イン・ジャパン(Vol.1) 日本の名レース100選(volume 001)日本で初めて開催されたF1GP ―豪雨の中でのレースで、チャンピオンオンシップは大逆転劇。そしてスポット参戦した日本勢は健闘をした。(2006年1月14日発行)
(参考:日本のF1レース1976年 )
1977 ’77富士インター200マイル(Vol.31) 6月25日
1978
 '78JAF鈴鹿GP(Vol.8) 日本の名レース100選(8)'日本のF2レースに、ヨーロッパの強豪ドライバー達が参加して行われた、1978年鈴鹿グランプリは、最高格式を意味するグランプリの名にふさわしいものレースだった。
ヨーロッパから参戦したのは、ブルーノ・ジャコメッリ、リカルド・パトレーゼ、ディディエ・ピローニ、デレック・ウォーウィック、ルネ・アルヌーといった後のF1でもおなじみの名ドライバー達。
彼らを迎え撃つのが、星野一義、中嶋悟、長谷見昌弘、松本恵二、高橋建二、桑島正美ら日本のレース界を代表するドライバー達。
そして、そのレースを制したのは、かって2輪で世界を制し、このレース中に「2輪で世界を転戦していたときの感覚が蘇ってきた」日本レース界の至宝、高橋国光だった。
1979
'79富士300kmスピード(Vol.42) 2008年2月9日
1981
’81鈴鹿1000km 1981年鈴鹿1000kmレース
今や「伝統の」という形容詞さえつく鈴鹿1000kmの初の国際格式レース。
長丁場のレースには、最後の最後に大波乱が待ち受けていた。
1982
’82 WECジャパン(Vol.7) 日本の名レース100選(volume 007)1982年はグループC、いわゆるCカーの元年であった。80年代を代表する名車ポルシェ956と旧規定グループ&規定のランチアLC1、そして国産Cカーの第1号車、トムス童夢セリカC。世界耐久選手権富士6時間レース(通称・WECジャパン)は、世界のレベルを日本のメーカーに見せつけ、日本のメーカーが世界を相手に戦うきっかけを作ったのかもしれない。
1983
`83 全日本BIG2&4(Vol.2)
日本の名レース100選(volume 002)1983.3.13 鈴鹿サーキット。この日鈴鹿サーキットでもっとも注目されたのは、星野との戦いに打ち勝って優勝した中嶋では無く、この日デビューした新人、高橋徹だった。(2006年1月14日発行)
1984
’84 JAF鈴鹿GP(Vol.30) 1984年11月4日F2マシンで争われたJAF鈴鹿GP。ウイナーは自ら立ち上げた中嶋企画からエントリーのEPSONカラーの中嶋悟。この秋からホンダF1活動のテストドライバー契約をはじめ、F1参戦をめざす中での大逆転チャンピオン獲得だった。
close-up{今だから語ろう}には中嶋悟が登場。F1をめざしていた当時の状況などを語る。
中嶋悟のF1参戦が決まる2年半前のレースだった。また、サポートレースのF3では鈴木亜久里が挑戦し、FJ1600では片山右京が勝利を飾る、世間をにぎわしたのは「グリコ森永事件」そんな時代だった。
1985
’85インターTEC(Vol.11) 日本の名レース100選(11)1985年インターTEC
全日本ツーリングカー選手権初年度、スカイラインやシルビア、シビック、カローラなど日本を代表するスポーティカーが覇を競う中、国際レースとして開催されたインターTEC。
来日したのは、ヨーロッパチャンピオンのVOLVO。
無骨でドラッグの大きそうなスタイリング。しかし、国内の車達をまったく寄せ付けない、異次元の走りを見せつけられた。
「空飛ぶレンガ」の異名を、日本のファンに刻み込んだ一戦だった。

’85 WECジャパン(Vol.21)

