1987年の初開催から20年目の節目となった鈴鹿サーキットでのF1日本GP。しかし、翌2007年は富士スピードウェイでの日本GP開催が決定し、20年目の2006年でひとまずF1は鈴鹿を去ることが決まっていた。
イタリアGPでは、7度の世界タイトルを獲得したミハエル・シューマッハが引退を表明。皇帝の日本ラストラン、鈴鹿でのラスト開催、さらにはスーパアグリF1チームの存在もあり、、鈴鹿には多くのファンが詰めかけた。その数は、6日のフリー走行5万7000人、7日の公式予選14万3000人、8日の決勝日には16万1000人と3日間の動員数は36万1000人を記録。日本のF1ブーム絶頂期だった1994年に記録した35万7000人を抜き、期間中の過去最多となった。
シリーズはアロンソとミハエル・シューマッハが同点で並ぶ、新旧王者の真っ向対決。緊張が走る。
スタート後、PPからスタートしたマッサをミハエル・シューマッハが2周目でパスすると、2位以下を引き離していく。燃料を軽くして予選で3/4位を獲得したトヨタは早めのピットインでポジションを落としていった。
2回目のピットインを終えたのはミハエル・シューマッハが35周目の終わり。アロンソの前でコースに戻り、このまま逃げ切るかと思われた瞬間、ミハエルのフェラーリが白煙を噴き上げる。サーキットにはどよめきが起きる中、デグナーを越えたコースサイドにマシンを止めたミハエルを尻目にアロンソが駆け抜けていく。2007年のチャンピオンがほぼ決定した瞬間だった。
フェラーリがレース中のエンジントラブルでリタイアするのは2001年のアメリカGP(バリチェロがエンジンブローでストップ、記録上は14位扱い)以来、6年ぶり。シューマッハー自身がエンジントラブルでレースを失うのはさらに1年遡る2000年のフランスGP以来という、まさかのエンジンブローだった。
レースはそのままアロンソが逃げ切り優勝。一方のシューマッハはピットに帰ると、チームクルー達をねぎらう姿が映し出されていた。
2006年暮れに急遽参戦を発表し、4年前のマシンをベースに参戦するという厳しいシーズンを送ってきたスーパーアグリF1チームだったが、日本のファンは熱烈な応援を展開した。エースの佐藤琢磨とシーズン途中から合流した山本左近の2人のドライバーは、声援に応えるかのように熱走。15位・17位で2台そろって完走を果たした。
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