1985年10月6日。富士スピードウェイには世界耐久選手権レース日本大会。世界選手権で日本人が初めて勝利を記録した大会である。
グリッドにはロスマンズ・ポルシェ962、TWRジャガーXJR6ら世界の強豪達と、ニッサン、トヨタ、マツダらのマシンに乗る日本人ドライバー達。しかし、そのマシンとコースを激しい雨が濡らす。スタンドには雨にもかかわらずスタートを待つ多くのファン達。
「走らなければ観客の期待を裏切ることになる。でも、僕たちは命を大事にしたいと考える」「危険すぎる」1985年の世界耐久選手権ではすでにマンフレッド・ヴィンケルホック、ステファン・ベロフの2人の命が失われていた
雨の中、スタートはきられた。しかし、外国勢は次々とピットに帰りリタイアの道を選ぶ。レースは日本勢の争いとなり、ニッサンの星野一義が勝利を飾る。
そして、この時の星野とニッサンの難波監督の約束によりニッサンは翌86年にル・マンに挑戦を開始することとなったのだった。
1987
’87菅生グループA(Vol.36) 1987年9月20日。3年目のグループAによる全日本ツーリングカー選手権。それまでのグループAをリードしてきたスカイライン、スタリオンといったマシンに、今回初参戦となるトヨタ・スープラ、BMW M3。トヨタがCカーの経験をつぎ込んで作り上げたとされるスープラがデビューウィンを飾る。
close-up{今だから語ろう}には、このレースのウイナーであり、日本でも長く活躍したエイエ・エルグ。「ヤルトキワヤル!」
’87 F1日本GP(Vol.15) 日本の名レース100選(volume 015)10年ぶりにF1が日本上陸。舞台は鈴鹿サーキット。日本人初のフルタイムF1ドライバー中嶋悟の母国での走りに期待が高まる。チャンピオン争いは、予選でのマンセルのクラッシュで決着がついてしまったが、セナ、プロスト、マンセルらの争いに期待が高まっていた。しかし、それらの優勝候補を押しのけて鈴鹿初勝利をあげたのはフェラーリを駆るベルガーだった。地元の中嶋も6位に入賞。このレースをきっかけに、やがては日本にF1ブームが巻き起こることになる。
当時のF1マシンの勇姿は今見てもカッコイイ!
(参考:日本のF1レース 1987年) 
1986
'89 菅生F3000(Vol.6) 日本の名レース100選(volume 006)F1の人気の高まりと共に人気を集めた全日本F3000、1989年第5戦、菅生でもっとも速かったのは和田孝夫だった。しかしレース終盤、アクシデントが襲う。周回遅れとの接触、スピン、そしてラスト1周。ブレーキがきかない。一瞬のコースアウトの後、何とかコースに戻った和田のマシンは後輪が折れていた。それでも、ゴールを目指して走り続ける。後続が迫る。・・・・・・
’86 レース・ド・ニッポン 2008年9月10日
1987 ’87西日本F3000オールスター(Vol.39) 1987年(昭和62年)5月10日日本F3000選手権第3戦
それまではF2で争われた国内トップフォーミュラレースが87年から各主催者と参加者の討議の結果、F3000で争われることとなった。
スタート直後に鈴木亜久里が一気に首位に立ちこれを星野一義が追う。同じく後方から混乱に乗じてなんと3番手まであがったのがロス・チーバー。抜きにくい西日本でチーバーは後続を抑え、後続はしびれを切らす。そして中盤24周目、チーバーと関谷正徳が接触、大クラッシュとなった。
close-up{今だから語ろう}には、鈴木利男。20年目の真実を語る。
1988 ’88 F1日本GP 2008年10月10日
1989 ’89 WSPC鈴鹿(Vol.44) 2008年3月25日
1990
’90 F1日本GP(Vol.38) 1990年10月21日。鈴鹿サーキットはアイルトン・セナVSアラン・プロストのチャンピオン争いの舞台となっていた。そして決勝スタート。1コーナーでプロストのフェラーリにセナのマクラーレンが接触、両者リタイアとなりセナのチャンピオン決定。後味の悪さに鈴鹿のファンは悲鳴を上げた。レースはピケが制したが、2位に入ったロベルト・モレノと3位に輝いた鈴木亜久里の姿は感動を与えた。当時の熱気と混迷を語る記事の再録は読み応えがある。
close-up{今だから語ろう}には、ジェラール・ラルースが登場。ESPOとの提携、鈴木亜久里との思い出などを振り返る。
関連ページ:1990年日本GP
’90インターF3リーグ 1990年インターF3リーグ
F3マカオGPに続いて、富士スピードウェイに集まった世界の新鋭達。迎え撃つ日本の新鋭達。ハッキネンVSシューマッハの争いは、マカオに続いて富士でも展開された。
「こんな素晴らしいF3レースは見たことがない!エキサイティングだ」英AUTOSPORTの記者が叫んだというレースは、まさしくF3世界一決定戦の名にふさわしい、F3史上最高のレースとなった。そして、そのレースを制したのは、21歳のミハエル・シューマッハーだった。
管理人が最も楽しみにしていた1冊。20Pに掲載されたウイニングランの写真が美しい。
1991 ’91 JTCオートポリス(Vol.24)

20年近いブランクを経てスカイラインGT-Rがサーキットに復活したのは1990年。舞台は俗にグループAと呼ばれた全日本ツーリングカー選手権(JTC)。ファンは別次元の速さを見せるGT-Rを見たさにサーキットに向かった。
1991年はこのスカイラインGT-Rが選手権を盛り上げる。総合優勝は、カルソニック・スカイライン(星野一義・鈴木利男)とリーボック・スカイライン(長谷見昌弘・A.オロフソン)青と白のGT-R対決にシリーズは盛り上がり、舞台は第5戦オートポリス。
今回のclose up(今だから語ろう)は長谷見昌弘。あれだけファンを引きつけたグループAレースを長谷見昌弘は「おもしろくなかった」と打ち明ける。そのわけとは・・・・・・・

’91 SWCオートポリス(Vol.10)

日本の名レース100選(volume 010)1991年SWC 九州に出現した最新サーキット,オートポリスには、グループCカー達が集結した。流星を誇ったCカーも、NA3500エンジンの採用から、すでに終演の時を迎えようとしていたのだったが・・・
しかし、メルセデスには、ミハエル・シューマッハ、プジョーにジャン・トッド、ジャガーにロス・ブラウンと、後にF1フェラーリの黄金時代を築くキーパーソンが各ワークスで競い有ってたことは興味深い事実。レベルの高さを証明するエピソードかもしれない。

’91 菅生F3000(Vol.49) 1991年7月28日決勝
全日本F3000選手権第6戦 菅生を舞台に開催されたレースに一人の青年がスポット参戦した。
1990年ドイツF3チャンピオン、同年のマカオGP、富士のインターF3リーグの覇者、ミハエル・シューマッハー、22歳。
当時の全日本F3000では、シャシー/エンジン/タイヤといった主要コンポーネントがすべてマルチメイクで激しい競争が繰り広げられていた。予選用タイヤの存在も全日本F3000の大きな特徴だった。
注目のシューマッハーの体制は、ラルト/無限/ブリジストン。シャシーはもっとも不利と見なされていたラルトだった。しかし、シューマッハーはそのマシンで予選2番手タイムを記録する。
予選1位タイムを記録した服部尚貴は、「身震いするような走りだった。」と語る。
決勝レースでも4番手グリッドからスタートしたシューマッハーは「ありえない」2位表彰台を獲得。たった1戦の参戦ながら、日本のモータースポーツファンと関係者に、シューマッハーはその名を強く印象づけた。
Close up[今だから語ろう]では、服部尚貴が登場。
また「印象記」に再録された当時のシューマッハーのインタビューは、後に皇帝と呼ばれるシューマッハーが彷彿とされる文字通り印象的な内容となっている。
ちなみに、本書のサブタイトルは「SchuマッハGoGoSUGO!」こういうノリ好きです(笑)
1992 ’92インターチャレンヂ500km(Vol.33) 1992年11月1日。実質的にJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)の最後となってしまったレースである。人気を誇ったCカーによるレースもFIAのNA規定などから世界的な葉終演を迎えつつあった。そんな中、日本ではターボ、NAのコンそうという規定により、日産、トヨタ、マツダの各ワークスによる戦いが繰り広げられていた。
JSPC最後の舞台は、今は無き美祢。めまぐるしく変わる天候の中、レースは繰り広げられた。
close-up{今だから語ろう}当時の日産グループCマシンの開発責任を担っていた林義正氏。F1参戦をも視野に入れたNA前人開発、マシン開発、そしてル・マンプロジェクトの中止・・・・。様々な話は非常に興味深い。
印象記ではニッサンNP35、マツダMX-R01、トヨタTS010といったマシン達のテストの模様などが紹介されている。
’92 仙台F3 2008年6月10日
1993 ’93 F1日本GP(Vol.41)  1993年F1日本GP
1994 ’94 F1パシフィックGP(Vol.27) 1994年4月17日、鈴鹿での日本GPに続いて、日本で二つめ(史上3番目)のF1GPが開催された。場所は小山県「TIサーキット英田(現・岡山国際サーキット」
アイルトン・セナは最強のウイリアムズに移籍しチャンピオンをめざし、ベネトンの若き天才ミハエル・シューマッハと対する。
決勝スタートが切られと、セナは1コーナーでミカ・ハッキネンに押し出される形でリタイア。若きミハエルが悠々と勝利を飾った。わずか数100mの走行が、セナの日本ラストランになってしまうとは・・・・
close-up{今だから語ろう}にはコースオーナーであった田中肇氏が登場。当時の開催にこぎ着けるまでの裏話や、観客のシャトルバス輸送計画の裏話が語られる。
関連ページ:1994年パシフィックGP
’94インターTEC(Vol.35) この年から始まったJTCC(全日本ツーリングカー選手権)、2L4ドアセダンをベースとするレースは、最終戦を迎えていた。
1994年10月30日富士スピードウェイ。チャンピオンの可能性を残すのは、トム・クリステンセン(セルモ・コロナ)、スティーブ・ソーパー(BMW)、関谷正徳(トムス・コロナ)の3人。BMWは海外メーカーとして全力で全日本タイトルを奪いに来ていた。
しかし、決勝レース開始前ウォームアップで関谷正徳はスピンしてストップ。さらにソーパーもフォーメイションラップで燃料トラブルからPITに帰る。熾烈なチャンピオン争いを期待してサーキットに集まった観客からは失望のため息が聞こえた。しかし、決勝スタート後にクラッシュが発生し赤旗。関谷、ソーパー2人も決勝スタートを認められた。そして、再スタート。気まぐれな女神と、全力を尽くすレーサー達の戦いは、歴史に残る名レースを演出していく。
{最後まで諦めないことの大切さを身にしみて感じましたよ」JTCC初代チャンピオン・関谷正徳
’94 十勝24時間(Vol.50) 1994年7月23-24日
日本のレースファンが待ち望んだ24時間レースがついに実現した。26年の時を経て復活した24時間レースの舞台は、北海道・十勝サーキット。
当時のレースを伝える誌面には「そして歴史がはじまった」と見出しが躍る。
現在(2008年)15回を終えた十勝24時間レースの始まり。
市販車ベースのNI仕様車を中心にGTカーも参戦というスタイルは今も変わらない。
close up(今だから語ろう)には、橋本健、通称ハシケンさんが登場。ル・マン初参戦のNSXを十勝で走らせた理由、第二期ホンダF1活動後に現れた黒いオリジナルF1マシン「カラス」のいきさつなど、舞台裏の話が疲労されている。
1995    
1996
'96 ITC鈴鹿(Vol.4) 日本の名レース100選(volume 004)過激なハコのレースで人気を集めたDTMが世界戦化されたITC。鈴鹿にやってきたモンスターマシンは、メルセデス、アウディ、オペルのワークス達。鈴木亜久里ら日本人3選手もスポット参戦した、日本で最初で最後のITCレース。
’96 NASCARサンダースペシャル(Vol.48) 1996年11月24日決勝
アメリカで絶大な人気を誇るNASCARストックカーレース。そのNASCARが初めて日本にやってきた。舞台は鈴鹿サーキット(東コース)。ドライバーも、デイル・アーンハート、ジェフ・ゴードン、ロビー・ゴードンらスーパースター達が並ぶ。
日本にはあまり接点が無かったアメリカンレースは、日本のレースファンにある種のカルチャーショックを与える。一見するとローテクのマシンだが、ルールが厳しいだけに激しい競争が繰り広げられた。
地元日本からも、福山英朗、脇田一輝、中谷明彦、土屋圭市の4人が参戦。
翌年からはもてぎに舞台を移し、3年間開催された日本でのNASCARの初年度を紹介する。
close up(今だから語ろう)には、このレースを制したラスティ・ウォレス。
1997 ’97 鈴鹿1000km(Vol.54) 2008年11月25日
1998
'98 CARTもてぎ500 1998年、ツインリンクもてぎにCARTがやってきた。
日本初のオーバルレースは、ホンダが地元での必勝態勢でのぞんでいた。エンジンはホンダ、メルセデス、フォード、トヨタ、シャシーはレイナード、スイフト、ペンスキー、ローラ、タイヤはファイヤストーンとグッドイヤー。それぞれが激しい争いを振り広げ、白熱の初のもてぎ戦を制したのはA.フェルナンデス(レイナード・フォード/FS)で、地元ホンダはトップ8位までに5台を送り込みながらも、地元での勝利はかなわなかった。
   
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